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セクサロイドは眠らない

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2002年10月31日(木) 僕は、そっとサオリの膝を撫でる。「可愛い膝小僧だな。」「あら。可愛いのは膝小僧だけ?」「いや。多分、この上も。」

結婚生活七年も経った夫婦だから、僕がこんなことを思うのもしょうがない。

今日から一週間は、楽しい独身生活だ。と。

今朝、妻が一週間の海外旅行に旅立った。

--

空港で、あれやこれやと妻から諸注意をされる僕。

「分かった、分かったって。さ。楽しんでおいでよ。」
「もちろんよ。あなたに言われなくてもね。」

そんな会話をした後、僕は慌てて仕事に向かう。妻を送っていくために、午前中だけ半休を取っていたのだ。

「今日、出席されます?」
出社すると、いきなり、同じ課のサオリが訊いて来た。

「あ?」
「やだ。課長。ちゃんとお知らせしてたじゃないですか。この前入った派遣社員さんの歓迎会。」
「ああ。出席するよ。もちろん。」

ちょうどいいや。今日は、晩飯をどこで食べようかと思っていたところだ。

--

「次、行こう。次。」
「いやもう。明日があるし。勘弁してくださいよ、課長。」

三次会がお開きになると、もう、誰も付き合ってはくれなかった。自分はと言えば、妻がいない解放感から、このまま帰りたくない気分だった。

「課長、お付き合いします。」
あきらめて、タクシーに乗ろうとした背後から、声が掛かった。

サオリだった。

「なんだ。お前。みんなと一緒に帰ったんじゃないのか?」
「あはは。課長が可哀想だから付き合ってあげるんです。」
「そうか、そうか。サオリはいい子だな。だけど、大丈夫なのかよ。さっきだってだいぶ飲んでたろ。」
「課長こそ、大丈夫ですか?」
「ああ。俺は大丈夫だ。」

サオリは、去年うちの部署に配属になった子で、明るい子だった。「じゃあ、もう一杯ビールを飲んだら帰ろう」、なんて言い合っていながら、結局、僕とサオリは飲み過ぎてしまう事になった。

「あたた。」
朝、僕は、ズキズキする頭を抱えて起き上がる。

「大丈夫ですか?」
「サオリ?」
「ええ。ここ、私の部屋。」
「え?そりゃ、まずい。で、今、何時?」
「もうお昼前ですよ。」
「ええっ?」
「しょうがないですね。もう、今からじゃ、電話したって遅い。」
「おいおい。なんで起こしてくれなかった?」
「起こしましたよう。だけど、どうしたって起きないし。吐きそうだって騒ぐし。」
「そうか。すまん。」

結局、会社には正直に、飲み過ぎで体調を壊したからと、謝りの電話を入れた。

「お前はどうしたんだ?」
「私ですか?もう、朝、電話しましたよ。親が倒れたから休むって。」
「そうか。」

まさか、同じ日に一緒に休んだなんて、部署の連中に勘ぐられたらかなわない。

「もうちょっとここで寝ていったらどうですか?」
サオリは、僕にグレープフルーツジュースを差し出しながら言う。

「ああ。そうだな。すまん。」
そのまま、僕は、コテンと眠りに落ちた。

次に目が覚めた時は、周囲は暗くなりかけていた。サオリが薄暗い部屋でテレビを見ている。

「もう、夜か。」
「あ。お目覚めですか?よく寝てましたね。」

サオリは、ふふ、と笑って、
「夕飯、簡単なものでいいですか?
と、訊ねる。

「いやいいよ。もう帰る。」
「ええ?いいじゃないですか。」
「いや。まずいって。」
「今まで、さんざん寝てて、帰るよ、ですか。」
「きみだって、困るだろ。俺がここにいちゃ。」
「いいんです。いつも一人分のご飯作るの、わびしいし。」

僕は、サオリうつむいたのを見て、可愛いな、と思った。そうして、まさか、昨夜は何もしてないよなあ?と、ふと、疑問がよぎった。

「課長、昨夜は何もしませんでしたよ。」
サオリが、僕の心を見透かしたように、言った。

「さすがに、部下に手を出さないぐらいの自制心はあったわけだ。」
僕は、冗談めかして言った。

「うん。まだ、私達の間には、なんにも。」
「まだって。おい。」
「分かってるって。ビールでいいでしょう?」

サオリは、黙って冷蔵庫にビールを出しに行く。夕暮れだったからかな。女の子の一人暮しの寂しさが伝って来て、帰るよ、とも言えなくなった僕は、サオリがかいがいしく動くのを黙って見ている。

夕飯も楽しくて。少しだけ酔った僕は、いい気分になって、いつのまにかサオリに膝枕されていた。

今更、帰るとか、そんな事は言えない雰囲気だった。

僕は、そっとサオリの膝を撫でる。
「可愛い膝小僧だな。」
「あら。可愛いのは膝小僧だけ?」
「いや。多分、この上も。」
「ずっと上は?ね?」
「うん。可愛い。可愛いよ。」

僕は、サオリの顔を引き寄せて、口づける。

「嬉しい。」
素直に微笑む顔が可愛かった。丸顔で、美人とは言いがたいが、サオリは抱かれ上手だった。僕の指に素直に反応する様子が可愛くて、僕は、何度も何度も、「可愛い」とつぶやいていた。

--

早朝、起き出して、僕は身支度を整える。

「帰るの?」
「ああ。着替えないと。髭も。」
「私、もう一日休むわ。」
「ああ。」
「ね。夕飯作って待ってるから。」
「うん。」

まずいな、と、少し思った。だが、妻がいない解放感と、もう一日ぐらい楽しんでもいいだろうというスケベ心から、僕はサオリにうなずいてみせた。

--

「おかえりなさい。」
エプロン姿で出迎えたサオリを見て、僕はドキリとする。

「ただいま。」
と言う僕に、サオリは飛び付いて来た。

「おいおい。すごいご馳走だなあ。」
「だって。待ってる間、手持ち無沙汰だから。」

そう言いながら、サオリは、僕の膝に乗って来る。僕のネクタイを緩めながら、キスをねだるように唇を突き出してくる。

「先にご飯を食べさせてくれないのかな?」
「前菜は、私よ。」

僕は、笑いながら、結局はサオリの行為に身を任せてしまう。

つっ。

その最中、サオリは、感極まったせいか、僕の上で熱に浮かされたように腰を動かしていたかと思ったら、突然、僕の肩に噛み付いて来た。

「おい。痛いだろう?」
「ごめんなさい。」

サオリは、僕の血の滲んだ肩を舐める。痛いのか気持ちいいのか分からなくなって。

ちょっと待ってくれ。

そんなに何もかもきみのペースで進められたら、僕の立場が。おい。サオリったら・・・。

僕が到達点に達したのを見届けると、サオリは、そっと僕の体から下りて、僕の傷口を指で撫でる。

「痛い?」
「ひどいな。」
「ごめんね。」
「いつもこうなのか?」
「分かんない。あなたといたせいかな。いつもはこんなじゃないの。」

サオリは、反省したのか。くるりと背を向ける。僕は、背中から抱き締める。

「ねえ。あなたも噛んで。」
「え?」

僕は、噛む真似をする。

「そうじゃなくて。ちゃんと歯型が残るように。」
「そういうのはちょっと。」
「ね?そうしたら、あなたがいない時間、あなたを思い出せる。」

--

一週間、結局ずるずると、僕は彼女の部屋に泊まり続け、ただひたすら彼女を抱き続けた。

最後の日。

彼女は、泣いていた。

「最初からこうなることは分かってたろう?」
「うん・・・。うん・・・。」

最後の最後、彼女は、泣き腫らした目で僕を見た。
「いいよ。大丈夫。全部なかったことにしてあげる。だけど、一つだけお願い、聞いて。」
「何?」
「服、脱いで。」
「いやもう。」
「違うの。」

彼女は、僕に歯型をつけた。深い深い。それはじんじんと痛んだ。

「ねえ。この傷が痛い間だけ、私を覚えていて。お願い。」
「分かった。」

僕は、傷の事が妻にばれない事を祈りながら、空港へと向かう。

「お帰り。」
「あー。疲れたー。やっぱり、我が家はいいわ。」

妻は、そう言って、部屋をぐるりと見まわす。
「思ったより散らかってないわね。」
「ああ。」
「カップ麺の容器とか、転がってるかと思った。」
「外食したんだ。」
「ふうん・・・。」

妻と僕は、その晩、ピザを食べた。

妻は、旅行の話を、し続けた。

当たり前だが、食事中のセックスはなかった。

僕は、ただ、微笑んで聞いていた。

「あなたはどうだったの?」
と聞かれても、
「別に。何も。」
と。

それから、一週間ばかり、僕は妻を抱かなかった。ただ、傷の痛みを、折りにふれて感じながら、職場でサオリが以前のように明るく仕事をしているのを、やっぱりあれは夢だったかなと、ボンヤリと眺めていた。

週末。もう、いい加減誘わないわけにはいかなかった僕は、ベッドの横に滑り込むと、妻の腰にそっと手を伸ばす。

妻は、微笑んで、僕のパジャマを脱がす。

妻は、じっと僕の愛撫を受け、時折、小さな溜め息を漏らすだけ。

「ねえ。どう?」
「どうって?」
「感じてる?」
「ええ。」

僕は、何かを物足らなく思いながらそそくさと事を終え、ドサリと妻の横にあお向けになる。

「あなた、今日は変だったわね。」
「どこが?」
「どこって。よく分からないけど。途中、感じてる?とか、訊いたりして。」
「そうかな。」

何かが足らない。

「ねえ。」
僕はウトウトし始める妻に、言う。

「なあに?」
「噛んでくれないか?」
「え?何?」
「いや。いい。」

僕は、肩のかさぶたを、撫でる。

どうしたっていうんだろう?

明日あたり、サオリの部屋に電話をしてしまうかもしれない。

この先、どうなってもいいから、あの激しい女を抱きたかった。治りかけの傷が甘い痛みを放っていた。


2002年10月29日(火) 言おうか、どうしようか、随分と迷った。だって、男の子の事だもの。なぜか、ママには言いにくかった。

私は、その夜、ベッドの上で泣いていたの。そうしたら、ママが部屋まで来て、
「アンナ、どうしたの?」
って訊いてくれた。

私の髪を撫でながら、
「大好きなアップルパイも食べてくれないから、ママ、心配よ。」
とも。

私は、言おうか、どうしようか、随分と迷った。だって、男の子の事だもの。なぜか、ママには言いにくかった。小学校五年にもなったら、誰が誰と付き合っている情報だとか、自分は誰と相性がいいか占う方法だとか、そういう話題が女子の間では持ちきりだったけど、私は、そういう事をママに何でも言うのは照れ臭かったから。

「言いたくなかったら、いいのよ。」
ママは微笑む。

「ねえ。ママ。ママは迷ったりしないの?」
「何を?」
「たとえば、うーん、パパとの結婚のこととか。」
「結婚?」
「うん。」
「アンナは結婚に興味があるの?」
「そうじゃなくて。ええっと。男の子のこと。」
「あら。素敵。アンナは男の子に興味があるのね?」
「素敵?」
「ええ。そうよ。素敵だわ。ここがドキドキして、怖くなったり、あったかくなったりするでしょう?」

ママは、私の胸の辺りを指さす。

「うん。」
そうだ。ママは何でも知っている。

「ねえ。ママ。私、好きな子がいると思ったの。」
「あら。どんな子?」
「んーと。勉強がよくできて。それから、サッカーもやってて。」
「じゃあ、人気者なの?」
「うん。割とモテる。」
「で?」
「占いの相性もバッチリで、96%が出たの。だから、告白したの。」
「あらあら。」
「で、彼もオッケーくれたのね。」
「そりゃ、アンナ、可愛いもの。ママに似て美人さんだし。」

私は、くすっと笑う。

「だけど。ね。ママ。変なの。隣の席の男の子がね。この前、私に音楽雑誌貸してくれたんだけど。音楽の話でね。すごい盛り上がって。」
「それのどこが変なの?」
「その子、顔もそんなにかっこよくないし。いつも、シャツの裾が出てるし。弟が沢山いるから、そんなに裕福じゃないし。デートって言っても、秘密基地とか言ってるし。本当に馬鹿みたいなのにね。」
「あら。そんな子、ママ、好きよ。」
「私も、なんだかその子が気になるの。カレシがいるのに。でね。どうしたらいいか分からなくて、考えてたら悲しくなったの。」
「恋なのかしらね?」
「分かんない。ねえ。ママは、どうしてパパだけって決められたの?」
「さあ。どうしてかしら。そういうのはね。分かるものなのよ。本当に大事な時が来たら。」

それから、ママは、アンナが泣くのを見てるのは少し悲しいから、お話をしてあげるわ、と言う。

「どんな?」
ママのお話は大好きだった。小さい頃は、いつもしてもらっていた。でも、最近はしてもらってない。子供っぽいから。でも、今日は特別。

「そうね。貧しい魔法使いの夫婦のお話。」
「魔法使いなのに、貧しいの?」
「ええ。そうよ。魔法使いは、自分達の欲のためだけに魔法を使ったらいけないの。」
「じゃあ、どうやって暮らしを立てているの?」
「ちゃんと畑仕事したりして。その夫婦には、二人の娘がいました。上の娘のほうは、怠け者でね。ブーブーと文句ばかり言ってて。おしゃれが好きで、食いしん坊。下の娘は、聞き分けが良くて、笑顔が飛びきり素敵で、よく家の手伝いをしていたの。」
「じゃあ、下の娘が王子さまか何かと結婚して、ハッピーエンドね?」
「どうかしらね。ある日、その家族には、とうとう食べる物がなくなった。夫婦は困りました。さて、どうする?」
「ええっと。魔法を使って食べ物を出す。」
「ここまで我慢したのに?」
「うーん。」
「夫婦は、お姉ちゃんのほうを連れて出掛けて行きました。妹は少し不安になりました。お父さんとお母さんは、日が暮れてからようやく帰って来ました。」
「どこに行ったの?」
「お姉ちゃんは、いませんでした。お父さんとお母さんは、少し悲しそうな顔をしていました。それから、テーブルの上に、ドサリと豚の肉のかたまりを置きました。そんな立派な肉は久しぶりに見たので、妹のほうは思わず顔を輝かせました。それから、ふと、お父さんとお母さんの表情に気付いて、『お姉ちゃんは?』と訊ねました。お父さんが言いました。『お姉ちゃんはね。遠い町に奉公に出てくれた。そのお礼のお金で、この肉を買ったのだよ。』と。妹は、『そんな・・・。』と思いました。いじわるなところもあったけど、ずっと一緒に暮らしていた家族だから。でも、お母さんは、悲しい気持ちを振り切るように、『お姉ちゃんの行為を無駄にしないためにも、このお肉をありがたくいただきましょう。』と言いました。実際、みんな、数日ろくなものを食べていなくて、フラフラだったのです。」
「そのお姉さんのほう、さ。よく承知したわねえ。」
「ええ。そうね。妹も、おかしいと思ったの。豚肉の料理を食べながら。でも、塩胡椒であぶっただけのお肉は、すごく美味しくてね。おかしい、おかしいと思いながらも、たいらげちゃったわけ。もちろん、お父さんもお母さんも、おなかいっぱい食べたの。それから、妹は、空腹がおさまったせいで前より冷静になった頭で考えたて、こう言ったわ。『ねえ。これ、もしかして、パパとママが魔法で変えちゃったお姉ちゃんじゃないの?』ってね。頭のいい子だったし、正義感も強かったから、もしそれが本当だったら耐えられなかったのね。パパとママはうろたえたわ。」
「じゃあ、やっぱり?」
「両親は、一言、『感謝しよう。』とだけ言って、他に何も言わなかったの。その夜は、妹は眠れない夜を過ごしたのね。でも、両親は、いつも、遠くに行ったお姉ちゃんに感謝しましょう、とばかり言って。結局、妹は、真相を知らないまま、それでも素晴らしい子に育ったの。そうして、素敵な婚約者もできて、幸福になった。夫婦の自慢のね。あの夜、豚が手に入らなかったら飢え死していていて、この幸福はないと。妹は、思ったのね。夫婦は、妹のほうが幸福になったのを見届けると、安心したように、二人一緒に床に伏せってしまった。」
「秘密を抱いたまま?」
「そうね。さすがにそれはできなくて、母親のほうが言ったわ。あなたのお姉さんのことで話があるの。って。妹は、今更知りたくないと、ちらっと思ったけれど。」

ママは、そこで言葉を切る。

「ねえ。ママ、続き。教えて。」
「そのお姉さんというのはね。本当は、最初から豚だったの。子供のない夫婦が魔法を使って、人間の子供に変えていたのね。それほどに、二人は子供が欲しかった。だから、人間の子供としてすごく可愛がった。その後で、本当の子供が生まれた。それが妹のほうよ。所詮、豚には人間の両親の情愛が理解できなかったのね。だから夫婦は、結局、自分達を守るために、姉のほうを元の豚に戻して食べてしまった。自分達が間違った魔法の使い方をした事を知って、それからは生涯、魔法を使わなくなったの。」
「ふうん・・・。」
「アンナなら、どうしていたかしら?」
「分からない。」
「ママにも分からないわ。でもね。大事な物は、ちょっとした事で入れ替わってしまうっていうお話だなと思うの。」
「ママにとってのパパも、人間から豚になっちゃったりするの?」
「さあ、どうかしら?」

それを聞いて、私はちょっぴり悲しかった。

「パパにとっても、ママが豚になっちゃう日が来るかもね。」

私は、そんな日が来るのは嫌だと思った。

「パパとママは大丈夫よ。驚かせてごめんなさいね。」
ママは、私の頬に触れた。

「相手にとっての自分が大事じゃないものに変わってしまわないように一生懸命頑張ることができるのが、人間なのよ。」
「ママ。」
「なあに?」
「隣の席の子ね。時々、びっくりするぐらい、私の好きなものが分かるのよ。」
「それって、どんな感じ?」
「分からない。だけど、それも魔法かなって思う。」
「そうかもね。」

ママは、笑って、私に「おやすみ。」と言った。

ママには、パパが。パパには、ママが。私もそんな風になりたい、と思った。それから、隣の席の子が、手で鼻をゴシゴシとこする癖を思い出して、嬉しくなりながら眠りに就いた。


2002年10月27日(日) 我慢できなかったのだ。妻の華奢な体を折れるほどに抱き締めて、その可憐な乳房に唇を這わせる。

目が覚めた時、僕は病院のベッドの上にいた。

「気付いたのね。」
妻の顔が見える。

医者や看護婦が集まってくる。

「僕は、どうしたんだ?」
「事故を起こしたの。」
「よく覚えてないな・・・。」
「ええ。ええ。ゆっくりでいいのよ。無理しないで。」

そういう妻は、とても悲しそうな顔をしている。どうしたんだろう?大好きな妻がどうしてそんな悲しそうな顔をしているのかよく分からないままに、僕は、痛む頭を押さえて、目を閉じる。妻のそんな顔は見たくない。何か僕のせいで悲しませているのなら、謝る。最愛の妻。僕の一番大事なもの。

--

退院の日。

医師は言う。
「どこにも異常はありませんでした。ですが、何かあったらすぐ病院の方で診察を受けてくださいね。」
「はい。」

僕は、妻に付き添われて自宅に戻る。

なつかしい自宅。一ヶ月ほど空けていただけの家がたまらなくなつかしい。

「ねえ。今、ハーブティーを入れるわね。」
「そんなのは後でいいよ。」
僕は、妻を抱き寄せようとする。

「待って。体に障るわ。」
「何言ってるんだよ。今すぐきみを抱きたい。」
「ねえ。お願い。少し待って。」
「どうして?」

僕は、病院にいる時から我慢できなかったのだ。妻の華奢な体を折れるほどに抱き締めて、その可憐な乳房に唇を這わせる。

「ねえ。あなた、退院したばかり・・・。」
「大丈夫だ。ね。大丈夫だよ。」

もう、僕は、妻の香りに溺れて、何も聞こえない。

--

退院祝いにどこかで食事をしようか、ということになり、僕は、たまたま手近にあった妻の女性誌に載っていた、イタリアンの店を選んで予約する。ここは、たしか、ワインの種類が多い。

「ワイン、あまり飲み過ぎないでね。」
妻が心配そうに、言う。

「大丈夫だよ。」
僕は、妻を心配させないように笑ってみせる。

車が大破したせいで、妻の車を使っての外出だ。あんな事故を起こしたのだから、少し運転は控えたら?と妻が言うのを振り切って、僕は自分で運転を受け持った。車は大好きだ。第一、なんであんな事故を起こしてしまったのか、どうしても思い出せない。なんでも、僕は深夜、一人でドライブを楽しんでいて、中央分離帯を越えてしまったという。

妻の顔が少しこわばっている。

「大丈夫だよ。事故はしないって。」
「ええ。あなた、運転上手いものね。信じてるわ。」

店は、ほどよく混み合っていたが、感じが良く、僕はすっかり満足だった。

「なかなかいいね。」
「そうね。」
「たしか、前回来た時、僕はワインを飲み過ぎて・・・。」
「前回?」
「ああ。前回・・・。」
「ねえ。あなた、一人で来たの?」
「いや。僕は一人じゃこんな店来ないよ。きみと一緒だったろう?」
「いいえ。私、ここは初めて。」
「おかしいな。僕の記憶違いかな。」

妻は、少し青ざめた顔で僕を見た。
「ねえ。大丈夫?」
「ああ。もちろん。」

どうしたのだろう。退院してから、何かが少し噛み合ってない感じ。

だが、僕は以前、確かに誰かとここに来て。何年も前、別の女性との話だろうか?目の前の女性と僕は、ワインを飲みながら、アレコレと話を。だが、それが誰かは思い出せない。

「帰ろうか。」
「帰りは私が運転するわ。」
「ああ。頼む。」

帰り、僕も妻も無言だ。

「なあ。」
「ん?」
「あの晩の事。教えてくれないか。」
「教えてって。あなた。話した通りよ。」
「一体僕はどうして車に一人で?」
「分からないわ。」
「きみ、何か隠しているんだろう?」
「いいえ。まさか。」

妻を困らせるのは本意ではない。僕は、そのまま口をつむぎ、窓の外を眺める。

--

夜中、夢を見る。

僕と、目の前の女性は、笑いながらワインを幾杯も。無口で小食な妻と違って、その女性はよくしゃべる。僕は笑う。彼女も笑う。つい、料理を頼み過ぎ、ワインを飲み過ぎる。

僕はそこで目が覚める。

誰だ?

僕は、事故の夜、誰かと一緒にいたのだろうか?

--

「なあ。ちゃんと話してくれ。僕は、誰といたんだ?」
「誰って。そんな事、私が知るわけないでしょう?」
「僕は、きみが知るはずのないあの店で、誰か知らない女と話をして笑っていた。」
「だから。それは、私の知らないところで起こった話。」
「事故の時、助手席には誰かいた?」
「いなかったわ。いるわけない。いたら、今頃もっと面倒な事になってたんじゃない?」
「それもそうだな。」

僕は、知らず知らずに掴んでいた妻の腕を放し、キッチンの椅子に座り込む。

「なあ。信じてくれよ。僕にはきみだけだ。」
「分かってるわ。」

だが、妻の言葉はどこか冷ややかで。

僕は、頭を抱えたまま、妻がキッチンのドアを出て行く音を聞いている。

その夜から、僕と妻は、抱き合わなくなった。折りにふれ、僕は妻を抱こうとするが、妻の体は固くこわばって僕を拒絶する。

僕のせいか?

誰だ。僕と妻の間にいた、もう一人の女。

--

夢を見る。

その女の声は、か細く高い妻の声と違い、むしろ低く落ち着いた声。小柄な妻と違って、すらりと伸びた足が健康的な、バストの豊かな女。

その女の声が、僕に物語を読んで聞かせる。あるいは、僕にねだる。愛撫を。

僕は、飛び起きて妻のほうを見る。妻は、僕に背を向けて、丸くなって眠っている。

信じてくれ。僕が愛しているのはきみだけだ。きみだけを、生涯賭けて。

--

「私達、別れましょう。」
妻の声が冷たく響く。

「どうして?」
「どうしてって。分かるでしょう?私達、こんななのよ。」
「だが、何もはっきりしていない。もう一人の女がいたのなら、彼女を見つけ出して、ちゃんと話を聞こう。」
「随分とひどい事が言えるのね。そんな事、よくもまあ。私の心をずたずたにして。」

妻は、震える声で言う。

そうなのか。本当に、そう思うか。この僕の心を疑うか。だが、僕には反論できない。

--

「さようなら。」
妻は、つぶやく。

もう、その目は、僕のほうを見ない。

「ああ。行ってくれ。」
「ねえ。私・・・。」
「分かってる。」

妻を待って、玄関先には一台の車。僕がこんな調子だから、何かと相談に乗ってくれる人が必要だったの、と、妻は弁護士をしているという、その男のことを説明した。

ああ。好きにしてくれ。どっちみち、きみが不貞を働いたとしても、先に悪い事をしたのは僕なんだろう。多分。

--

僕は、一人になった。

何もかもがあっという間だった。まだ、僕は事故の後病院で眠っていて、長い長い夢を見ているんじゃないだろうか。そんな風に思わないとやりきれなかった。謎の女は、僕の脳にかすかな記憶だけを残して、消えたきり。

おかしいな。おかしいだろう?ねえ。まるで、僕の人生をほんのちょっと突ついて、妻との離婚を画策して、また、そのままいなくなってしまった。

なんのために?

さあ。

--

町で、一人の女を見かける。あの女だ。

僕は、行き交う人の間を縫って、その女を追う。

やっと追いついた。僕は、女の肩を掴む。

ゆっくりと振り向いた女は、恐怖の表情。

--

「どういうこと?」
「知らない。」
「知らないわけはないだろう。きみは確かに僕の人生のワンシーンに登場している。」
「でも、知らないわ。」

ああ。この声。低く、官能的に響く。

「僕と、ワインを飲んだ?」
「ええ。」
「それから?」
「すぐ別れたわ。」
「それだけ?」
「ええ。それだけ。」
「僕はどうしてきみとワインを?」
「あなたは、あの日、一人で奥様を待ってらしたの。待ち合わせだったとか言ってたわ。で、あなたのテーブルのお水がひっくり返った拍子に、私のドレスにかかって。」
「僕は、どうしてその日の事を覚えていないのだろう?」
「薬を。奥様から頼まれて。ごめんなさい。」
「妻が?なぜ?」
「分からないわ。恰幅のいい男性もそばにいた。金は出すからと。私、お金に困っていたから、それだけの事ならと引き受けてしまったの。薬をワインに混ぜて。後は話し相手をしてくれたら、と。それから、適当なところで切り上げて、帰るように勧めたら、あなた、絶対、自分で運転して帰るって。」
「よく分からないな。全部仕組まれてたって事?」
「多分。あのお店の給仕さんも頼まれたんじゃないかしら?お水を引っくり返すようにって。」
「きみは、そのタイミングで、そこを通り掛かれと?」
「ええ。」

彼女は、震える手にハンカチを握って、目から涙を流している。

「僕は何もかも失った。」
「何もかも?」
「ああ。妻が全てだった。だから、妻がいない今、何も持ってないも同然だ。」
「ごめんなさい。私、とんでもない事をしてしまったのね。」
「いいんだ。悪いのは、妻だ。」

よしてくれよ。泣きたいのは僕だ。多分、妻は、僕から離れたかったのだ。自分は無傷で。

「私、お金をお返しします。それから、もう、二度とあなたを悲しませないように、遠くの町に越します。もっと早くそうすれば良かった。」
「いや。きみに会えて良かった。いろんな事を知る事ができた。」
「でも、あなたを悲しませてしまったわ。」

女は、立ち上がる。

「待ってくれ。」
僕は、叫ぶ。

「行かないでくれ。」
「だって、私の顔なんか見たくもないでしょう?あなたから奥様を奪ってしまった。」
「いいんだ。妻は、もう、とっくに僕から離れていた。」
「私にできる償いなら、何でもします。」
「じゃあ、僕のそばに。」
「・・・。」
「きみを探していた。ずっと。夢の中で、きみの声が何度も何度も、響いて。僕はもう一度聞きたいと思っていた。」

女は座り直す。
「ねえ。私は、お金のために、理由も知らずに人を傷付けるような事をした女よ。」
「だけど、きみは僕のために泣いてくれた。」
「私のために泣いたのかも。あなた、可哀想だわ。でも、それは私が可哀想だから。」
「あの夜、笑い合って楽しかった。そうじゃない?きみは。」
「それは・・・。」

女の瞳が夢見るように動いた。
「ええ。とても。あんなに笑ったのは久しぶりだった。」

思い出したんだよ。僕は、あの夜、ワインではなく、女の声に酔っていた。その直前までは、僕は僕の妻への恋心に酔っていたというのに、だよ。


2002年10月25日(金) そっと男の胸に頬を付けた。「あたたかい。ねえ。誰かとこうやって寄り添うのは、あたたかいわね。」

若い母親は、半狂乱になって泣いていた。雨が続いて増水した川、子供が飲み込まれてどこを探してもいないから。町の人々が総動員で捜索しても、見つからなかった。

若い母親は、自分のせいだと思った。夫がいなくなってから、一人で子供を育てるのはクタクタで、この子さえいなければいいのにと、思わない日はなかったから。

サトルは敏感な子供だったから、そんな母親の気持ちを知っていたに違いない。そうして、大雨なのに外に遊びに行くと言って、ふらっと出て行った。黄色い雨ガッパを川のそばで見かけたという人がいた。まだ、サトルが死んだとも決まっていないのに、若い母親は自分を責め続けた。私のせい。私のせい。私のせい。

--

病院に呼ばれたのは、次の日の深夜だった。

「外傷はありません。お子さんは無事ですよ。」
「ああ・・・。」
母親は、安堵のあまり泣き伏した。

「ですが、目を覚まさないのです。」
「どうして?」
「理由は分かりません。しばらく様子を見てみましょう。」

母親は、その日は病室に泊まった。我が子の眠っている顔を見ているだけで良かった。時折、本当に死んでしまったのではないかと耳を澄ませると、穏やかで規則正しい寝息が聞こえて、ホッとする。

目を覚ましたら、真っ先に謝ろう。そうして、抱き締めて。あなたが必要なのと、ちゃんと分かるように伝えよう。

そんな事を思いながら、ベッドに突っ伏したまま、眠った。

--

だが。次の日も。また、次の日も。

サトルは目を覚まさなかった。

母親は次第に焦り、医者に何度も、どうなっているのかと問いただした。が、医者も首を振るばかり。点滴に繋がれたまま、サトルは眠り続ける。頬はバラ色で、今にも笑い出しそうな顔で。でも、揺すっても、つついても、その目は開かれなかった。

母親は、また、少しずつ疲れて行った。仕事帰りに立ち寄る病院で、ひたすら眠る我が子の顔を見る事に。それでも、この子が目を覚ましたらできるだけのことをしてあげたいと、洋服を買ったり、おもちゃを買ったり。

--

その男は、突然、訪ねて来た。

「どなた?」

少し悲しい目をしたその男は、
「『浮良』という生き物の研究をしているのです。」
と、答えた。

「ふら?」
「ええ。」
「なんですの?それは?」
「人の夢を食べている生き物です。」
「何を言っているのかよく分からないわ。」
「『浮良』は、川の底などにひっそりと住んでいて、時折迷い込んだ人間の夢を食べます。夢を食べられた人間は、そのまま目を覚まさなくなります。眠ったまま、意識は浮良の中を漂うのです。」
「ごめんなさい。あなたの言っている事はさっぱり。」
「信じても、信じなくてもいい。」

男は、悲しそうだけれども、誠実な目を母親のほうに向けて、淡々としゃべった。

「悪いけど、あなたの言葉を聞いて真に受ける余裕は、今の私にはないの。そうでなくても、親戚やら周りの人が私を責めるから、疲れちゃったのね。」
「また、来ます。何かあったら、電話ください。」

--

母親は、名刺を見ながら、ぼんやりと考える。もし、あの人の言っている事が本当で、サトルを救う方法があるのなら、私はあの人の話を聞く必要があるのじゃないかしら?もう、誰も手を差し伸べてくれる人がいない状況の中で、唯一、あの男性だけが、少しは気休めになるような話を持って来てくれたのだもの。

母親は、ゆっくりと、受話器を取り、その電話番号を押した。

--

「で?サトルを救う方法は?」
「手を握って話し掛けてやる事。本当に戻って来て欲しいと願う事。」

それだけ?なんだ。もっと、魔法みたいな方法があるのかと思った。

若い母親は、ほんの少し、ガッカリした。

「今だって、そうしてるわ。」
「大事なのは、根気良く続ける事。決してやめない事。」
「やめないわ。」
「本当に戻って来て欲しいと願う事。」

母親は、そんな当然の事、と思いながら、コーヒーを勧めた。

「ねえ。あなた、どうしてこんなところで、私の子供なんかを気にかけてくださるの?」
「僕自身が夢を食われていたからです。」
「あら。そう。」
「『浮良』に食われてしまうと、気持ちがいいんです。このまま、帰りたくないと思う。大概は、『浮良』に目をつけられるのは、現実の生活を上手くやり過ごせない人間ですから。」
「・・・。」
「ああ。失礼。あなたのお子さんがそうという意味では。」
「いいんです。多分、本当にそうだったから。」
「僕もそうだった。仕事は上手くいかなかったし、恋人との結婚は反対されて。もう、自暴自棄になっていた。そういう人間を探しているんですよね。ヤツは。」
「で?あなたは、どうやって戻ってこれたの?」
「恋人のお陰なんです。いつもいつも、僕の手を握って。そうして、僕が戻ってくる事を願ってくれた。」
「そうなの。素敵なお話ね。」

男は、黙り込んだ。

若い母親は、唐突に、その男の悲しみに気付いた。
「ねえ。その恋人とは、その後どうなったの?」
「別れました。残念ながら。」
「そう・・・。」

若い母親は、そっと男の手を取った。そうして、自分の腰にその手を回すと、そっと男の胸に頬を付けた。
「あたたかい。ねえ。誰かとこうやって寄り添うのは、あたたかいわね。」

男は、しばらくそうやって、彼女の体温を感じていたけれど。

そっと、彼女の体を押し戻すと、
「お子さんのところに戻ってあげてください。」
と、言った。

「もう、ここへは来てくれないの?」
「ええ。僕が伝えることは伝えて終わりましたし。」
「ねえ。本当は何が目的だったの?」
「ただ、僕と同じように救われる人がいれば、と。」
「で、私は、また一人になるのね。」
「そうじゃない。あなたには、サトルくんがいるし、サトルくんには、あなたがいる。」
「ねえ。お願い。ここにいて、私を支えてよ。」
「無理です。最後には、あなた一人が、サトルくんを救えるのだから。」
「そうやって、行ってしまうのね。」
「ええ。僕ができるのは、アイツに食われてしまった人間を取り戻す方法を教える事だけなんです。」

男は、そう言って、その安アパートのドアを後にした。どこかで、開きっぱなしのドアがバタバタと音を立てていた。

--

男は、帰宅すると、そこで微笑む写真立ての写真に話し掛ける。

今日は、本当に、あの若い母親を抱き返してしまいそうになった。あの母親はきみに良く似ていた。きみも、今頃は、あんなふうな母親になって、サトルくんみたいな子供を抱いているのかもしれないな。

あの母親には、最後まで言わなかった事。

僕をくる日も見舞っていた恋人は、ある日とうとう疲れてしまって、僕が現実に戻ってくる直前に、違う男の手を取ってどこかに行ってしまった。僕は、『浮良』の中で、ずっと彼女の声を聞いていたから、戻って来れたのに、戻って来た時には、もう、その人はいなかった。看護婦さんの、気遣うような笑顔だけが思い出される。

あれから随分経ったけど、きみは幸福になれているだろうか。もし、きみの大事な人が『浮良』に連れてかれちまったら、僕を呼んで欲しい。今、きみにしてあげられるのは、そうして、僕がきみに返せるものは、それだけ。

だけど。ああ。

大変なのは、夢から覚めた後。夢の心地良さが、現実の重さを一層際立たせる。

どうしても辛かったら、戻っておいで。あの日、戻ろうとする僕に『浮良』はそう言ったのだ。


2002年10月24日(木) 僕を抱き締めた後のママの頬には、薄い切り傷ができていて、血が滲んでいる。僕はハンカチを取り上げて、

「痛い。痛いよ。」
母が、私の手の甲をあんまり強くつねるから、私は、途中から泣き出していた。

「ねえ。マサエ。痛いのは、辛い?」
「うん。」
「だけどさあ。パパは、あんたに痛い事しなかったけどさ。あんなにマサエの事、可愛がってたけどさ。あたし達を捨てて行っちゃったよ。」
「・・・。」
「ねえ。言葉ってさ。あてにならないよね。ずっとそばにいるとか。もう、目の前からいなくなったら、そんな愛があったのかどうかも分からなくなっちゃって。だけどさ。傷はいつまでも体の中でじくじくと痛み続けるのよ。」

お母さん、何言ってるか分からないよ。お母さん。それよか、笑ってよ。お父さんがいた時みたいにさあ。あの頃、お母さんはいつも笑ってた。

--

僕の体は、いろいろと問題があった。だから、病院から出られないのだ、と、医者は説明した。もちろん、僕は分かっていて、大人しく病院にいる。

ママは、忙しい。出て行ってしまったパパの代わりに仕事をし、僕を育てているからだ。仕事が終わってから病院に来る頃にはママはすっかり疲れている筈だが、ママはそんな事を感じさせない笑顔で、僕に図書館で借りた本なんかを読んでくれる。

「いいお母さんだね。」
「素敵なお母様ね。」

周囲がそう言うから、僕は笑ってうなずく。

僕はママを喜ばせようと、ママが来たらそのことを伝える。
「今日、主治医の先生がね。きみのところのママは頑張り屋さんだね、って僕に言ったよ。」
なんていう風に。

そう言うと、ママは、
「違うわ。」
と、言う。
「本当の頑張り屋さんは、あなたよ。」
「だって、僕は何もしてない。ベッドで本を読んだり、絵を描いたりしているだけで。」

ママは、唇をきゅっと結んで、首を振る。
「いいえ。あなたは、今、ゆっくりゆっくり、体の中が成熟しているの。ママには分かるわ。あなたは強い。」
よく分からなかったが、僕はうなずく。

「ああ。あなたが、ママの救いよ。」
ママは、僕を抱き締める。

ママ、そんなに強く抱き締めないで。そうしたら、ママが。

やっぱり。

僕を抱き締めた後のママの頬には、薄い切り傷ができていて、血が滲んでいる。僕はハンカチを取り上げて、ママの顔の血を拭く。

「ありがとう。」
ママは微笑む。

そうして、
「また,明日の朝、寄るからね。」
と言って、病室を出る。

僕は、玩具に囲まれたベッドの上にドサリと体を投げ出す。どうしてかな。最近、ママが見舞いに来ると、ちょっと疲れる。ママは、ほっそりとした美人で、僕にも自慢の母親なんだけど。中身までもが、壊れそうに見えるせいかな。僕は、ママが置いて行った、少々子供っぽ過ぎる児童書を放り出して、窓の外を見る。

--

僕の体は、誰にも抱き締められない。

原因不明の皮膚が固くなる病気で、今では、ゴツゴツとした岩のようになっている。岩男。そんなあだ名を、自分で自分につけている。皮膚が固いせいで、体毛も生えない。特に、頬や腕や足などは、厚い皮膚に覆われている。腹部から性器、瞼や耳の裏などは比較的普通の皮膚に近い。

僕を抱き締めると、僕の岩肌に触れて、相手の皮膚が血を流す。

--

「どうかな。調子は。」
ママが僕の病室に来ている時に限って、ハンサムな僕の主治医は、僕の様子を見に来る。

「いつもと同じです。」
「そうか。良かった。」
「手の平は、もうそろそろ、ヤスリを掛けて欲しいんですが。」
「ああ。看護婦に言っておこう。」

そんな事務的な会話の後、医者は、僕のママのほうに向き直って、
「お子さんは、非常に順調ですよ。」
と、気休めを言う。

順調も何も。悪くならない代わりに、良くもならない。

「あちらで、今後の治療方針について話し合いましょう。」
医者は、母の肩を抱いて病室を出て行く。

結局は、母のために、僕の治療を必死でするわけだな。

--

最近、気付いた。

ママは、僕をわざときつく抱き締める。かならず、どこかに傷を付けるために。そうして、「大丈夫よ」と微笑む。もう、僕は、十ニ歳だから、ママに抱き締められたいと思う年齢はとっくに過ぎているのに。だから、ママが来るとイライラするのかもしれない。

ねえ。ママ。もう、僕は抱き締められなくても平気だよ。ママは、僕をずっと抱き締めていてくれてたから。多分、他の子供が一生かかっても、こんなには抱き締められないぐらいの回数抱き締められたから。

その言葉が言えなくて、今日も、僕はママに抱き締められるままになる。

僕の皮膚は固い。ガラスの破片でさえ、僕の体を傷付けない。ずうっと幼い頃は、それでも、僕は普通の子供みたいな皮膚だったらしい。いつからか。奇妙な病が僕に取り付いた。

--

たまたま偶然だった。

病院の屋上で、ママの声がする。よく聞くと、僕の主治医の声も。僕は、驚いて足を止め、物陰に隠れる。

「返事は、まだ聞かせてもらえないのだろうか?」
「例の件ね。」
「ああ。」
「無理。随分と考えたのだけれど。」
「どうして?」
「だって。あなたは、私だけが欲しいのでしょう?」
「ああ。そうだ。だが、家族として愛する努力はする。」
「無理よ。あの子の事も、あの子の病気の事も、全部愛してくれなくちゃあ。」
「それは・・・。だから、少しずつ。」
「ねえ。本当に?あなた、多分、あの子に嫉妬するわ。あの子の病気に、かしらね。あの子の父親もそうだったのよ。」
「やってみなくちゃ、分からないだろう?」
「分からない、なんて言葉で、幸福を約束するつもり?」
「ああ。誰だって先の事は分からない。」
「ねえ。私は、今で充分不幸なのよ。これ以上不幸になるのは嫌なの。」
「じゃあ、どうすれば?」
「結婚は、しないわ。私、あの子を離れない。」
「きみこそ、なんでも子供のせいにするんだな。」
「そう思われてもいいわ。私は、あの子と、あの子の病気と、ずっと生きて来た。今更、切り離して自分の幸福なんか考えられないもの。」

そこまで聞いて、僕は、その場を離れた。ふらふらと病室に戻ると、ベッドの足元に倒れた。

その日から、僕は、熱を出し、吐き続けた。

ママが半狂乱になって泣くのを無視して、僕は、熱の中をさ迷った。

ママ、あっちへ行ってよ。

僕は、声を出す事もできず、眠り続けた。

夢の中で、パパがいた。パパは、こっちを見て手を差し伸べていた。僕は、パパの手を取ろうとして、ためらった。僕の体がパパを傷付けるから。パパは首を振って、僕に近寄ると、手を取って抱き締めて来た。

なぜか、その時、とても不安だった。

だが、パパは傷付かなかった。

ああ。そうだ。ここは夢の中だから。

僕は、安心して、そのまま抱かれるままに。

パパが僕を撫でる。僕の体から、ポロポロと固い皮膚が落ちて行く。僕は驚いてパパを見る。
「ママが、きみをこんな風にしてしまった。」

そこで夢が終わる。

--

「気が付いたのね。」
ママがいた。すっかりやつれて。

「あっちへ行って。お願い。」
「何て事言うの?」
「ねえ。お願いだ。あっちへ。」

僕はようやく声を振り絞ると、ナースコールを押す。

僕は、主治医に頼んで、面会謝絶にしてもらった。ママさえも遠ざけて。その日から、僕の皮膚は、夢の中と同じように、少しずつ固い皮膚が落ちて。

「驚いたな。」
主治医は、僕のきれいになった腕を眺める。

「まだ、ママに会いたくないのかい?」
「うん。先生には悪いけど、お願い。もう少し、ママを遠ざけていて。今、ママに会ったら、また、僕は元の体に戻ってしまう。」
「分かった。」

主治医は、溜め息をついて。

「ママにそっくりな顔だったんだな。」
「うん。」
「一つ、訊いていいかい?」
「何?」
「きみはママを憎んでいるのかい?」
「まさか。愛してるよ。でも、多分、こんな風になった僕を、ママは前のようには抱き締めてくれないと思う。」
「そうか。」
「先生も、ママの事を愛してるんでしょう?」
「ああ。あの人の愚かなところも含めてね。」
「だったら、そばにいてあげて。」
「うん。きみは大人だな。」
「あんなだったから。ずっと殻の中で考えていたんだ。殻から出たら、虫だって一回り大きくなるでしょう?」
「ああ。そうだな。」

主治医は、僕に手を差し出す。僕は、その手を強く握って、握手を。

「まったく。僕や、きみのママにも、目に見える殻があればいいのに。」
主治医は微笑んで、部屋を出て行く。

僕は、主治医に用意してもらったリュックを背負って、こっそり病室を出る。

誰も、僕とは気付かない。あまりにも、岩石の体を見慣れていたから。僕は、久しぶりに外の空気に出て、空気を思いきり吸う。

あまり長時間、日に当たらないように。

体が辛くなったら、電話しておいで。

そんな事が書かれた紙を握り締め、僕は、パパを探しに行く。

さよなら。ママ。


2002年10月21日(月) その気にならない彼が背を向けて寝ようとするのを、彼がその気になるまで辛抱強く右手を動かした。

「ああ。来たの?」
彼は、私を見て、少し不満そうな声を出す。

「うん。約束してたじゃない。」
「そうだっけ?」

私は、スーパーの袋を差し出して見せて、
「鍋、しようってさあ。」
「ああ。そうだったな。うん。あがれよ。」

彼は、ようやく笑顔を見せる。

「今日、何してた?」
「うーん。何してたかな。本屋を何軒か回って、それから、秋物のジャケット買って。そんぐらい。」
「そう。いい本、あった?」
「今日は何も買わなかったよ。」

それから、テレビに目を向けてしまうから、私は、仕方なく会話をやめて、キッチンで食材を取り出す。私には訊いてくれないのね?私が今日何をして、誰と会ったか。

どこに何が収納されているかすっかり心得ているキッチンで、私は、慣れた手つきで料理を始める。当たり前じゃない。ここにあるものは、全部、二人で買ったんだもの。あの頃は楽しかった。休日の昼間はいつも一緒で、ここに越して来たばかりの彼の部屋のものを一緒に買うのは、新婚夫婦みたいな気分になれて、幸福だった。

「ビール、あったっけ?」
彼が、テレビから目を離さずに、訊いてくる。

「あ。うん。あるみたい。」
「ならいいや。」
そのまま、彼は、野球に戻り、私は一人で材料を刻む。そうだ。前は、手伝うよ、と言ってくれて、一緒にキッチンに入って、ふざけながら野菜を洗ったりしていた。

いつから、こんなになったんだっけ?

「あなたたち、もう夫婦みたいなもんだね」、って友達が言った時、どうしてあんなに胸が痛かったんだっけ?
最後に抱かれてから、どれぐらい経つだろう。多分、三ヶ月とか、それぐらいになる。あの時も、私がせがんだのだ。それで、なかなかその気にならない彼が背を向けて寝ようとするのを、彼がその気になるまで辛抱強く右手を動かした。あの時が、最後だ。

「運ぶの、手伝うよ。」
「ああ。うん。じゃ、お皿、お願い。」
私達は、もう、恋人同士じゃなくなって、兄妹みたいになっちゃったのかな。

別れるのなら、今のうち。

そんなこと、考えてみる。だけど、難しい。一人になるのは、難しい。秋に独りぼっちになるのは、随分と勇気が要る。

本当のところ、私には理解できなかった。彼は、私を友人のようには大事にしてくれるけれど、女性として愛してくれる事はなくなった。多分、私に魅力がないのが悪いのだろうけれど。それでも、寂しかった。どうして、私が近寄ると、彼は、やんわりと拒絶する。体だけではなく、心も。

--

その変化に気付いたのは、パンプスが履けなかったから。足がむくんだのか、昨日まで普通に履いていた靴に、足が入らなくなってしまった。

「やだ。太ったのかな。」
でも、そんなに急に、足って大きくなるものだろうか。

すぐに戻るかと思ったが、結局、二日しても三日しても戻らないので、私は、仕方なく女性の靴の中でも大きいサイズを選んで、何足か買う。とんだ出費だ。

--

そうしているうちに、足が毛深くなって来た。

「やだ。何?」
男性のように濃い毛が、剃っても、生えて来る。

どうしちゃったの?

ホルモンのバランスがおかしくなっちゃったのかな。最近、セックスもしてないし。仕事でストレス溜めてるから、男性ホルモンが増えたとか。

私は、取り敢えず、スカートを履くのをやめた。仕事の休みが取れたら病院に行こう。

心なしか、足は一回り太くなり、男性の足のようになってしまった。

きれいな足だね。かつて、彼がそうやって私の足に唇を這わせた事を思い出し、夜中に涙が出て止まらなくなった。

--

三週目。

私は、その頃には、私が変化しようとしている方向を理解した。つまりは、私の体は、男性の体になって行っているのだ。

私は、仕事を辞めた。性器が、男性のものになってしまったのだ。

私は、その時にはもうその事を予想していたとは言え、やっぱり、トイレでその事実を確認した時は、泣き出してしまった。

もう、放っておけば、私の体は、このまま全部男性になってしまう。そうしたら、恋人は、私を二度と・・・。だが、彼に電話をするのは怖かった。この体を見られるのが。

そのうち、朝起きたら、全ては夢で。なんていうことになるんじゃないかしら。

そう、いつも期待するのに、駄目だった。私の変化が、私の乳房まで迫って来た時には、私は、ただ、私の乳房を抱き締めて眠った。以前、あの人に、吸われて、私は喜びの声を上げた。そんな記憶を辿りながら、眠った。

朝にはもう、ただ、平らで固い胸が、そこにはあった。

--

それは単純な変化、というのではなかった。誰か、まったく別の人生に乗っ取られて行くような感覚。そのペニスは、かつて私が知っていたどれとも違い、それでも、もう充分に男性のそれであって、興奮したり喜んだりすると、はっきりと反応を示すようにもなっていた。

電話が鳴っている。

そういえば、彼とは、変化が始まってからは一度も会っていなかった。

「もしもし・・・?」
「ああ。俺。」
「うん。久しぶり。」
「最近、どうしてんのかなと思って。」
「心配してくれたの?」
「そりゃ、そうだろ。あれだけ電話して来てた人間が、音信不通になったら、ちょっと気になるよ。俺、なんか怒らせたっけ?」
「心配してくれたんなら、ちょっと嬉しい。」
「当たり前だろ。どこ、いんだよ?今日、来ない?」
「ううん・・・。今日は。」

私は、断りかけて、思い直す。
「やっぱり、行くわ。夜。待ってて。」
「うん。待ってる。」

私は、少し胸が温かくなった。

だけど、私の体はすっかり男性の体になっていて、かつてのようにあの人に抱かれる事を切望しなくなっていた。

夜、暗い時間がいい。明るい場所で、このごつごつした体を、あまり見られたくない。

それから。

もう、この顔で会えるのも最後かもしれないから。

私は、不安とか悲しさとか、運命への怒りとか。そんなものを抱えて、彼の部屋まで車を走らせる。

--

「やあ。久しぶり。」
彼は、私を見て、少し驚いた顔をする。

「私、変わった?」
「ああ。うん。なんか、雰囲気が。なんでかな。前は、スカートしか履いてなかったし。」
「最近は、スカート履くの、やめたのよ。」
「そうか。ビールでも飲むか?」
「うん。」

私は、彼がキッチンにビールを取りに行っている間に、彼の部屋の照明を暗くする。

「なんだよ。暗いじゃん。」
「うん。ごめん。今日だけは、このまま話させて。」
「いいけどさ。ちょっとムード出るかな。」

彼は、私の手を掴んで引き寄せようとする。

「待って。」
私は、慌てて振りほどく。

「ああ。ごめん。」
拒まれると思ってなかったからだろう。私の剣幕に驚いた彼の声はうろたえていた。

「ねえ。もうすぐ、私、いなくなるの。」
「いなくなるって、どこに?」
「この世界から、消えちゃうの。」
「どういう意味だよ。」
「どういうって。だんだん、私が消えて行ってるの。」
「わけ、わかんねえよ。」
「うん。ごめん。私にも分からない。ここんとこ、私の体に起こった事は、私にも分からない。ただ、分かるのは、もうすぐ私がいなくなる事。この顔も、何もかも。」

それから、私はこの数週間の事を話す。

話し終わった時、彼は私と一緒に泣いていた。

「なんで、お前がこんな事になっちゃうんだよ。全然、分かんねえよ。」
「馬鹿ねえ。そんなに泣くなんて、変だよ。第一、私、死ぬわけじゃないしさ。」

そういう声も、少しずつ、しわがれて。男性の声になっているようにも思える。

「お前、なんでそんなに冷静なわけ?」
「冷静じゃないよ。冷静じゃないけど。」

私は、もう、それ以上は言わなかった。

多分、私が冷静だとしたら、本当はこの変化を望んだのは自分ではないかと気付いていたから。あなたが、私をやんわりと拒んで傷付けるなら、私は、どこか他の世界に行きたいと、そう何度も何度も私の心が願った事を、私自身、知っていたから。

「ねえ。顔。見ておいて。」
「顔?」
「うん。体は、もう、私じゃなくなっちゃったから。顔だけ。」
「分かった。」
「覚えていて。お願い。多分、明日にはもう、私は、私じゃなくなってる。記憶も、もしかしたら、なくなるかもしれない。」

彼は、もう、びっくりするぐらい顔をぐしゃぐしゃにして。

私は、その頬にそっと、唇を付けた。

「さようなら。」
もう、その言葉が最後だった。

声すら、変わってしまったから、私は、それ以上そこで彼に語り掛ける事はできなかった。

彼の泣き声を残して、私は、彼の部屋を後にした。

--

いい気分だった。

鏡の前の男性は、ハンサムで、素敵な笑顔を持っていた。朝起きた時は、自分がなぜそこにいるか気付かなかったけれど、そこに書き留められた長い長い手記を読んで、だいたいの事は理解した。そうして、かつて女性だった事、大切な人に昨夜お別れを言った事を知り、ちょっぴり切ない気分になった。だが、彼自身は、自分がそこにいることを幸福に思い、彼の体は、既に、彼にピッタリな女の子を求めて、元気に隆起していた。

彼は、既に用意されていた、サイズが丁度の服を着込むと、公園まで歩いていった。

風は気持ち良かった。

これからの人生を思うと、わくわくした。

鼻歌を歌ってみた。

「ねえ。お兄ちゃん、どうして泣いてるの?」
公園で遊んでいた女の子が、そばに寄って不思議そうに訊ねるまで、男性は、自分が泣いている事に気付かなかった。

「さあ。どうしてかな。とても大事なものを失くしたみたいなんだ。」
「アコも、お人形をなくして泣いた事があるわ。」
「そう。そんな感じ。」

かつて、自分は誰かを愛していた。相手は、まだ、誰かを充分に愛する準備ができていなかった。誰かを愛する事は、誰かをおびやかす事ではなかったのに、相手は愛を怖がった。

男性は、にっこり笑って女の子の頭を撫でると、もう少し、涙が流れるままにしておこうと決めた。


2002年10月18日(金) 男の腕は彼女の腰に回り、彼女は、引き寄せられるままに男に身を預けていた。そうして、

朝、予備校に行く時、電車の中で一緒になる女の子に、僕は恋をしていた。その子は、どこかの専門学校に行ってるみたいで、いつも、友達と楽しそうにおしゃべりしていた。

ごく普通の子だったから、最初は気付かなかった。どちらかと言えば、主に友達がしゃべり、彼女はニコニコと聞いているほうが多い。そんな子だったから。

一方の僕は、平凡な予備校生。彼女いない歴は、年齢と同じ。そんな駄目なヤツだった。

だから、彼女を見ているだけ。

遠くから見ているだけ。

--

その昔、ストーカーという言葉がまだなかった頃だったら、僕は、ただの恋に焦がれる男だった。だが、今やってる行為は、ストーカーそのものだった。僕は、彼女を少しでも知りたくて、彼女の跡をつけて歩くようになった。専門学校では、コンピュータの事を勉強しているらしい。僕は、その学校の生徒のふりをして、専門学校に出入りしてみたり、彼女が朝と同じ友達と一緒にランチを食べているのを遠くから眺めていたり。

次第に、僕は予備校をさぼるようになった。昼ご飯もろくに食べず、彼女の姿を追い掛け回していた。それ以外、やるべきことが思い付かなくなってしまい、ただ、僕は、彼女を追い掛けるためだけに自分の人生を使うようになっていった。

--

その夜、僕は、彼女が出掛ける後ろを、こっそりつけて歩いていた。女の子が夜に一人で出歩くのは危ないから、何かあったら助けてあげよう。そんな言い訳を、心の中でしながら。

「おい。ちょっと。」
しわがれた声が、背後からする。

電信柱の陰から彼女を見ていた僕は、びっくりして振り向く。

誰もいない。

なんだ、気のせいか。

「おい。ちょっと。そこは、俺の通り道なんだよね。邪魔なんだよ。」

もう一度振り向いて、よく見ると、そこには猫がいた。ものすごく醜い猫で、僕は驚いた。黒いゴワゴワした毛には白髪が混じり、片目はつぶれ、尻尾はねじ曲がっていて、後ろ足の片方は少し引きずっていた。

「あ。すいません。」
その醜さに圧倒されて、僕は思わず丁寧に謝ってしまう。

「なに。いいさ。で?あんた、ここで何してんだよ?ここは猫の通り道だ。こんな狭いとこ、普通は誰も入り込まない。」
「人を見てるんです。」
「ほう。」
「とても可愛い子で。あ。ちょっと黙っててください。彼女を見失ってしまったじゃないですか。」
「当たり前だよ。お前さん、ストーカーみたいなことしてさあ。」
「ストーカーなんて言葉、よく知ってますね。」
「ああ。猫を馬鹿にするなよ。猫はなんだって知っている。」
「じゃあ、僕がさっき追い掛けてた子。知ってますか?」
「知ってるよ。時々、見掛ける。」
「この辺りで、何をしてるんでしょうね。」
「そうだな。それは、自分であの子に訊いたらいいんじゃないかな。」
「それができないから、こうやって追い掛けて来てるんですよ。」
「あの子の事、どうしても知りたいか?」
「ええ。」
「じゃ、あの子が今、どこで何やってるか、連れてってやろうか?」
「はい。お願いします。」
「じゃ、俺の目の中に入んな。」
「え?」
「目の中だよ。」

僕は、猫ににらまれた。すると、ぐいっと引き込まれる感じがして。それから、僕の視点はずっと低い位置にあって・・・。どういうことだ?

「どうだい。俺の目の中は。」
「いろいろ不便ですね。」
「まあ、ちょっとは我慢しな。」

黒猫は路地を出て、彼女が向かった方向に走って行った。

随分と走ったところで、公園に出た。彼女は、そこのベンチに座って、携帯電話のメールをしきりに見ていた。何やら、返事を返したりもしているようだった。

「誰かを待っているみたいですね。」
「ああ。見てろ。」

そのうち、一人の男が現れて、彼女の横に座った。初対面らしく、お互いによそよそしい態度だったが、そのうち、二人して立ち上がると、どこかに向かって歩き始めた。男の腕は彼女の腰に回り、彼女は、引き寄せられるままに男に身を預けていた。そうして、二人は、公園を出て、繁華街の方に歩き始めた。

「これから、あの二人、どうなると思う?」
「どうって。」
「だいたい分かるだろうが。」
「ええ。まあ。」
「彼女は、自分が持っているささやかなものを提供して、男から金をもらう。」
「言わないでください。」
「言わなくたって、それが現実さ。どうする?まだ、追い掛けるか?」
「いや。いいです。見たくない。」
「はは。さすがのストーカーさんも、これ以上は見たくないかい。」

もう、その時には、嫌でも彼女の体が男に抱かれるところを、彼女が娼婦のように笑うところを、想像していた。

「おいおい。変な想像するなよ。俺まで勃っちまうだろ。」
「すいません。」

もしかして、彼女がお金で寝るような子なら、僕にもチャンスはあるだろうか。つまり、その。彼女と。

「おい。そんな事、考えるな。」
「え?」
「ちゃんと彼女を見て、彼女と付き合うならいいがな。」

猫は、さっきまで彼女がいた公園のベンチのところに戻る。

ベンチの足元には、小さくちぎった紙切れ。

「彼女は、いつもここで、落ち着かない様子で男達と待ち合わせてるよ。そうして、レシートやらなんやら。小さく小さくちぎって。そうしたら、自分の心も小さくなってなくなるとでも思ってるみたいにね。」
「そんな事まで知ってるんですか?」
「ああ。猫はなんでも知っている。」
「・・・。」
「彼女はな。寂しいんだよ。両親は離婚してる。」
「知らなかった。」
「お前は、何にも知らないんだろ。」
「もう、彼女を追い掛けるのはやめます。彼女は、僕が思っていた子とは違う。寂しいからと言って、誰かに身を任せるようなのは間違いです。」
「そうか。じゃ、寂しいせいで誰かを追い回すのは、間違いじゃないのか。」
「それは・・・。分からないけど。」

僕らは、黙って、ベンチのところで長い夜を過ごしていた。黒猫はウトウトし始め、僕は夜空を眺めて、とめどないいろいろな事を考えていた。

「あら。猫さん。」
気付くと、彼女が黒猫を見つけて、駆け寄って来た。

「前にも見掛けた事があるわ。この辺りに住んでいる猫さんでしょう?」

黒猫は、眠そうな顔を上げて、彼女を見上げる。

「ねえ。ちょっとだけうちに来ない?」
彼女は、猫をそうっと抱き上げる。

黒猫は、素直に抱かれるままになっていた。僕は、彼女を間近で見れてなんだか幸福だった。さっきまで、彼女に対して怒ってたのに。

「ごめんね。付き合わせちゃって。いつもこうなの。ああいうことした後は、いつも寂しくて。誰かと話をして、朝まで抱き合って眠りたくなる。どうしてかな。」
そんな事を言いながら、彼女は、アパートで僕らを−黒猫を−を洗って、牛乳を出してくれた。

彼女の部屋は、清潔で。

彼女の布団の中で、僕らは丸くなって眠った。寂しい彼女と、寂しい僕と。それから、多分、黒猫も寂しい。

--

朝になると、彼女はいつものように身支度を整え、専門学校のテキストが入ったカバンを肩から掛けた。僕らにはニボシを一掴み。

「じゃあね。ばいばい。」
彼女は、いつもの笑顔で僕らと公園で別れた。

「ばいばい・・・、か。」
僕は、なんだかすごく寂しい気分になってしまった。

「おい。いい加減、俺の目から出ろよ。」
「ああ。はい。」

気付くと、僕は黒猫と向かい合って立っていた。

「どうしんだよ。これから。まだ、彼女の事、追っかけ回すのか。」
「それは・・・。もう、やめます。」
「彼女に失望したか。」
「いいえ。僕は・・・。うん。僕に失望しました。明日からちゃんと予備校に通います。それで、いつか彼女の寂しさとちゃんと向かい合えるようになったら、彼女に声を掛けます。」
「自分の寂しさとも、な。」
「そうですね。」
「じゃな。俺は行くよ。」

僕は、黒猫を見送って。

猫は、なんでも知ってる。わけではなくて、猫は、彼女のストーカーだったのかもしれない。その証拠に、彼女に抱かれた時、猫の心臓はバクバク言っててそのまま天国に行ってしまいそうに興奮してたから。そんな事を思い出して、僕は幸福になって、公園を後にする。


2002年10月17日(木) そう、恨み言を言う彼の指は、もう、私の指を捕まえていて、私は、指先の感触だけでそこから立ち上がれなくなる。

外は秋晴れのいい気候だというのに、我が家のキッチンには重苦しい緊張感が漂っている。多分、いつものように、原因は私自身だ。その事が、息子の起き抜けの機嫌の悪さに拍車をかける。

「朝食は?」
「牛乳だけでいい。」
「そんな・・・。トースト焼いたから、一口だけでも。」
「いらない。」
「体に悪いわよ。」
「いいって。それより、また、朝から魚なんて焼いてんのかよ。馬鹿じゃねえの?」

息子は、不貞腐れたままの表情で洗面所にこもってしまった。また、長い時間かかってヘア・スタイルを整えるのだろう。

「なんだ。あの言い草は。」
さっきから黙って聞いていた夫が、こめかみの血管を膨らませて、押し殺したような声で言う。

「ああいう年頃なのよ。」
「だからって。お前もお前だよ。妻が夫のために朝食を用意する。それも、日本人なら、基本は味噌汁と魚だ。何も、息子に言われっぱなしになる必要はないだろう。どうして注意しない?」
「だって・・・。」
「そもそも、お前がそんなだから、息子があんな風になってしまったんだよ。俺は、ずっと仕事で忙しかった。それもこれも、お前と、あの馬鹿息子のためなんだよ。いいか?分かるか?おまえらは、俺にぶら下がって楽をして生きてるんだ。それなのに、俺を尊敬することさえできない。」

夫の小言が始まると、耳を塞ぎたくなる。ちょっとでも間違った態度を取ると、ますます火に油を注ぐ結果になるから、黙って、はい、はい、とうなずく。

息子が、玄関を出て行く音がする。

--

パートの仕事は楽しかった。前なら、働きに出るなんて考えられなかった事だった。体の弱い息子のそばを離れる事ができなかったというのもあるが、何より夫が猛反対していたからだ。今だってろくに家事も育児もできないくせに、と、頭ごなしに怒られて、それっきりあきらめていた。

だが、今、こうやって働きに出て、普通に、パート仲間とお茶を飲み、笑い合うことの楽しさ。家庭に入ったまま、長くこんな感じを忘れていたことに気付く。給料は安いが、そんなにきつくはない仕事。定時にはきちんと終わるし。

今日も、五時が来たから、私はさっさと机を片付け始める。

「ねえ。今日、みんなで軽くビールでも飲みに行かないって言ってるんだけど?」
パート仲間の一人から声が掛かる。

「ごめんなさい。息子も待ってるし。」
「あら。そうね。分かったわ。でも、たまには息抜きも必要よ。」
「ええ。そうね。また、誘ってくださる?」
「分かった。じゃ、おつかれさま。」

私は、小走りにエレベータに乗り込む。その時、一緒に乗り込んで来たのは、営業の清水くん。

「おつかれさま。」
と、微笑んでくれる。女子社員一番人気の笑顔だ。

「おさき。これから、まだ客先?」
「ええ。夜じゃないとつかまらないとこがあるんで。」
「大変ね。」
「客先から帰って来た時、小川さんがいないのが寂しいですね。」
「あら。嬉しい事言ってくれるじゃない?」
「本当ですよ。」

「じゃ。また、明日。」
私と彼は、ビルの入り口で右と左に別れる。

少し年下の男性とこんな風に会話できるというだけで、私は細胞の一つ一つが潤うような感覚に包まれる。いやだ。年下にときめいたりして。私は、一人顔をほころばせて、家路を急ぐ。

「遅いっ。」
いきなり、罵声が響く。

「ごめんなさい。これでも一生懸命急いで帰ったのよ。」
「また、反抗する。いいか?お前がパートをする、というのがそもそも反対だったんだ。食事一つ作るにしても、随分と時間がかかる癖に、パートだなんてな。」

私は、夫のためにビールを出し、急いでエプロンをつける。

「さっさとしろよ。こっちは待ちくたびれてんだ。」
夫の声が背後から飛んで来る。

「すぐしますから。」
私は、仕事帰りの幸福な気分をめちゃくちゃにされて、思わず涙ぐむ。変なの。ちょっとした幸福のせいで、余計にいろんなことが悲しくなる。

「今日、晩めし、何?」
息子の声だ。

「さんまよ。それから、豚汁。」
「また、魚かよ。」
「体にいいのよ。」
「ふん。」

息子は、テーブルに座ってビールをグラスに注ぐ。

「おい。何飲んでる?」
夫が怒鳴るが、息子は無視してビールをぐいぐいと飲み干す。

私は、その光景をハラハラして見ている。結局、半分以上ビールを空けた息子は、そのまま、「晩めし、できたら呼んで。」と言い残して、部屋にこもってしまう。

夫は蒼白になって、ビールを見つめている。

ああ。また、小言が始まる。

頭が痛い。

本当に、何もかも投げ出してしまいたい。

--

死が終わりではない。

何となく、朝、そんなことを思いながら、パートに出る支度をする。息子は、今日は友達の家に泊まりに行くとかで、夕飯は要らないと言う。ご迷惑掛けないでね、と、千円札を渡しながら小言めいた事を言うけれど、本当はホッとしていた。少なくとも、夕飯時に息子と夫がいるせいで、間に立ってオロオロすることは免れる。

「かあさんもさ。たまには好きなもの、食べろよ。毎晩、毎晩、魚ばっか。」
「ええ。でも、気にしなくていいのよ。」

分かってる。私のこんな態度が、夫も息子もイライラさせるのだ。

息子が出て行ってしまったので、私も、バッグを取り上げる。少し早いけれど。いいでしょう。キッチンに行けば、酔った夫にからまれるだけ。

私は、いつもより三十分ほど早い時間に家を出て、きんもくせいの香りを感じながら、歩く。外に一歩でれば、私は自由だ、という気持ちが蘇って来る。

「あれ。今日、早いですね。」
電車を降りたところで、清水くんが声を掛けて来る。

「ええ。なんだかね。家にいてもつまらないから。」
「僕も。」
「え?」
「小川さんに会えると思うから、会社に来る気になるんです。」
「やだ。もう。」
「ほんとですって。」
「私、もう、おばさんよ。」
「見えません。それに、そんなの関係ないです。小川さんって、何ていうか、いつも話をちゃんと聞いてくれるっていうか。励ます時も、頑張りなさいじゃなくて、んーと。そう。一緒に頑張りましょうよ、みたいな。なんか、すごいいい感じなんですよ。」
「お母さんだからでしょう。お母さんって、そんなものなのよ。」
「違いますよ。色っぽくて、どきどきします。」

上手いわねえ。

私は、笑った。もちろん、嬉しくて。その言葉が、今、私の機嫌を取るためだけに発せられたものであっても、嬉しい。随分と、こんなドキドキからは遠ざかっていたのだもの。驚いちゃう。

私と、清水くんは、会社に着くまで笑っていた。

気付くと、夕飯の約束をしてしまっていた。

--

「どうしてですか?僕じゃ、駄目ですか?」
酔って駄々をこねる年下の男は、可愛いらしかった。

「そうじゃないの。息子がね。難しい年頃で。」
「いつも、息子、息子。僕が知りたいのは、あなた自身がどう思ってるかなのに。」

そう、恨み言を言う彼の指は、もう、私の指を捕まえていて、私は、指先の感触だけでそこから立ち上がれなくなる。

息子のせいじゃない。夫のせいよ。

そんな風に言ってしまったら、彼の反応はどうなるだろう。もし、彼が、息子と同じように軽蔑した視線を投げて来たら?私は、その場で死んでしまいたくなる。

大袈裟ね。と、笑い飛ばそうとしても、笑えないで、私はそこで彼の指の感触を自ら求めるしかなくなっていた。

--

結婚してから、家を一晩空けたのは初めてだ。

早朝、そっと玄関を開ける。良かった。息子はまだ帰っていない。

途端に、雷が響くような怒鳴り声。
「どこに行ってた?」

私は、そこに立ち尽くす。

入れない。この家に。

声は、家中から響いているように思える。

どこに行っていた?この、あばずれ。家の事もろくにしないで、男と遊び歩いて。パートだって、最初からその目的だったんだろう?俺は知っていたさ。だから反対した。いい年した女が、男に言い寄られる理由は決まってる。まともな人間として扱ってもらっていると思うなよ。お前は、都合が女なんだよ。・・・・。・・・・。

私は、その場に立ち尽くす。

どうして。どうして、私を自由にしてくれないの?私は、両手で顔を覆う。

死んで、なお。この家に居座り、私を苦しめる。いつになったら、自由にしてくれるの?暴力が激しく、酒に溺れて、結局、自ら命を落としてしまった、夫。

私は、夫の亡霊から一生逃れられない。

その時、電話が鳴る。足が凍りついたように動かない。今、電話に出れば、夫の声が、電話を掛けて来た相手にも聞こえてしまう。どうしたら?どうしたら?

だが、電話があまりにもしつこく鳴るので、私は、ふらふらと受話器を。震える手で取る。

「誰からだ?おい。誰からの電話なんだ?」

耳を塞ぎたくなるような夫の声を背中に浴びせられながら、私は、ようやく声を絞り出す。
「どちらさま?」
「僕です。清水です。」
「あら。どうしたの?」
「あなたがちゃんと帰ったの、確認したくて。」
「大丈夫よ。心配症なのね。」

その時、私の目から、熱い涙。

「あの。いい加減な気持ちじゃないですから。」
「分かってる。」
「ご主人のこと。聞いてます。だいたいは。だから、あなたが怖がるのは分かってるんです。」
「そのことは・・・。」
「いいえ。あなたの目の怯えた表情をなくしてあげたい。」
「どうして、そんなに?」
「あなたを大事にしたいから。僕がまだ見てない、解放されたあなたを見たいから。」
「・・・。」
「すいません。変なこと言って。」
「ううん。嬉しい。」

私は、受話器をそっと置く。

もう、夫の声は随分小さい。

--

それからも、家の中に響く夫の怒声は大きくなったり、小さくなったり。

私は、長い時間を掛けて、夫の夕飯を作る習慣をやめた。たまには、息子を置いて、パートの仲間と遊びに行くことも覚えた。

少しずつ、少しずつ。

そうして、今。

これが最後のチャンスだったかもしれないから。私の腕には、赤ちゃん。それから、年下だけどやさしい夫。もう一人の息子は、県外の大学に行ってしまったけれど、時折電話を掛けて来てくれる。

私は、今、素直な気持ちで仏壇に手を合わせ、現在の幸福を伝える事ができるようになった。

あなた、ありがとう。それから、ごめんなさい。

人は、本当に幸福になった時、ようやく全てを受け入れられるものだと。そんなことを気付くのに、随分かかった。


2002年10月16日(水) だんだんと動きが速くなり、ベッドがきしむ。僕と妻は、声を揃えて、到達する。その瞬間、僕はこちらの人生を

突然の事だったので、僕も、妻も、呆然とした。

その夜、軽い夫婦喧嘩の後、僕はウサギになってしまった。仲直りしようとベッドで待っていた僕を見下ろして、妻は軽い悲鳴を上げた。それから、泣き出した。

おいおい。泣くなよ。

僕は、焦って妻を見上げるが、声も出ない身ではどうしようもない。

あきらめて、僕はベッドの隅でうずくまる。明日も会社だし。あ。この格好じゃ会社にも行けないか。まあ、いいや。あんなに泣いていた妻が、寝ぼけて夜中に僕を何度も押し潰そうとするのを避けながら、「なんでこんなことになっちゃったんだっけ?」と思わないでもない。

それでも、ウトウトして、朝が来た。

朝になると、僕は人間に戻っていた。

「何だったの?」
妻に訊かれるが、もちろん僕にだって分からない。

「さあね。」

--

安心したのも束の間。次の夜も、僕はやっぱりウサギになってしまった。妻は、小さな溜め息を吐き、それから、僕を抱いて眠ろうとする。

夜中、僕は、やっぱり妻の寝相の悪さに困り果てて、ベッドを抜け出す。

結局、そんな風に、僕は毎晩ウサギに変身してしまう事となった。

ウサギになった頭で、僕はぼんやりとその悲劇的な事実を考えてみようとするが、無理だった。ウサギになってしまえば、物事の尺度はウサギの尺度で計るようになる。僕は、野原を飛び跳ねたくてうずうずしてしまうのだ。

妻に頼んで、庭に小屋を作らせてもらった。僕の別宅というわけだ。夜、妻におやすみを言うと、僕はそこに入る。最初のうち、妻はとても嫌がっていた。僕をそんな風に外に出しちゃうなんて。って。だが、僕は、ベッドで妻に潰されるのはうんざりだったし、何より、夜、野原に遊びに行くのはすごく楽しかったのだ。近くにはウサギが遊べる野原があり、野犬の類もいなかったので、僕は、月夜を浴びながらピョンピョン跳ね回った。楽しかった。何も考えずに、ただ、そうやって遊んでいた。

そのうち、とても可愛らしい野ウサギに出会った。茶色の毛皮に、真っ黒な瞳、短い鼻。ウサギ的に言えば、とても美人の部類に入る。僕らは、自然と一緒に飛び跳ねるようになった。月の下にウサギが二匹。ピョンピョン。

--

この事は、果たして浮気になるのだろうか?

僕が小屋を抜け出して他のウサギと遊んでいる事実を知って、僕の妻はショックを受けたようだった。休日の昼間、僕が妻の体に手を伸ばした途端、妻は泣き出す。

「ごめんなさい。ウサギのあなたが楽しむ権利を邪魔する気はないの。」
妻は泣いている。

妻は、何とか僕を理解し、夜だけウサギの姿になる事実を受け止めようと頑張っているのだが、うまくいかないようだった。

僕は、妻をそっと抱き締める。

問題なのは、僕のほうかもしれない。ウサギと人間。両方の人生がそれなりに楽しく、さして悩むことをしていない僕は、そんな妻を抱き締めて「大丈夫だよ。」と言い聞かせてみるだけのことしかできなかった。

--

僕は、夜、もう一つの家庭を作った。野ウサギとの間に、可愛らしい子ウサギがたくさん産まれた。僕は幸福だった。ただ、夜は、ウサギの体に心も委ねて、導かれるままに、良き夫、良きパパになった。

最近では人間の妻のほうは、夜になったら家の前に車が止まるから、どうやら誰かと付き合っているらしい。昼間の僕は多少嫉妬するものの、結局、妻が、その不可解な結婚生活のバランスを取るためにそうやっているのだと知っているから、何も言わない。

僕は、ただ、流されるままに二つの人生に足を踏み入れて行った。

--

そんな生活がどれくらい続いたろうか。

僕は夢を見る。白いひげの老人。

「あなたは?」
僕は、訊ねる。

「神じゃ。」
人の良さそうなその神は、なんだかヘラヘラと笑いながら、
「実は、詫びねばならんことがあるんじゃ。」
と言い出す。

「何ですか?」
「いや。その。うっかりしてな。お前の人生に、ウサギの人生をくっつけてしまったのじゃ。」
「うっかり?」
「ああ。ああ。たまにこういうことがあって。申し訳ない。」

老人は、悪びれもせずに、ニコニコとしている。

「僕は、多大な迷惑を被った。」
「ああ。分かっておる。謝るよ。で、じゃな。どちらか好きなほうの人生を選ばせてやるから、希望を言いなさい。」
「しばらく考えさせてもらえますか?」
「ああ。いいとも。決まったら、いつでも、わしを呼ぶといい。」

僕は、目を覚まし、考える。ウサギのボンヤリした頭でも、ついに決断の時が来た事ぐらい分かる。ウサギの妻の澄んだ瞳が、心配そうに僕を見ている。

--

人間の妻は、僕に、
「あの人とは別れたわ。」
と、言った。

「言わなくていいのに。」
僕は、妻をなぐさめるように言った。

「だって・・・。やっぱり辛かったの。私とあなたには子供だっていないし。」
「比べちゃいけない。」
「分かってるわ。分かってるけれど。どうしようもなくて。あなたに当て付けるように浮気をしたの。でも、駄目だった。他の人に抱かれても、あなたの事を思うばかりで。」

妻がそう言って涙を流す姿を見て、僕の胸はチクチクする。本当は、僕は、今日、ウサギの人生を選択しようとしていたから。だが、どうしようもない。僕は、まだ、明るい時間だというのに、妻を連れて、ベッドルームに入る。ベッドの上の妻の涙を、僕の唇がそっと拾う。泣かないで。僕のためなんかに。きみは素敵だ。そんなことをささやきながら、妻の足をそっと開く。子供なんていいじゃないか。僕ときみがいれば。だんだんと動きが速くなり、ベッドがきしむ。僕と妻は、声を揃えて、到達する。その瞬間、こちらを選ぼうと決意した。

--

夜、僕は、やんちゃになった子供達がまとわりつくのを眺めている。野ウサギの妻が寄り添っている。ここは静かだ。ただ、自分の鼓動に合わせて、僕は野原を思いきり駆け回りたくなる。

喧嘩する兄弟を引き離し、怖いオオカミの話をしてやると、子供達はキャーキャー言いながら妻にしがみついて行く。僕は、笑う。ここにも、ちゃんと愛がある。

駄目だ。やっぱり選べない。

僕は泣きたくなる。どうして、こんな苦しい選択をしなけりゃならないんだろう?

--

「どうじゃ。決まったかな?」
「はい。」
「どっちじゃ。」
「人間とウサギ以外の別の選択も可能ですか?」
「ああ。まあ・・・。何とかできる範囲ならな。うっかりしていたのはわしじゃから、大概の事は聞き入れるつもりじゃ。」
「なら、僕を、人間でも、ウサギでもなく、犬にしてください。」
「ほう・・・。いいんだな。」
「はい。お願いします。」
「なるほど。そういうのもありじゃな。よーし、ここはひとつ、男前の犬にしてやろう。」

僕は、目を閉じる。

さようなら、妻達。

--

結局のところ、自分で何かを捨てるのはひどく辛かったから、どうしようもない運命ということにして、僕は逃げ出したのだった。

僕は、犬になった。なかなか素敵な犬だった。

僕は、もう、どちらの家にも戻らなかった。

あてもなく、歩いていると、とても可愛い犬の娘が向こうから歩いてくるのに気付いた。

「こんにちは。お嬢さん。」
僕は、新しい人生に大いに満足した。


2002年10月15日(火) 僕はこんな調子だから、一人でいいけど。きみらは違う。愛し合う夫婦としては、子供を持つのが夢だ。

日曜の午後。友人夫婦が訪ねて来る、というので、僕は前から彼らが欲しがっていたハムスターを一匹カゴに入れて用意しておいた。

カタカタカタカタカタ・・・。

回し車がせわしなく動き、カゴの中のハムスターはどこに行くあてもなく、前に前にと進もうとしている。

「いらっしゃい。」
僕は、友人夫婦を出迎える。

「相変わらず、きれいに片付いているなあ。」
友人は笑う。

「ああ。暇なものでね。」
「妻といつもきみのことは噂しているんだよ。」
「いやだな。なんて言ってるんだよ?」
「きみは、気が効くし、きれい好きだし、ハムスターを育てる腕前もすごいってね。」
「それだけか。大した事じゃないなあ。」
「でね。何で結婚しないんだろう、って。」
「ああ。そのこと?」
「うん。きみならいい夫になれるのにって。妻と残念がっているんだ。」

友人の横で、彼の妻が微笑んでうなずく。

「前にも言ったろう。僕は、恋愛とか、興味ないんだよ。」
僕は、またその話かとうんざりした顔で答える。

「恋愛しなくても、結婚はできる。」
「じゃ、どうやって、この世の中でかけがえのない誰かってのを一人決める事ができるんだい?」
「かけがえのない?」
「ああ。そうだ。たくさんの女性の中から、この人じゃなくちゃいけない理由ってのはどうやって決めるんだい?」
「かけがえのない、ってのは、付き合い初めてからだんだんと作り上げて行くものなんだよ。」
「僕は、その前のきっかけの話をしてるんだ。」
「第一、きみは、知り合った頃から一度だって恋人を持ったことがないだろう?」
「ああ。きみの言うとおりだ。多分、本物の相手に巡り会ってないんだよ。僕はまだ。」

僕は、いい加減、この会話を終わらせたくなっている。

「妻の知人で、いい娘さんがいるらしいんだ。」

そう来たか。

彼の妻がバッグをゴソゴソと探って、写真を取り出そうとしている。

「いや。悪いが、紹介なんかで会うつもりはないんだ。」
「だが、しかし。紹介でもしなくちゃ、女の子と知り合う機会もないだろう?毎日、仕事に行く以外は真っ直ぐに帰って、ハムスターの世話ばかりしている。」
「ああ。これで満足なんだよ。」
「分からないな。」

友人は首を振る。

「とにかく、僕のことは放っておいてくれ。」
少々険悪な空気を感じて、僕はもう、一人になりたくなっている。

「帰るよ。すまなかった。いや。僕らはとても幸福なんだ。だからきみにも幸福になって欲しくてね。」
友人は、僕の顔を、理解不能だという表情で見つめている。

「そうだ。ハムスター。持って帰るんだろう?」
子供がいないから、と、友人が妻のために欲しがったのだ。

「ああ。それか。いや、実は・・・。」
「なんだ?」
「子供をね・・・。ちょっと無理したんだが。」
「そうか。おめでとう。」
「随分と金が掛かったよ。」
「そりゃ、そうだろう。最近じゃ子供を持つのは大変だ。で?いつ頃なんだ?」
「来年の三月。」
「そりゃ、めでたい。申請は通ったのかい?」
「ああ。何とか。年収やら、夫婦仲やら、いろいろ調べられて大変だったよ。」

少しきまりが悪そうに、友人夫婦は微笑んでいる。

ああ。本当に心からおめでとう。僕はこんな調子だから、一人でいいけど。きみらは違う。愛し合う夫婦としては、子供を持つのが夢だ。

「じゃあ、ハムスターは要らないんだね。」
「ああ。せっかくだが。すまない。」
「何。いいんだ。ハムスターなんかより、子供が大事だからね。」

僕は、笑って友人夫婦を見送る。

結局、夫婦の幸福を、子供を持つ幸福を。伝えに来た彼らに、僕は何一つ応えることができなかった。

--

僕は、毎日、仕事に出る。それから、無人監視システムの元で、長い長いベルトに乗ってやって来る部品をスパナでぎゅっと締める。コンベアが、それからどこに行くのかは、僕らも知らない。みんなそうだ。僕の友人も、違う場所で、そっくり似たような事をしている。多分、彼の妻も。

そうやって、仕事は決まっていて、僕らはそれを延々と繰り返す。

現代を生きる者達にとって、娯楽とは、恋愛であり、結婚であり、子供だ。

テレビをつければ、恋愛ドラマを。ホームドラマを。恋愛は素晴らしい。恋愛をしよう。

僕はテレビを消す。恋愛って、何だ?今日、すれ違ったあの子と、隣に住むあの子じゃ、どこがどう違うっていうんだ?ネジ穴にネジがぴったりと合うように、僕にぴったりの誰かがどこかにいるんだろうか。

僕は、よく分からない。

帰宅して、地下室に行く。ハムスターが入ったゲージが所狭しと並んでいる。僕は、それを眺める。

その時、ガタンと大きな音がして、振り向くと、一人の子供がいた。
「誰だ?」
「お願い。ここに泊めて。」

10歳ぐらいのすっかり汚れた顔をした子供は、何かに怯えたような顔をしている。

「未登録の子供だな?」
「うん。」
「今まで、どうしてた?」
「あっちこっち逃げ回って。」
「どうしてうちに?」
「あなた、子供いないでしょう?もう子供がいる家は、駄目だと思ったから。」
「そうか。」
「最近じゃ、結婚してなくても養子を欲しがっている人は多いって。」
「生憎と、僕は養子は必要としてないんだ。」
「そう・・・。じゃ、すぐ出てくから。お願い。警察に言わないで。」
「大丈夫だ。しばらくここにいていいよ。」
「ありがとう。」

子供は、ようやくホッとした顔になる。

僕は、子供をバスルームに連れて行って、洗ってやる。

「女の子だったのか。」
僕は、驚いて、その子を見る。

「うん。でも、どっちだっていいんだ。名前だってないし。」
「名前・・・。名前か。あとで素敵な名前を考えよう。」

僕は、子供の髪をゴシゴシ拭くと、僕の少々大きめのトレーナーを貸してやる。

「明日、新しいの買って来てやるから。」
「これでいいよ。」

子供はようやく嬉しそうな顔を見せる。

僕は、少し安心して、テレビを見せている間、空いた部屋に寝床を作りに行った。

--

「最近、奇妙な噂を聞いたんだよ。養子を取ったって?」
「ああ。まあね。」

友人からの電話で、僕は少々慌てる。

「変だな。この前行った時には何も言ってなかったじゃないか。」
「気が変わったんだ。」
「申請には、何ヶ月も掛かる筈だが。」
「だろうな。」
「非合法か?」
「それ以上は聞くなよ。」
「分かった。だが、あまり面倒な事に巻き込まれないようにな。」
「ああ。」

電話を切ると、こちらを心配そうに見ている子供の視線とぶつかる。

「大丈夫だよ。」
僕は、彼女を抱き締める。

誰かに触れるのは久しぶりだ。

「ハムスター、見たい。」
「ああ。」

相変わらず、回し車の音がカタカタと鳴るその地下室で、その子はじっとハムスターを眺めて。それから、一匹のハムスターに、つっと手を伸ばすと、ゲージから出す。

「うまく出来てるね。おもちゃ屋さんで見かけるのより、ずっと。」
「ああ。これぐらいしか、趣味がないから。」

僕の作るハムスターロボットは、後ろ足で立って、小首をかしげて見せる。

「このしぐさが、マニアには人気なんだ。」
と、説明する。

「一匹ずつ、全然違うね。動き方も。」
「そりゃ、そうさ。この子は少しやんちゃだから、すぐカゴを抜け出す。この子は内気だけど気が強いから、他の子と一緒に入れると喧嘩を始める。」
「楽しそう。」
「え?」
「おにいさん、楽しそう。」
「そうかな。」
「うん。恋愛も、結婚も、子供も、好きじゃない、なんて言って。だけど、自分の作ったロボットは、すごく大事そうに扱ってるよ。」
「そうかもな。」

僕らは、地下室から一階に戻る。

「いつまでこんな生活が続けられるかな。」
彼女は、ぽつりとつぶやく。

「ずっとだ。」
「ずっと?」
「ああ。ずっとだ。」
「じゃあ、ずっとここにいていいの?」
「もちろん。」

僕は、彼女に少しずつ生活費を渡すようになった。
「好きな服なんかも買っていいんだよ。」
「おにいさんのトレーナーが一番好き。」
「でも、そんな格好じゃ、誰もお嫁さんにもらってくれないよ。」

僕は、笑って。

静かな夜。幸福な。

幸福。そうか。これが、かけがえのない・・・。

--

そうやって、一年が過ぎ。

「おかえりなさい。」
出迎える彼女に、僕は花束を渡す。

「なあに?これ。」
「お誕生日、おめでとう。」
「お誕生日って?」
「きみと僕が初めて会った記念日。」
「嬉しい。」
「それから、これがきみのハムスター。」
「新作ね?」
「うん。可愛がってくれる?」
「ええ。あなたの作るハムスターロボットは、世界に一匹しかいないから。」

僕らは、キャンドルに火を点し、新しいドレスを彼女に着せる。

「おにいさん、いつか、お嫁さんもらっても、私のこと忘れないでね。」
僕の胸に額をつけて、彼女が懇願する。

「馬鹿だなあ。結婚はしないって言ったろう?」
「でも、私は、いつまでもこのままだもの。あなたのお嫁さんにはなれない。」
「なれるよ。」
「そうだといい。」
「きっと、なれる。」

今は、ほんの子供だけど、いつか。僕の手で。

僕らは寄り添って夢を見る。

その時、けたたましいサイレンの音。飛び交う怒声。

「何?」
彼女は身を起こす。

「ここで待ってろよ。」
僕は立ち上がる。

ドアが開く。

「何ですか?あなた達は。」
「警察です。」
「一体・・・。」
「非合法に子供ロボットを家に連れ込んでいるとの噂を聞きまして。」
「待ってください。必要な手続きはしますから。」
「申し訳ないですが、規則ですから、回収します。」
「待ってください。待って・・・。」

逃げろ。

僕は、叫んだ。

僕は、警察に殴られて、足をどうにかしたようだ。

逃げろ。

だが、その時、銃声が。

何てことだ。

歯車が僕の足元に転がって来る。

僕は、それを拾い上げて、シリアルナンバーを見る。S−289001099、これがきみのユニークな名前。

僕のシリアルナンバーは、A−759581002。古い型だ。

--

大昔、人間という生き物がこの世を支配していた頃、人間をモデルに作られたのが、僕らだ。いつしか人間が死に絶えて、僕らはどこに進めばいいか分からなくなった。回し車の中のハムスターのようにどこにも行けない。恋愛だとか、子育てだとかは、人間の習性の名残だと聞いた事がある。そんな事を一生懸命信じていれば、いつか、僕らは人間のように想像力に富んだ生き物になれるんじゃないかと。そうやって、どこにも行けない僕らは、子供ロボットを手に入れる。随分とたくさん働いてようやく手に入る、その子供ロボットは、高価過ぎて一生に一度持てるかどうか。

名前をちゃんと付けたら良かったな・・・。そこにある幸福は、あんまり日常的過ぎて、僕は名前を付けて呼ぶことすら、うっかりと忘れていた。


2002年10月11日(金) その白い肌、膨らみかけた乳房、控えめに局部を覆う翳り、どれも直視できないまま、「きみは誰?」と、

その作家は、とても偏屈な男だと聞いた。誰も寄せ付けないで、ひっそりと暮らしていると。通いの家政婦が一人。それだけ。結婚もしたことがなければ、友達付き合いもない。たった一人で暮らしているという。

彼の原稿を取りに行ってくれと言われて、僕は、ひそかに喜んだ。その偏屈ぶりを一度でいいから見てみたいと思っていたから。僕自身、幾らか変わったところがある、と人から言われ続けていた。

ともかく、僕は、その作家のところに原稿を取りに行った。

--

作家は、偏屈というよりは、むしろ、内気だった。応接室では、家政婦がお茶を運んで来て、「しばらくお待ちください。」と慇懃に言った。それから、随分経って、作家が部屋に入って来た。

「人と会うのは苦手でねえ。」
と、困ったような顔をして原稿を差し出す彼を、僕は理解したいと思った。

僕は、
「分かりますよ。」
と、うなずいた。

それから、僕は、作家と話し込んで、ついには、夜、酒まで酌み交わした。僕は、作家に気に入られたようだった。

--

「実は、さ。きみに教えたいものがあってね。」
そう、切り出されたのは、僕らが、もう、作家と編集者という関係を超えて、親しく付き合い始めた頃の事だった。

「なんだい?」
「誰にも言わないでくれるなら、この週末、うちに来てくれないかな?」
「ああ。喜んで。」

僕は、作家を刺激しないように、控えめに喜びを表わした。

「誰にも言わないでくれよ。」
「分かってますよ。」
作家特有の過剰な自意識からか、彼は何度も何度も僕に念を押したのだった。

--

約束の日の午後、僕は、作家の家を訪ねた。作家は、不在だった。

ドアは開いていたので、
「上がるよ。」
と、声を掛けて、作家の家に入る。

誰もいないのかと思った。

ドアを開けて入って来たのは、全裸の12歳ぐらいの少女だった。

僕は、驚きのあまり、声を出せないでいた。

「いらっしゃい。」
少女は、かすれた声で言った。

何か着ないのかい?とか、きみは作家とはどういう関係?とか、次々と質問が浮かぶのだが、その白い肌、膨らみかけた乳房、控えめに局部を覆う翳り、どれも直視できないまま、
「きみは誰?」
と、訊ねるのが精一杯だった。

「私?ウサギ。この家のおじさんに飼われているの。」
「ウサギ?」
「うん。」
「何か服を着たほうが良くないかい?」
「馬鹿ねえ。ウサギだから、服は着ないわ。」
「ここで、おじさんと二人で暮らしているのかい?」
「うん。おじさんと、お手伝いさん以外の人に会うの、初めて。」
「そうか。で、どうかな?僕とは。その。仲良くなれそうかな?」

つまり、純真無垢な美しい少女を前にしたら、誰だって好かれたいと思う。

「まだ、分からないわ。でも、おじさんもお手伝いさんも、ウサギの事可愛いって。」
「そうだ。きみは可愛い。」
「あのね。今日は知らない人が来るって言うから、ウサギの胸は、トントンとずっと大きな音を立てていたの。」

僕は、自然と、ウサギの小さな乳房に目をやる。

「今は?」
「今も、まだ、おっきな音、してるわ。触ってみる?」
「いや、いい。」

僕は、ウサギの大きな瞳に見つめられて、柄にもなく赤くなる。

「昼間は何してるの?」
「おじさんが遊んでくれない時は、眠ったり。絵を描いたり。」
「テレビとか見ないのかい?」
「テレビ?それ、なあに?」
「友達とは遊ばないのかい?」
「友達・・・。おにいちゃん、友達になってくれるの?」
「ああ・・・。きみのところのおじさんが許してくれればね。」

その時、背後から作家の声がした。
「どうだい?気に入ったか?」

僕は、その時、汗びっしょりになっていた。ウサギと名乗る裸の女の子と二人きりでいることに、異様に緊張し、興奮していたから。

「驚きました。」
僕は、しどろもどろになって答える。

「可愛いだろう?うちのウサギ。」
「ええ。とても。」
「高かったんだよ。実に。」
「高いって。その。」
「ああ。あるルートから購入した。」

僕は、その時、作家が狂っている事を確信した。少なくとも、少女の売買をおかしいとも思っていないぐらいに。

「向こうに行ってなさい。」
作家は、ウサギに告げた。

ウサギはうなずいて、部屋を出て行った。

「まだ、こんな小さい頃からだ。」
と、作家は手で赤ん坊の大きさを作った。

「彼女は、本当にウサギなんですか?」
「当たり前じゃないか。ウサギとして生きるように決められた種類だ。」

僕は、心の中で首を振る。狂った男に育てられた少女の無垢な笑顔が、僕を突き刺す。

--

僕は、ウサギを助け出す事に決めた。作家とは、既に親友だったが、さすがに彼の狂気のために一人の少女を犠牲にすることは我慢できなかった。

僕は、作家が東京にサイン会に行く日を辛抱強く待った。

それまでは、時折、作家とウサギを訪ね、ウサギに好かれるように、いろいろなプレゼントを持って行った。とはいえ、服なんかは興味がないので、簡単な玩具だ。プレゼントは慎重に選ばないと、たとえば、最近流行りの電子玩具などは作家が嫌うので、その点は慎重だった。

ウサギは、僕になついた。

僕のひざに、その小さなお尻が乗ると、僕はドキドキした。

ウサギが、何気なく僕の体に指を触れると、軽い興奮に包まれた。

だが、あまりウサギの事で変な妄想をしないように。と、僕は自分に言い聞かせる。ウサギを弄べば、それは、作家がしている事と同じ事だから。僕は、想像の中でさえ、ウサギに指一本触れなかった。

--

とうとう、その日が来た。作家が家を空けた日。

僕はこっそり、ウサギを毛布にくるんで車に乗せる。

「どこ?どこへ行くの?」
ウサギは、毛布の下でふるえていた。

「僕の家さ。作家に頼まれてね。」
「こわい。」
「大丈夫。僕がついてる。それとも、僕が怖いかい?」
「いいえ。でも・・・。おじさんは、私がこの家を出るのを嫌がってたのに。」
「大人は、すぐ嘘をつくし、気を変える。」

ウサギは、もう何も言わなかった。眠ったように目を閉じて、その顔は青ざめていた。

大丈夫。ウサギ。もうすぐ、きみは人間らしい生活を取り戻す。トイレさえ、部屋の隅っこでさせられているような生活から、僕はきみを助け出す。

--

だが、ウサギはちっとも僕の家に馴染まなかった。服を着せようと、随分と努力したが、ウサギは服を嫌がった。とうとう人間らしく言葉を話すことがなかったオオカミに育てられた少年のエピソードを思い出す。

野生。

というのとも違う。

多くの場合、礼儀正しく、洗練されて、相手への気遣いも怠らない。それが、ウサギという少女だった。

テレビをつけると、怖がって泣き、夜は、一人で寝るのが寂しいからと僕の布団にもぐり込む。作家の事は忘れろ。そうして、僕を愛しておくれ。ウサギは、泣きつかれて、指を口にくわえて眠る。僕は、欲情を押さえ、その小さな、今にも壊れそうな体を抱き締める。

「おじさんのところ、いつ帰る事ができるの?」
ウサギは、訊ねる。

「もう、彼のところには戻れないよ。」
「どうして?」
「なぜって。彼は間違っていたから。」
「おじさんは、間違ってない。間違ってないよっ。」

ウサギは、叫ぶ。

その時、僕は、ドキリとした。ウサギの股間から、血が伝って流れる。そういえば、前よりずっと大きくなった乳房が、小刻みに震えて。

ああ。きみは大人になろうとしている。

だから、汚れているものも、これからは見ていかないといけないんだ。

僕は、真っ白なタオルで、ウサギの股間をぬぐう。その血をじっと見つめて、ウサギは口を閉ざしたまま。

--

僕は、とうとう音を上げた。

次第に、僕に敵意を剥き出しにしてくるウサギに。あまりにも、作家を恋しがるウサギに。もう、あの瞳からキラキラした輝きを失ってしまったウサギに。気付けば、ぼんやりとして。僕が抱き締めて愛撫すれば、ただ、人形のように投げやりに身を任せるウサギに。

僕は、作家の元にウサギを返す事にした。

作家からは、僕に連絡もない。

ただ、噂では、人生最後とも呼べる大作に掛かっていると。

僕は、最後にウサギに懇願する。
「一度だけでいいから。服を着てくれないか?」

ウサギは、黙ってうなずく。

僕は、ウサギのために純白のドレスを用意した。ウサギは、ただ、僕にされるままに、ドレスの袖に腕を通し、髪を結われた。

僕は、ウサギを抱き締めて泣いた。ウサギは、そっと僕の髪を撫でた。

--

「さあ。」
僕は、連れ出した時と同じように毛布にくるんだウサギを、作家の家まで乗せて来た。

ウサギは、その家を見上げ、ほっと息をついた。

作家が出て来て、黙ってウサギを抱き締めた。作家もすっかり痩せて小さくなって。

僕は、てっきり責められるかと思って目を閉じたが、作家は、ただ一言。
「ありがとう。」
と。

「また、ウサギが戻って来た。」
と。

そうして、二人寄り添って、家に入って行く。

どうしても壊すことのできない愛に会って、どうしようもなく寂しくて。それでもそんな愛が存在することで、僕は世界に希望を。

僕は、僕の愛を探しに行く旅に出ることにしよう。


2002年10月10日(木) 他に男性を知らない私をやさしくリードしてくれたので、私は、簡単に、夫に抱かれることを好む女になっていた。

結婚して間もなくだった。あまり早くない時期に、私は、「そのこと」に疑惑を持つようになった。相手をあまり知らないうちに、相手の熱意にほだされての結婚。ハンサムで、やさしい人だったから、不安はなかった。ただ、言われるままに、身一つで彼の元に嫁いだ。

「そのこと」は、多分、女性ならすぐ気付く事。一緒に暮らしている人の事は、手に取るように分かる。最初は、ぼんやりとした違和感だったが、そのうち、その違和感はどんどん大きく、はっきりしたものになっていった。

「夫は二重人格ではないか。」という疑問。

結婚の当初から、夫は私を情熱的に求め、他に男性を知らない私をやさしくリードしてくれたので、私は、簡単に、夫に抱かれることを好む女になっていた。

だが、ある夜、私がいつものように夫が寝室を訪れるのを待っていたのに、いつまで経っても来ないから、しびれを切らし、私は夫の書斎を訪ねた。そこでは、夫は、読書用の眼鏡をかけ、難解な哲学書を読んでいた。

「まだ、お仕事遅くまで?」
「ああ。」
「お茶でも?」
「いや。要らない。」
「邪魔してごめんなさい。」
「いいんだ。だが、きみに知っておいてもらいたい。僕がここにこもったら、邪魔しないで欲しいんだ。集中して本を読みたいからね。」

私は、夫の冷たいとも思える態度に驚き、ベッドルームに戻ると泣き伏してしまった。昨夜はあんなに情熱的に愛してくれたのに、夫はもう、私の事を好きではなくなってしまったに違いない。

だが、そんな憂鬱も、あっという間に解消されるほどに、数日後には、夫は私を情熱的に求めてきたのだった。

その時、最初の違和感を感じた。

明るいスポーツマンタイプの夫と、繊細な読書家の夫。

読書好きな夫も、決して、私を愛していないわけではない。遅くにベッドルームに入って来た夫を、私が起きて待っていたことに気付くと、夫は私の肩を抱き、自分が書物から得た天文学の話、哲学の話、歴史の話を、いつまでも聞かせてくれる。それらをうっとりと聞き惚れる私がいた。

私は、二つの人格が入れ替わる夫に次第に慣れた。そして、ある日、あっというものを見ることになった。

--

夫が二人いたのだ。同窓会で遅くなると言って出掛けたのはいいが、しつこく絡んでくる、すっかり腹の出た中年男になっていた元のクラスメートに嫌気がさして、随分と早い時間に帰った。

「ただいま。あなた、誰かお客様?」
その時、私は見てしまった。振り返った、二人の夫。

「どういうこと?」
驚いて取り乱す私に、二人の夫はバツが悪そうな顔を向け、
「僕らは、双子なんだよ。」
と、言った。

それから、長い時間掛けて、私は二人の夫が言うことを理解しようと試みる。

「僕が次郎で、弟が三郎。」
と、情熱的なほうの夫が説明する。

私は、混乱して、半分泣きそうになりながら、二人の話を聞く。

二人は、あまりにも仲が良いために、同じ女性を愛していく事にしたのだと。そんな風なことを言った。

先に私を見つけた三郎のほうは、ひどく内気で私に交際を申し込むことすらできず、もっぱら、次郎が、私をデートに誘っていた事など。

二人の男に交互に抱かれていた嫌悪が波のように高まった。

私は部屋にこもり、中から鍵を掛けて、泣き伏した。

--

だが、二人の夫は、その後の生活で辛抱強く私を愛してくれたため、私の心はその奇妙な事実を受け入れるようになっていった。

私は、いや、私達三人は、だが、しかしここに来て一つの問題に突き当たる。

三人共、子供を欲しがっていた。だが、どちらの子供を産めばいいのだろう?私達は話し合った。そうして、まずは、次郎の子供を。それから、三年して、三郎の子供を身ごもった。

受け入れてしまうことで、幸福になれることもある。私は、二人のやさしい夫と、二人の可愛い子供に囲まれて幸福だった。次郎と三郎は、交互に、家にやってきては、私と子供達を守り続けてくれた。

だが、ある日、私は、それまで気にはなっていたが,怖くて口にできない言葉をそっと切り出す。
「ねえ。次郎と三郎ってことは、一郎という人がどこかにいるの?」

二人は、初めて、私が二人一緒のところを見つけた時のようにきまりが悪い顔をして、それから、
「あのね。怒らないで聞いて欲しい。実は僕達は三つ子なんだ。」
と、言った。

私は、もう、何を言われても驚かなかった。ただ、少し心がドキドキした。二人の男に抱かれることで、ちょっとした背徳心に似た物を感じ、それが生活のスパイスになっていた私の人生に、新たにもう一人の男が登場したのだもの。

「一郎さんはどこにいるの?」
「病院だ。幼い頃から体が弱くてね。」
「今回の結婚に、一郎さんは関係がないの?」
「いや。それが・・・。怒らないで聞いて欲しい。一郎も、きみを愛している。」
「そんな。会った事もないのに?」

それから、私は、ふと、結婚式の時の事を思い出す。随分と遠くから車椅子に乗った男性が私を眺めていた。夫となる人に良く似た人だったから、親戚か誰かだろうと、その時は、そんな風に思ったのだった。

「僕らは、きみのことを一つももらさずに報告している。きみの得意な料理。きみの好きな歌。どんな風に抱かれたら感じるか、まで。」
「ひどい。」

そんな風に言いながら、私は、本当には怒ってないのだった。私の性癖を、見知らぬ男性が覗き、そうして、愛する。なんて素敵なのだろうか。究極の愛とすら、言える。

「一郎さんに会いたいわ。」
「どうかな。兄さんは、とても内気なんだ。自分の体がみっともないと思ってるしね。」

それから、次郎が、手紙の束を渡してくれる。

そこには細かい字でびっしりと、私のことばかりが。寒くなったが、風邪をひいてないだろうか。つわりは重いと聞いたが、大丈夫か。子供達はもう、随分と大きくなったろうね。

私の目は潤み、手紙の束を胸に抱き締める。

奇妙な愛。三人の。いえ、四人の。

--

子供達は、もう、すっかり大きくなった。

実は、子供達が小学校六年と三年になった時、父親は一人ではないの、と、告げた。私が感じた違和感を、いつか子供達も感じるようになるだろうという懸念。それから、私のことは、次郎も三郎も同じように愛し、共有してくれていたが、子供のこととなると、どうしても、平等に愛するというわけにはいかなくなって来ていたから。

子供達は、少し時間が掛かったが、その事実を受け入れてくれた。

にっこりと笑って、
「つまり僕らには、お父さんが二人いるってわけだね。」
と、言ったのだ。

次郎と三郎は、お互い、自分の種を分けたほうの子供を可愛がりながらも、次郎は弟の子供に野球を教え、三郎は兄の子供に勉強の楽しさを教えてくれた。

そうだ。大きな家族。

ここにいない一郎も、全てを見ていてくれる安心感。

--

今、私は、病院のベッドにいる一郎のそばで、編み物をしている。

「もう、すっかり片付いたのかい?」
一郎は、やさしい声で訊ねる。

「ええ。明日、二人とも戻ってくるの。その時に。」

あんなに元気だった次郎と三郎は、息子達が成人したのを見て安心したのだろうか。二人ともバタバタと逝ってしまった。その間、支えてくれたのは一郎の手紙。

「結局、僕が最後に残ってしまったね。」
と、一郎は、皮肉な顔して笑った。

「今までの時間を取り戻しましょう。離れていた日々を。」
「こんな体の私でもいいのかい?」
「ええ。私も、次郎さんも三郎さんも、あなたがいたから。」
そこで、私は声を詰まらせる。

誰一人として、欠けて欲しくなかった。舞台上の登場人物。

息子達は二人共、海外で活躍している。明日、私は、息子達に全てを話す。お父さんは、もう一人いるのよ。と。

それから、一郎の手紙と私の日記を息子達に渡し終えたら、私は一郎と旅立つのだ。

あんまりにも長く、三人からのたくさんの愛を受け過ぎたせいで、私はすっかり甘やかされてしまった。この先、一郎までいなくなったら、私には耐えられないだろう。だから、出した結論。一郎と一緒に、永遠の旅に出る。最近では、お金さえ出せば、楽に、合法的に、そういった事ができるのだ。

明日。

次郎と三郎が待つ場所へ、一郎と二人で行く。

そこでは、楽しくて奇妙な関係の四人の男女が、尽きぬ話を交わすのだ。


2002年10月09日(水) 「ねえ。もう、別れたいでしょう?」めずらしく抱き合った夜。妻がそんなことをつぶやく。「どうして?」「だって、私達、喧嘩ばかり。」

僕の生まれた田舎にはね。大きな湖があるんだ。山を分け入って、随分長く歩くとね。ぽっかりと、大きな大きな湖が現われるんだ。ばあちゃんから聞いた話なんだけどさ。親の言うことを聞かない子供がいたら、その湖のほとりに連れて行くんだってさ。で、そこに置き去りにして、帰る。一晩経ってから、また、その湖に行くだろう?すると、子供はすっかり言う事を聞く良い子になってるっていうわけさ。

結婚したばかりの頃だっただろうか。

僕は、何気なく妻にそんな話をして聞かせた。

妻は身震いして、
「怖い話ねえ。」
と、言った。

「随分と大きな湖だったからね。で、年々大きくなっているようにも見えた。そのせいだろう。子供の悪い心を食って成長していく湖だってね。昔の人はそんな事を言い伝えてたんだよ。ま、あんまり言うことを聞かない子供は、本当にそうやって脅してたんだろうね。各地に伝わる鬼や山姥の話と同じさ。」
「嫌な話。」
「ただの言い伝えだよ。本気にするなって。」

僕は、怯えたような顔をしている妻を引き寄せると、安心させるように抱き締めた。

あの頃、まだ、僕らは幸福な夫婦だった。

--

「ねえ。どういう意味?ちゃんと答えてよ。」

また、始まった。妻が仁王立ちで、僕の前に立ちはだかっている。

「だから。そういう風に窮屈に物事を考えるのは疲れるだろう?」
「そう言って、結局は、私に負担が掛かるのよ。」
「だから、僕もやるって言ってるだろう?」
「いつもそうじゃない。あなたのために食事を作り、あなたのスーツをプレスして、あなたの汚したグラスを洗う。それが、私の存在理由なんでしょう?あなたにとっては。」
「違うって。」

僕は、もうすっかりやり取りに疲れて、食卓に読み掛けの新聞を放り出すと、自室に入り、わざと大きな音を立ててドアを締める。

つまらない事だ。僕が使ったグラスを洗わずにキッチンの流しに置いたままにするから、自分の負担が増えるのよ、とか、そんな事から始まった。

妻の声が、階下から響いている。まだ何か言い足らないのだろう。僕は耳を塞ぎ、目を閉じる。すっかりこじれてしまったように見える僕ら夫婦の関係は、どこから手を付けていいか分からないぐらいにこんがらがっている。

僕は、本当にそのまま眠ってしまったようだ。日曜日の朝。些細な事から喧嘩が始まって、今日一日を棒に振ってしまった。

もう、すっかり暗くなった時間に、僕はわざとむっつりとした顔を作って、階下に降りる。妻がキッチンで泣いている。僕は、知らん顔して、外に出る。この調子じゃ食事も作ってもらえそうにないから、外で何か食べようと思った。

--

「ねえ。もう、別れたいでしょう?」
めずらしく抱き合った夜。

妻がそんなことをつぶやく。

「どうして?」
「だって、私達、喧嘩ばかり。」
「僕は何も言うつもりはないんだ。喧嘩はいつもきみのほうから仕掛けてくるじゃないか。」
「なんでも私のせいなのね。」
「だってそうだろう。共働きで大変なのは分かるが、全ての負担を等分にするのは無理だ。」

僕は、ここまで言って、「しまった。」と思った。せっかく今日は喧嘩をしていないのに、妻は、また、僕の言葉に反応して喧嘩が始まるだろう。

だが、その日、妻は違っていた。ただ、泣いていた。僕は、少し慌てる。

「どうしたの?」
「別れたくない。ずっとあなたと一緒にいたいの。」
「馬鹿だな。別れるなんて誰も言ってないだろう?」
「でも、このままだと、私達、駄目になる。」
「だったら、努力しよう。」
「無理よ。さんざん努力したもの。だけど、駄目なの。あなたにきつい事しか言えない。」

妻は、むこうを向いて、ただ泣いている。僕は、そんな妻に何と声を掛けていいか分からずに、困惑して、そのまま眠ったふりをする。

何がどう深刻なのか。問題は、僕を置き去りにして、妻を少しずつ苦しめているようだ。

大丈夫。なるようになるさ。僕は、夢の中で妻に言う。

--

次の日、朝、いつものように仕事に行った妻は、戻って来なかった。僕は、慌てた。妻の携帯に掛けても、誰も出ない。妻の職場に電話をしてみると、欠勤していると言う。

一体、どこ言っちゃったんだよ?

僕は、その晩、まんじりともせずに朝を迎える。

次の日も、帰って来なかった。

あの日の涙は、別れの決意の涙なんだろうか?まさか。じゃあ、どうして僕にちゃんと言わなかった?一人で決めて。

僕がちゃんと訊いてやらなかったから?

分からない。分からない。

その日、夜遅く。警察から電話があった。奥さんらしき人を保護している、と。

--

妻は変わってしまった。僕が何を言っても、微笑んでうなずく人に。いつも、微笑を絶やさずに、僕のために食事を作り、服をプレスする。

具合が悪いから、と、あの謎の失踪の日以来、僕は妻の会社に告げて、妻を辞めさせた。

妻は、従順な人形のようになってしまった。

呼べば、はい、と答える。僕が笑えば一緒に笑う。僕が怒れば、ごめんなさい、と。何を言っても、ごめんなさいと。

ああ。きみ、どこ行っちゃったんだ?

僕は、妻を抱き締めて。

あの日、妻が見つかったのは、僕の田舎とこの町を結ぶ在来線のホーム。駅員が何を訊いても、ただ、微笑んでばかりで。僕の名前だけが言えて。

そうして、帰って来た妻は、すっかり変わっていた。

もう、妻じゃない生き物のようだ。

ねえ。僕がくだらない事を言ったら、うなずかないで、笑い飛ばしておくれ。僕が弱音を吐いたら、一緒に泣かずに、僕を叱り飛ばしておくれ。

だけど、きみは、もう、空っぽ。ただ、僕が投げ返した言葉を虚しく投げ返してくるだけの。

--

会社に言って、少しまとまった休暇をとった。そんなことは、入社以来初めてだ。今までの僕は、むしろ休日も、妻と向き合うのが嫌で仕事に出ることが多かったから。

「どこへいらっしゃるの?」
妻が、訊ねる。

「僕の田舎。」
「いなか。」
「湖のある場所。」
「わたし、そこ知ってるわ。」
「そうだろう。きみが最後に行った場所。きみがきみを置き去りにした場所さ。もう一度、きみを取り戻しに行くんだ。おいで。」

妻は、遠足に行く子供のように嬉しそうに、旅行カバンの荷物を出したり入れたり。

馬鹿なきみ。以前、僕がした他愛もない湖の話を信じて、聞き分けのいい子供になりに湖まで行ってしまった。

馬鹿な、きみ。馬鹿な、僕。

「さあ。行こう。」
僕は、妻の手を引いて。

取り戻しに行くよ。本当のきみを。湖に飲み込まれた本当のきみ。きっと、僕らは取り戻せる。

だから・・・。

いつか、もう一度、喧嘩をしよう。そこに愛があると信じていたからこそ、自分をぶつけ合えた。そんな喧嘩を。


2002年10月08日(火) でも、いつだって明るいから、僕らはみんな、彼女が病気だっていう事を忘れてしまうぐらいだった。

僕は、田舎の小さな小学校に転校して来た、小さなウサギだった。

父の転勤で、僕はその小学校にやってきたのだ。

僕はいじめられっ子だった。理由はよく分からない。多分、僕が小さいから。体も声も。だから、新しい小学校ではいじめられないようにしよう。そう思ってたけど、やっぱり駄目だった。前の小学校の時みたいにあからさまにいじめられるわけじゃないけど、体育の時間に僕が失敗するたびに、クスクス笑いが起こる。もちろん、友達だってできない。

そんなわけで、僕はその日、体育を休んだ。手を怪我したとか、そんな小さな嘘をついて。

その子は、しばらく休んでいたので、会うのは初めてだった。車椅子に乗っていた。とても可愛いウサギだった。

「転校生?」
と、その愛らしいウサギは訊いて来た。

「うん。」
僕は、彼女の目を見ずに答えた。

「どこから?」
「遠い街。ここよりずっと都会。」
彼女が尚も僕に質問をしてくるから、僕は恥かしくて、うつむいてしまった。

お願いだ。僕にかまわないで欲しい。だって、僕にかまったりしたら、きみまで笑われるよ。

「私、この村を出たことがないの。だから、他の場所に行ってみたいって、いつも思ってるのよ。」
彼女は、そんな風に言った。

僕を励ましてくれてるのかな。ふと、そんな事を思った。

「いつか、行けるよ。」
「いつか?そうかしら。」
「ああ。簡単さ。電車に乗って、駅を幾つかやり過ごす。途中でお弁当を食べたり。」
「すごく楽しそうね。」

僕は、ビスケという名前の、その女の子と友達になった。僕の名前はファーだと、自己紹介した。僕のことを、みんなチビスケと呼んでいたから、僕自身、自分の名前を忘れるところだった。

--

僕とビスケは、その日から友達になった。もっとも、学校ではあまり話をしない。ビスケは、学校でも他の子に話し掛けるのと同じように、僕に話し掛けてくれるけど。

ビスケは、いつも車椅子だった。どこが悪いのかな。訊いちゃ悪い気がしてなかなか訊けないでいた。ビスケは、時々学校を休むから、本当はあまり良くない病気を抱えているのかもしれない。でも、いつだって明るいから、僕らはみんな、彼女が病気だっていう事を忘れてしまうぐらいだった。

僕は、ビスケがいるから、いじめられても学校を休まなかった。

だが、僕がビスケと仲がいいのが気に入らないヤツはいる。僕は、ビスケが休んだある日、帰り道で石をぶつけられた。振り返っても、ヤツらは隠れて姿を見せない。僕は、ぐっと涙をこらえて、道を急ぐ。

それから、急に思いついて、ビスケを見舞う事にした。

初めて訪れるビスケの家は、とても大きいお屋敷だった。

「来てくれたのね。」
ビスケは嬉しそうに、僕を迎えてくれた。

「具合、悪いの?」
「そうでもないの。ただ、気分がどうしようもなく滅入る日があって。」

僕は、驚いた。ビスケはいつだって明るくて、落ち込む事なんかなかったから。僕は、いや、僕だけじゃなくて他のクラスメートも、彼女のそんな明るさに頼っていたのだと思う。僕は急に何かビスケを元気づける事をしてあげたくなった。僕は、ビスケに助けられてばかりだったから。一生懸命考えた。何ができる?

僕は、僕の秘密を教えてあげることにした。
「実はね。僕、みんなに隠していることがあるんだよ。」
「素敵。なあに?」
「笑わない?」
「笑わないわ。」
「誰にも言わないでね。僕、耳で空を飛べるんだ。」
「本当に?」
「うん。本当さ。」

ビスケは、僕が想像していたように、目をキラキラさせて、僕を見た。僕は、得意だった。

「ねえ。飛んで見せてちょうだい。」
「それは無理だよ。」
「あら。どうして?」
「飛んでたのは、小さい頃。まだ、母が生きてた頃。母が見ててくれたら、僕は空が飛べた。」
「今は?」
「母がいなくなってから、飛べなくなった。僕は自信を失った。」
「残念だわ。あなた、きっと飛べるのに。」
「そうかな。本当は飛んで見せたいんだけど。」
「今、分かったの。あなたが、小さいけど、勇気がある理由。あなたは、空を飛べる種類だから。空飛びウサギなのね。」
「そんなウサギがいるんだ。」
「ええ。今、考えたの。」

僕らは、笑った。

それから、僕は訊いた。
「ねえ。きみの病気、教えてくれる?」

ビスケは、口を閉じて。長い間黙っていた。
「私の病気?誰にも治せない奇病なのよ。耳が少しずつ短くなって、いつか、耳はすっかりなくなって、その時私は死んじゃうの。ウサギでも何でもない物になって。」

ビスケは、目を閉じたまま、そんな風に教えてくれた。

ビスケのヒゲが小刻みに震えていた。

僕は、ビスケを抱き締めた。

後で思えば、随分と大胆な事をしたものだ。だけど、その時は、どうしてもそうしたかったから。その後僕は、それが最初で最後。ビスケの耳が縮んで行くのを知るのが怖くて、僕はビスケを抱き締める事ができなくなった。

--

ビスケは、もう、学校に来なくなった。

僕らは、みな、寂しい思いをした。

いじめはエスカレートしていった。多分、ビスケが見てないから。そうして、寂しい思いも、僕にぶつけてきた。

僕は、激しいいじめにも平気なふりをして、ビスケを見舞う。

ビスケの耳は、もう、会った頃の半分ぐらいになってしまった。

「どう?調子は?」
僕は、訊く。

「まあまあよ。」
ビスケは、力なく微笑む。

ビスケのお母さんが、僕にそっと言った事がある。生きる気力が減ってしまっているから、病気の進行が早くなっているんだって。

「僕に出来る事はない?」
僕は、無理と分かって訊ねてみる。

「ないわ。なんにも。」
もう、ビスケは、僕の顔もあまり見ない。

「僕、もうすぐ転校するんだ。」

ビスケは、その時、ようやく僕の顔を見る。
「そうなの?」
「うん。父の転勤で。」
「また、帰って来る?」
「分からない。」
「でも、それがいいかもしれないわ。ここは、ちっぽけでつまらない村だもの。」

ビスケの口からそんな言葉を聞くのは悲しかった。

それから、僕らはもう、あまり話もしない。ビスケは、この村以外の場所の事を聞きたがるけれど、僕は、ビスケのいるこの村が大好きだった。ビスケが笑ってくれたら、そこが天国だった。

--

「僕、明日、村を出るんだ。」
「もう、お別れね。」

ビスケの耳は、もう、随分と小さくなってしまった。本当は、体の問題じゃなくて、気力の問題だ、と医者は言っているらしい。

「私の耳がすっかりなくなって、ウサギじゃなくなっちゃう所をあなたに見られなくて良かったかもしれないわ。」

ビスケの笑い声は、嫌な感じに響いた。

「ねえ。僕、飛ぶ。明日。だから、見ていて。」
「え?飛べるの?」
「もちろん、飛べるさ。見ていてくれたら。」

次の日、ビスケの屋敷の周りには、多くのウサギが集まった。僕は、今、風見鶏に捕まって、風を受けている。
「本当に、大丈夫?」
ビスケが不安そうに訊くから、
「大丈夫さ。」
と、笑ってみせた。

そうだ。きみが見ていてくれるなら。

僕は、ゆっくりと手を離し、風に乗った。一瞬、落下しそうになって、それから、体の力を抜くと、フワッと浮いた。

やった。

僕は、思った。

そうだ。あの頃、僕は、まだ、自分の体をそんなに意識していなくて。母は、ファー、素敵よ。と、笑って見ていてくれて。

僕は、その時の感じを思い出すように目を閉じて、体を風に任せた。

僕は、ゆっくりと耳を動かして、舵取りをする。

ビスケ、見えるかい?

僕は、少し余裕が出て来て、下で見ているみんなに手を振る。

窓からは、ビスケが見ている。多分。僕は、大きく旋回して。ビスケに手を振る。

ぐるんぐるん。

僕は、その瞬間バランスを失って落下する。

あっ。

それから、意識を失った。

--

気が付いた時には、僕は、もう、次の町の病院。

父が笑っていた。
「まったく、調子に乗りおって。」

ベッドのわきには、たくさんの花束。手紙。ビスケの手紙も。

「ねえ。僕、空が飛べるんだ。」
「ああ。知ってる。母さんも、そんな種類のウサギだった。」
父は、やさしく言って。それから、忙しい、と言い、いつものように仕事に行ってしまった。

僕は、ビスケからの手紙を開く。

そこには、あの頃のビスケが戻って来たような、明るい言葉。

「私は、耳がなくなってウサギには見えなくなっても、ウサギで。あなたを見ていて、ウサギ以上になれそうに思いました。ファーが空を飛んだ時、ファーは、ウサギよりも大きな可能性を私に見せてくれました。」

そんな事が書かれていた。

新しい小学校では、もう、僕はいじめられない。

そんな気がしていた。


2002年10月07日(月) そうしていなければ、自分が大企業の中でゆっくりと死んでいってしまうから、彼らは、私をいじめた。

彼が、私をつついて起こしている。

「んん・・・。おはよう。」
私は、起きあがると、彼の愛撫を受け、それから、足元に転がったオブジェのような骨を避けながら、仕事に行く準備をするために部屋を出る。

「行ってくるわ。待っててね。」

彼は無言で私を見送る。

--

私が勤めているのは小さな会社で、従業員も20人そこそこだ。小さい会社だけに、人間関係でトラブルを起こすといずらくなるから、目立たないように、失敗のないように。私は、定時まできっちりと仕事をして、それから、ほとんど寄り道もせず、急いで帰宅するのが、毎日。

私は、前の職場でひどいいじめに遭った。理由は、今考えてもよく分からない。多分、些細な事で。だけど、私をいじめる誰かにとっては、私をいじめる事はとても重要なのだ。そうしていなければ、自分が大企業の中でゆっくりと死んでいってしまうから、彼らは、私をいじめた。それだけの事だ。

そうして、私は、一度死のうと思った。

本当に死んでしまったのかもしれない。

そうして、そこで彼に出会った。

そうして、もう、一人ぼっちではなくなった。彼は、私をもう一度、人間のいる場所に送り出してくれた。彼が目当てとしているものを、私が与えられるから。私が欲しがっているものを、彼がくれるから。私達はそうやって結びついている。

--

「一緒に帰らない?」
めずらしく、職場の同僚、と言っても、私より随分年上の女性のセガミさんが声を掛けて来た。

「はい。」
私は、うなずく。

「この先に、美味しいお店、見つけたの。そこ、行ってみない?」
「ええ。」

私達は、そこでビールを頼み、それから、チマチマと飾り付けられた和食に箸をつける。

「食べるの、好きなんですか?」
「ええ。大好きよ。」
セガミさんは、にっこり笑って、箸をどんどん進めて行く。

「ねえ。もう、会社、慣れた?」
「ええ。まあ。」
私は、セガミさんが私をいきなり誘った目的が分からずに、慎重に返事を返す。

「あんまり食べないのねえ。」
「ええ。あまりお腹空かないんですよ。」
「うらやましいわ。私なんか。ほら、お腹の肉、見てよ。」
セガミさんは、笑う。

気さくな先輩の役回りを演じて、私が気を許すのを待っているのだろうか。

そのうち、酔いも随分と回ったのだろう。セガミさんの口調が少しずつ砕けてくる。
「ねえ。大人しいのもいいけどさあ。ちょっと気をつけたほうがいいよ。営業のキグチくん。あなたを見る目、どう見ても、怪しい。」
「そうですか。」
「うん。あなたみたいな子はね。一番付きまとわれ易いの。なんていうのかなあ。何しても受け入れちゃう感じっていうの?嫌、とか言いそうにないタイプは狙われ易いのよ。」
「そんな・・・。キグチさんにちょっと失礼ですよ。」
「彼ね。ほんと、気をつけたほうがいいって。前もちょっと問題起こしててさあ。前の事務の女の子にね。ストーカーみたいな感じで付きまとって、警察沙汰よ。」
「そうなんですか。」
「だからさあ。これ、私からの忠告。ね。聞いたほうがいいって。あなた、どっか、私達と一線引いて付き合ってるでしょう?だけどさ。ほんと、私達、心配してるのよねえ。」

ついでに、ひがんでるんでしょう?私は、この手の悪意に敏感だから、分かる。

私は、残りのビールを空けてしまうと、立ち上がる。
「帰ります。」

「あら。やだ。もう?」
「ええ。」

セガミさんは、もう少し飲んでから帰ると言う。

私は、こんなところにいるより、早く彼のいる場所に戻りたい。そうして、眠るのだ。暖かい場所。

--

セガミさんの言った通りだった。

少しずつ、彼の気配。キグチという男の。私が仕事を終えて帰る時と、朝来た時では、机の上の物の配置が変わっていたり。最初は、そんな些細なこと。

それから、無言電話。これも、きっとキグチさんだ。

いろんな気配が濃くなって行く。

「ねえ。もうすぐよ。」
私は、彼に言う。

ある日、一人残業で遅くなった時。会社を出てから、ずっと付いて来る気配。

キグチさんだろうか。

私は、わざと歩調を緩め、私に付きまとってくる影の正体を知ろうとする。

もう、薄暗い路地。家は近い。

家の前で、私は立ち止まる。気配も、立ち止まる。私は、ゆっくりと鍵を取り出すふりをして。
「キグチさん?」
と呼び掛ける。

「あはは。バレてんの。」
キグチさんが、電信柱の陰から出て来た。

「どうして付いて来たりしたの?」
「頼まれたんだよ。」
「誰に?」
「誰だっていいだろう?」
「セガミさんでしょう?」
「なんだ、知ってんのかよ。」

キグチさんは曖昧に笑い、私は彼をにらみつける。

「頼まれたんだよ。きみを怖がらせてくれって。」
「どうして、そんなことを?」
「さあなあ。あんたが美人だからじゃないの?」
「入る?」
「あ?ああ・・・。」

私は、キグチさんを招き入れる。

セガミさんだろうが、キグチさんだろうが、どっちでもいい。悪意の主も、そういう悪意に簡単に操られる男も、この際、同罪だ。

「セガミさんと付き合ってるの?」
私は、グラスを出しながら、訊ねる。

「ああ。まあ。あっちがさあ。しつこいんだよ。あっちは、旦那もいるってのにさあ。」
「で、私のことを警戒して?」
「ああ。でさ。俺らの事、ばらすってさ。言うこと聞いてくれないと。」
「しょうがない人ねえ。」
「ああいう女は怖いねえ。骨までしゃぶられそうだ。」

キグチさんは、落ち着き無く、部屋を見まわしている。

「にしても、あんた、会社にいる時と雰囲気違うよなあ?」
「そう?」
「なんかさ。この部屋で見るあんたは、随分落ち着いちゃって。」
「そうかしら。」
「会社だと、何考えてるかわかんないって。そういうところが、他の女の反感を買うんだと思うんだけど。」
「ねえ。私と寝たい?」
「え?」
「私と、寝たい?」
「え。そりゃあ。まあ。あんたみたいな美人となら。」
「いらっしゃい。」

私は、ベッドルームに。彼の待つ部屋に。キグチさんを誘う。

キグチさんは、ふらふらと付いて来る。

部屋に入るなり、
「なんだよ?ここは?」
キグチさんは、そう叫ぼうとするが、ゴボゴボと水を吸い込む音にかき消されて、最後まで言えない。

そう。ここは海。

彼がゆっくりと、銀色の鱗を光らせながら、近付いて来て、もがくキグチさんにそっと歯を剥く。

あとは、彼に任せよう。

私は、ベッドの上に横になって、私の愛しい彼が獰猛になるのを眺める。とてもいい気分だ。

朝までには、骨がまた増える。もう少ししたら、セガミさんの分の骨も増えるからね。と、キグチさんに向かってつぶやく。

--

私は、あの日、世の中に絶望して、海に身を投げた。そうして、彼と出会った。


2002年10月04日(金) 「愛していると一言。それだけでいいのに。」尚も、僕の手は激しく彼女を打ち据え、彼女がぐったりしたところで僕は彼女を抱き締める。

「ほう。最近じゃ、そんなことまでできるんだね?」
「そうです。脳の研究は、一般に知られているよりはずっと進んでいるのです。」
「じゃあ、こんなことはできるだろうか?たとえば・・・。」

僕は、ある一つの試みを、その男に向かってゆっくりと切り出す。

--

「もっと力を抜けよ。そうしたら、そんなに辛くはない。」
僕は、そう彼女にささやく。

だが、無駄だった。

どんなにやさしくじっくりと時間を掛けて攻め立てても、声一つ上げようとしない妻を抱きながら、こんなことをしても結局は、絶望と怒りだけが残るのだということを僕は知っている。

「今日はもういい。服を着ろよ。」
僕は、長時間格闘した末に、あきらめて彼女から離れる。

彼女は、青ざめた顔でバスローブを拾い、小さな声で
「おやすみなさい。」
と言って出て行く。

僕は、ベッドの上に彼女の痕跡に、身悶えし、時には涙さえ流す。どうしたらいいのだ?どうすれば?

--

大概のものは金で手に入れることができると、幼い頃から父に教わって育った。実際に、僕が持っていないものは何一つなかった。勉強だけはしろと厳しく言われていたが、その他の事柄の大切さは全く教わらずに大きくなった。

「いいか?金のある人間は、金を使えば済むことに労力を割く必要がない、という点において、金がない人間よりも、はるかに時間を有効に使えるんだ。」
父は、よく、そう言っていた。

そう言って、朝から晩まで飛び回り、あれやこれやと人々に指示を出し、おいしいものを食べ、女を抱くような男だった。

そんな男に育てられた僕はいろいろな面でクラスメートに馴染めず、学校生活に苦痛を感じていた。どうして、意味もなくグランドを走ったりしなければならないのだろう?どうして、すぐ汚れるのに自分達で毎日毎日教室を掃除しないといけないんだろう?だが、そんなことで教師と議論することすら無駄だと思っていた僕は、ただ、黙って目立たないように昼間の生活をやり過ごしていた。

大学を卒業すると、父の会社のそれなりのポジションが保証されていた。しかし、その頃の僕は、そろそろ自分の人生に疑問を持つようになっていた。父は、二言目には、金、金、と言うが、一体、金をそんなに貯めて、何を買えばいいのだろう?もう、大概のものは揃っている。車だって、洋服だって。欲しいものが分からなかった。あと、足らないものは・・・。足らないものと言えば・・・。

--

彼女は、父の会社と取り引きのある、ちっぽけな会社のオーナーの娘だった。初めて見たのは、会社が主催する創立記念パーティだった。薔薇色の頬。漆黒の長い髪、白い肌。絵本から飛び出して来たように華やかで愛らしかった。彼女の父親も、娘が可愛くてたまらないのだろう。周囲が彼女の美しさに感嘆の声を上げるのをニコニコと幸福そうに聞いていた。

あれだ。

あれが僕の欲しいものだ。

僕は、いても立ってもいられず、早速、翌日から花束を届けさせ、電話をするようになった。

僕は、生まれてから一度も誰かを愛するために自分から行動した事がなかったため、愛し方はひどく不器用だった。

そうして、勝手に決めたプロポーズの日。

僕は、ドレスに靴に宝石に花束。ありったけを持って、彼女の家を訪れた。

「結婚しよう。」
その言葉を言うまで、僕は、僕のプロポーズが断られるなんて夢にも思ってなかった。

だが、彼女は、驚いて、それから、静かに首を振って、
「ごめんなさい。」
と、小さな声で言った。

「どうして?何が気に入らない?」
「私、あなたを愛せないわ。」
「愛?愛なんて、後からついて来る。大事なのは、二人が一生豊かに暮らせるだけの金であって、それが僕にはあるんだよ。」
「あなたのそういうところが、理解できないの。」

僕は、首を振り、呆然と立ち尽くす。

--

欲しいものは、何でも金で買う。それが僕のやり方だ。

事は簡単だった。

彼女の父親の会社との取り引きを打ち切る。

そう宣告すればいいだけだった。小さな会社だ。ひとたまりもない。

その夜、彼女は泣きながら僕の元へやって来た。
「お願い。父の会社との取り引きを、今まで通り続けて。私、あなたのお嫁さんになります。」

僕は幸福に包まれて、笑った。
「いい子だ。」

--

「なあ。どうして言わない?僕のために、愛していると言っておくれ。」
僕は、懇願する。

だが、彼女は、首を振って。
「私、父のために一度だけ嘘をついたの。父に向かって、あなたの事を愛しているから結婚させてくれと頼んだわ。父は、何度も何度も、私に本当のことを問いただしたけれど、私は嘘をつき通したの。父は、最後にはとてもとても悲しそうな目をして、『幸せにおなり。』と言ったわ。もう、嘘はつきたくないの。」

彼女は、美しい。

僕は、急にこみあげた怒りに任せて、彼女の頬を打つ。

彼女は、それでも静かに僕の顔を見つめる。

「愛していると一言。それだけでいいのに。」
尚も、僕の手は激しく彼女を打ち据え、彼女がぐったりしたところで僕は彼女を抱き締める。

「ごめんよ。僕の愛しい人。」
僕は、人形のように動かなくなった彼女の服を脱がせた。

--

「そうです。脳の研究は、一般に知られているよりはずっと進んでいるのです。」
その、若くて意欲的な研究者は、僕に熱心に説明をする。

「どの細胞が、どの言葉をつかさどっているかも?」
「そうです。」
「じゃあ、こういう事はできるかな。一つの言葉以外を全部記憶から消す。何か言おうとしても、言葉として出て来る単語は一つだけ。っていうのは?」

研究者は、長く考えた末に、答える。
「できなくはないが、危険です。記憶を操作するのは。記憶の混乱。必要な記憶の破壊。」
「頼む。金はいくらでも出す。きみが欲しがっていた設備も、用意させる。」

研究者は、迷った挙句に、ゆっくりとうなずく。

--

彼女は、病院のベッドで、まだ眠っている。体の検診と偽ってここに連れて来て、金に目のくらんだ研究者にある改造を施してもらったのだ。

彼女は、今、ゆっくりと目覚める。

自分がどこにいるか分からないようだ。

僕は、彼女のベッドに近付く。

僕の姿を認めると、彼女の顔がいつものようにこわばる。

「調子はどうだい?」
僕は、やさしく訊ねる。

「愛してるわ。」
「そうか。いい子だ。何か欲しいものは?」
「愛してるわ。」
「素敵な響きだ。もっと言っておくれ。」
「愛してるわ。愛してるわ。愛して・・・。」

彼女の指が、信じられないという風に、自分の唇を押さえる。

「もう、気付いたかい?」
僕は、微笑む。

「なに。ちょっとしたことさ。きみが本来、言うべきであって言えなかった言葉を、言えるようにしてもらった。それだけ。風邪を治すのと一緒さ。」

彼女の目は、今、怒りに燃えているが、唇から発せられる言葉はただ一つ。
「愛してるわ。」

そうだ。何度でも言っておくれ。その言葉一つに随分と金が掛かったのだから。僕は、壊れたゼンマイ仕掛けの人形のような女を抱き締める。


2002年10月03日(木) 「三丁目の空き家があるだろう?」「うん。」「そこのポストに、返して欲しいものを書いて入れるんだ。」「そうしたら?」

小学校の頃だ。

僕は、田舎のその学校で、どちらかというといじめられっ子だった。今みたいな陰湿ないじめじゃないけれど、何か班を作って活動しよう、という時なんかは、どこにも入れてもらえず、先生が困ったようにどこかの班に頼んで僕を無理に入れてもらう、というようなことがしょっちゅうあったりした。

そんんな僕にも友達が出来た。都会のほうから転校して来たナガミネくんという子だ。

ナガミネくんは、眼鏡をかけていて、痩せていた、どちらかというと内気な子だった。教室の前で初めて見た時、「こいつ僕よりひどい。」そんな風に思ったことを覚えている。

担任は、ナガミネくんを僕の横に座らせた。僕も、ナガミネくんも、最初は、同属嫌悪とでもいうのだろうか。お互いに口を利かなかった。だが、次第に、ゆっくりと、僕らは仲良くなった。多分、一番のきっかけは、ナガミネくんが持っていた科学雑誌を、僕が勇気を奮って「貸して。」と頼んだ事だっただろう。僕らは、急速に仲良くなり、「同類相憐れむ」などというクラスメートの陰口をものともしないぐらい、仲良しになった。

ナガミネくん。

僕の親友。

彼がいなければ、僕の小学校生活はとても味気ないものになっていただろう。

--

ある日の事。

僕は、親戚のお兄さんが訪ねて来てお土産にくれたドイツ製の小型のナイフが嬉しくて、学校に持って行く事を禁じられていたのにも関わらず、こっそり持って行き、ナガミネくんに見せた。

「へえ。すごいな。」
「だろう?すごくよく切れるんだ。」

僕は、そう言って、鉛筆を取り出すと、ナイフで削って見せた。

ナガミネくんは、だが、あまり興味を示さずすぐ話題を変えて来たので、僕としても、ナガミネくんの態度が興醒めで、あきらめてナイフを机に放り込んだ。

それから、体育の授業があり、僕は、ナイフの事はすっかり忘れて帰宅した。

夕飯の後でナイフの事を思い出し、慌てて記憶を辿ったが、多分、学校に忘れたのだろうと思った。

次の日。

だが、しかし、ナイフは机の中にはなかった。僕は、ナガミネくんを問い詰めた。

「僕は知らないよ。」
「嘘だ。だって、きみにしか教えてないんだぜ。」
「僕は・・・。ナイフなんか、あまり好きじゃないし・・・。」
「じゃあ、どうして、失くなってるんだよ?」
「知らないよ。誰か他のヤツだろう?なんで僕がきみの物を盗らないといけないんだよ?」

僕は、激しい怒りで、ナガミネくんを殴らんばかりだった。クラスメートが、僕らを面白そうに眺めている。

結局、次の日も、その次の日も、ナガミネくんとはしゃべらなかった。両親からは、ナイフを失くした事でひどく怒られた。

ナイフが失くなってから三日目。ナガミネくんが下駄箱のところで、僕を待っていた。

「なんだよ?」
「あの・・・さ。あのナイフ、どうしても取り戻したい?」
「当たり前だろ。」
「失くしたものを取り戻したい時のおまじない。」
「なに、それ?」
「三丁目の空き家があるだろう?」
「うん。」
「そこのポストに、返して欲しいものを書いて入れるんだ。」
「そうしたら?」
「何日かして行ったら、書いたものが戻ってくるって。そこの家の樫の木の根元を掘ったらいいって。」
「なんでお前がそういうこと知ってんの?」
「聞いたから。」
「誰に?」
「ばあちゃん。」
「ま、いいや。連れてってくれよ。そこん家。」
「うん。」

僕らは、黙って三丁目まで歩いて、その家に辿り着いた。僕は、ランドセルから取り出したノートに、「ナイフ」と書いて、その家の郵便受けに放り込んだ。錆びた郵便受けは、コトリと音を立てて僕からの手紙を飲み込んだ。

数日後。

僕とナガミネくんはその家の樫の木の根元を掘る。

あった。

土の中からナイフが。

本当だったんだな。

僕は、ナガミネくんを見て、笑った。

--

郵便受けの話は、もう一つある。

僕とナガミネくんは、ある時、学校の帰りに拾った子猫を空き地でこっそり飼っていた事がある。一人っ子の僕は、猫が可愛くて可愛くて、夢中になった。それで、学校の給食なんかをせっせと持って、猫に会いに行ったのに、ある日猫はいなくなっていた。

だから、僕は、「ねこ」と書いた紙を郵便受けに入れた。

それから一週間後、僕とナガミネくんは、再び樫の木の根元を掘った。

僕は、ひっと声を出して、しりもちをついた。猫の硬くなった死体は、二度と目を開けなかった。僕は、泣いた。

それっきり、僕は、郵便受けに失くしたものを探してもらうことはなかった。

その後、転勤の多いお父さんに付いて、ナガミネくんは転校して行った。僕は、見送りに行って、あのナイフを渡した。

--

数年ぶりに、ナガミネくんから電話があった。出張のついでに、寄る、と言う。

僕は、知人に頼んで新鮮な魚を用意してもらった。それから、上手い地酒。ナガミネくんは、酒は好きだろうか?

僕は、あれやこれやを並べた食卓で、ナガミネくんを出迎える。
「狭い部屋だけどさ。」

訪ねて来たナガミネくんは、相変わらずだった。眼鏡を掛けて、内気そうに微笑む。

僕は、酒を勧めながら、
「どう?最近は?」
と、訊ねた。

「まあまあだよ。相変わらず。メーカーの研究室にこもりっぱなしだよ。」
「そうか。」
「きみは?結婚したって聞いたけど?」
「それが・・・。妻は出て行った。」
「そうか。」

ナガミネくんは、それ以上聞かなかった。

それから、酒を酌み交わしながら、ポツリポツリと、今のお互いのこと。子供の頃の事。

ナガミネくんは、言う。
「結局、転校してからも友達はできなくてさ。なんていうのかな。表面的には親しくなるんだけど、本当に心を許して付き合えたと言えるのはきみだけだったんだなってね。」
「俺もだよ。結婚しても、妻の事は結局わからずじまいだし。」

僕はもう、随分飲み過ぎて、ふいにこんな言葉が口をついて出る。
「なあ。覚えてるか?あの空き家の郵便受けの事。」

「え・・・。ああ。」
「あれさあ。お前、本当に信じてた?」
「いや。あれなんだけどさ。本当は・・・。」
「俺さあ。最初はナガミネくんのこと疑ってたんだよね。ナイフの事は、本当はね。」
「・・・。」
「だけどさ。猫の時、信じた。」
「・・・。」
「だってさ。ナガミネくんも、あの猫、好きだったろ?だから、猫を殺して土に埋めたりなんかするわけないもんな。」
「・・・。」
「なあ。もう一度、あの空き家へ行ってみないか?」
「いいけど・・・。もう、お前、随分酔ってるみたいだけど、大丈夫か?」
「大丈夫だよ。な。ナガミネくん。きみともう一度行きたかったんだよ。あの場所へ。」

僕は、ナガミネくんの返事を待たずに、立ち上がり、さっさと玄関を出て、夜道を歩く。

「おい。待てよ。」
ナガミネくんが追い掛けて来て、言う。
「何もこんな夜に行かなくても。」

「いいじゃないか。付き合ってくれよ。」

古い空き家は、以前のままそこにあった。

「先週、ここの郵便受けに探し物を書いて入れたんだよ。」
そう言いながら、僕は樫の木の根元を素手で掘る。

木の根元は、まだ、最近誰かが掘り起こした事があるかのように柔らかい。

「なんて・・・。書いたんだい?」
「いなくなった、僕の妻。」

僕は、もう、汗だくになる。

「なあ。あれ、嘘だったんだよ。」
ナガミネくんが、奮える声で、言う。
「ナイフが欲しかった。猫も。本当は、猫なんてどうでも良かった。だけど、何となく、きみが猫を可愛がり過ぎるから、つまんなくてさあ。」

「ほら。ナガミネくん、何かに当たったよ。」
「なあ。聞いてるか?きみの奥さんなんて、知らないんだよ。僕も知らないものが、ここに埋まってるわけないだろう?」

「僕の奥さんはね。僕を置いて出て行くような人じゃないんだ。だから、きっと戻って来たがってるんだよ。僕のところにね。ほら。」
その時、土の中から出て来た白い腕が、月光に光る。

「ナガミネくんは、嘘なんかつくわけない。親友だもん。」
僕は、にっこり笑ってみせる。

ナイフが欲しかったのなら、最初から言えば良かったのに。僕はそんなこととっくに知っていた。だって、僕達は親友じゃないか。

なのに、ナガミネくんは、どうしてそんな泣きそうな顔で僕を見ているのだろう?


2002年10月01日(火) 「ねえ・・・。」「なに?」「あなたの言うので、正解。私は、あなたとセックスできる。」「だろう?比べるなんて、ナンセンスだよ。」

「いつも違う女の子連れてるんだもん。」
「そうだったかな?」
「だから、絶対無理と思ってた。付き合うのなんて。」
「はは。そんなにモテないよ。」
「振るの?振られるの?」
「どっちかっていうと、振られる。」
「モテる人ほど、そう言うのよね。」

私は、彼の膝に仰向けに寝転がって、上から見下ろす彼の頬を撫でている。こんな日が来るとは思わなかった。彼との三度目のデートの時、彼が、「うちに来る?」と訊いてきたから、私は、飛び跳ねて着いて来た。

彼は、頬を撫でる私の指をつかまえて、口に含む。

ああ。なんて幸福なのかしら。

ふと気付くと、猫が。ドアの隙間からこちらを見ている。

「びっくりしたー!猫、飼ってるの?」
「ああ。」
「好きなんだ?」
「まあね。」

私は、かまわず彼とイチャつこうかと思うが、猫の視線が気になってどうも集中できず、結局起き上がってスカートのしわを伸ばす。

「ねえ。外行かない?」
「部屋が落ち着くよ。」

私が彼から離れたのを見計らっていたかのように、先ほどの猫がスルリと部屋に入って来て、彼の膝に乗る。

「可愛いわねえ。」
私は、彼に気に入られようと猫に手を伸ばすが、猫は奇妙に身をよじって、私の手をかわす。

「やだ。嫌われちゃった。」
「はは。こいつは結構気難しいんだよ。」

気付くと、また、ドアの隙間から一匹。

また、一匹。

結局、五匹が部屋の中にいるのに気付く。

「ねえ。こんなに一杯飼ってるの?」
「ああ。そうだよ。」
「それって、すごくない?」
「そうかなあ。」
「拾って来るの?」
「まあね。いつのまにか増えるんだ。」
「へえ・・・。」

私は、あきれて。それから、なんだか落ち着かない気分になって、
「帰るわ。」
と、思わず言う。

「そう?」
「うん。なんだか、猫に監視されてるみたいだし。」
「すぐ慣れるよ。」
「ううん。今日は帰る。また、ね。」
「ああ。」

彼は、そこを動こうともしない。

部屋を出る間際、ふと振り向くと、彼は、膝を降りようとする猫を捕まえて抱き寄せるところだった。その光景が何だか不安で、私は、急いで部屋を出た。

たかが、猫じゃない。

だけど、あの猫達。私、嫌いだわ。いつか、猫のことで彼と喧嘩するようにならないかしら。

私は、そんな不安を抱えながら、彼のアパートを足早に去る。

--

「ねえ。聞いてる?」
「ん?」
「やだ。やっぱり聞いてない。」

私は、相変わらず猫とじゃれている彼にあきれて、頬を膨らませてみせた。

「何怒ってんだよ?」
「猫と私とどっちが大事なのよ?」
「どっちって。どっちもだよ。馬鹿だなあ。比べられるわけないしさあ。」
「じゃあ、質問を変えるわ。猫のどこが好きなの?」
「気まぐれなところ。僕が猫を愛するより、ずっと少なく僕を愛してくるところ。」
「じゃ、私は?」
「うーんと。セックスできるところ。」
「そんなの答えになってないよ。」
「そう?」

彼は、私の腕を引き寄せると、猫を膝からよけながら、口づけてくる。

「んん・・・。待ってよ。」
「どうして?」
「猫が見てる。」
「じゃ、あっちに行こう。」

彼は、私を立たせると、腰に手を回しながらベッドルームへ入り、内側からドアを閉める。

「見せつけてやろうと思ったのに。」
「趣味悪いわねえ。」

彼は私の唇を塞いだまま、器用に私の服を脱がせて行く。

「ねえ・・・。」
「なに?」
「あなたの言うので、正解。私は、あなたとセックスできる。」
「だろう?比べるなんて、ナンセンスだよ。」

私達は、お互いを味わい、唾液が絡む音を立てながら、深い深い場所へと分け入って行く。

「気持ちいい?」
「ん・・・。」

その時、猫がドアの外をカリカリと爪で引っ掻くかすかな音が聞こえて来る。

--

「ねえ。行くなって言ったら、やめるよ?」
「どうして?」
「だって・・・。」
「せっかくのチャンスじゃないか。」
「だけど・・・。」
「いいかい?きみは、会社で三人だけ選ばれたんだよ。せっかくの海外での活躍のチャンスを逃すのかい?」
「不安なの。」
「何が?」
「あなたと離れるのが。」
「どうして?電話もするし、会いにも行くよ。二年なんて、あっという間だ。」
「そうだけど。」

不安なのは、猫。

馬鹿みたいだって言われるのは分かっていて、だから、そんなこと言えなくて。違う言葉が口をついて出て来る。
「いつもそうなのよね。」
「何が?」
「私がどうなろうと、どうだっていいんでしょう?」
「どういう意味だよ。」
「あなたは、私がいようがいまいが、幸福そうだって事。」
「何言ってんだよ。」
「ねえ。お願いよ。行くなって言ってよ。そばにいてくれって。」
「・・・。」
「嘘でもいいから。」
「本当にそう言ったら、どうする?せっかくのチャンスもふいにして、ここで暮らすのかい?」
「ええ。あなたといる。あなたの猫なんかに負けたくないもの。」

私は、その瞬間、本気でそういう事を思っていた。

できることなら、猫になりたいと。

気まぐれで、彼の寵愛を受ける・・・。

そんなことを本気で思ったから。

--

次の瞬間、私は猫になっていた。

ニャア。

彼は私を抱き上げた。
「本当に猫になっちゃったんだね。」

彼は、あきれたように。でも、いとおしそうに、私を抱き上げる。

髭を引っ張って来るから、私は不快で暴れる。彼はクスクス笑う。
「まったく。きみ、なんて可愛い猫。」

五匹の猫が私を見ている。

ようこそ。私達の仲間。そんな風に言っているように見える。ねえ。もしかして?

--

彼には、新しい彼女ができたみたいだ。

眼鏡を掛けた、内気そうな女の子。

私達は、彼と彼女を見守る。それにも飽きると、私は、部屋を横切る小さな蜘蛛に気を取られて遊び始める。

「ほら。見て。猫の尻尾って、何て不思議に動くんだろうね。」
そんな風に笑う彼を、新しい彼女は微笑んで見つめている。

−今度は長続きするかしら?

−さあね。無理じゃない?ほら。彼があんまり私達をかまうから、彼女イライラしてるわよ。

−時間の問題ね。仲間が、また増える。

そんな会話を交わしながら、私たち猫は、それなりに仲良く、彼の気持ちのよい部屋で暮らすのだった。


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