セクサロイドは眠らない
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愛人業
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2004年03月25日(木) |
目が覚めたら、彼は元通りになっているのだ。彼女は知っている。人間はそうやって時々壊れる事が大事なのだと。 |
彼女は知っていた。彼が優秀な科学者であり技術者であるということを。それは多分、彼女にとって幸福なこと。
彼は、時折生きていくためのこと、たとえば、学会に出たり、テレビに出たりといういろいろの事をするために出掛ける以外は、彼女がいるその屋敷で研究を続けていた。
彼女は、そばにいて、彼から呼ばれるまでじっと待っているのだ。
彼女は、待つことは苦痛ではなかった。だが、それでも彼はしょっちゅう言っているのだ。 「待ってておくれ。いい子だから。」
それは、彼が彼自身に言っている言葉のように響いた。
彼は、時折、何もかもに自信を失って、泣き出す。そんな時は彼女は彼のそばに座って、 「そんなことないですわ。あなたはすばらしい科学者です。」 と言い続ける。
「もう、私は駄目なんだ。才能のかけらもない。」 「そんなことないですわ。あなたはすばらしい科学者です。」 「全部出し尽くしてしまった。私は空っぽだ。」 「そんなことないですわ。あなたはすばらしい科学者です。」 「あいつが私をあざ笑って言うんだ。俺の研究を盗んだなって。ひどいよ。」 「そんなことないですわ。あなたはすばらしい科学者です。」
そうしているうちに、彼は眠ってしまう。
目が覚めたら、彼は元通りになっているのだ。
彼女は知っている。人間はそうやって時々壊れる事が大事なのだと。
「私が壊れたら、おまえだけが治せるのだよ。」 と、言われた事がある。
彼女は、彼の治し方を知らない。ただ、彼が自分で自分を治しているように見えるのに。
彼女は、たくさんの事は知らない。知っているのは、教えられたことだけ。
--
彼女は、彼によって作られた。彼女は自分が人間ではないということを知っている。彼女はロボットだった。
今までに、何度も何度も改良され、目が覚めるとそのたびに、新たに情報が追加され、新しいプログラムが動いているのだと説明される。
「最高の美女だ。」 とも言われた。
何でも、コンピュータがはじきだした、一番素晴らしい顔形にしてあるらしい。だが、ほんの少し、左の目じりが上向きなことと、口元にあるホクロが、彼女の顔に魅力を加えている。左右全く同じなのはいけないんだ、と彼が説明してくれたのを、彼女は黙って聞いた。
「お前を最高の存在にしてあげよう。」 彼は、そう言った。
あらゆる部分が、日々手を加えられ、優美な動き、優れた知性。
だが、彼は彼女を見て、じっと悩んでいる。
「どうしましたの?」 彼女は訊ねる。
「おまえに最後の改造を加えなくては。」 「最後?」 「ああ。完璧だ。見た目も中身も。だが、最後にもう一箇所だけ手を加える場所があるのだよ。」 「では、お願いします。」 「ああ。明日、取り掛かる。そうしたら、お前は、本物になる。完璧になる。本当の女になるのだよ。」
彼の目は少し血走っているように見えた。
「少し眠った方がいいですわ。」 「分かった。おいで。」
彼は、いつも彼女を自分のベッドの傍らに寝かせてくれる。
間もなく、寝息が聞こえ始める。
彼女は、彼のそばでいつものように過ごす。その機械の脳には、「心配」という言葉が、何度検索し直しても浮かんでくる。
彼の呼吸の速さ、血走った目、眉間に寄せた皺。彼女の手を握る、強さ。
--
「じゃあ、始めよう。」 彼は言った。
彼女は彼に従った。
彼が電源を切ると、彼女は意識を失う。
--
彼は震える指を押さえて、彼女の体の一部に最後の改良を施す。
随分と悩んだ。どうしようかと。
だが、完璧な存在にしたかった。
彼とて男である。彼女を置いて町に出た時は女を抱く。顔は醜いが、金はある。場合によっては、彼の名前を知って、体を差し出してくる女もいる。優秀な遺伝子が欲しいとか、何とか言って。
ずっと、愛と、体の問題は別の筈だった。
だが、彼が出張を終えて帰ってくると、愛しい顔が出迎える。
「おかえりなさい。」 と、従順な声。
どうして、この、最愛の女を抱けないのか。日増しにそんな気持ちがつのった。
彼は、彼女にそのための機能を作っていなかった。ただ、知性に優れた究極の女を作りたかった。恋をするとは思わなかった。
だが、彼は、もう彼女を抱きたいという気持ちを抑えられなくなっていた。
だから、最後の改造を施す。
女として彼を受け入れるための器官をつけて、彼女を、今度こそ本物の女にするのだ。
--
「気分はどうかね?」 「いいですわ。」 「まだ本調子じゃないだろう。今日は、このまま体を休めていなさい。」
彼女は、彼の顔を見上げる。
「なんだ?」 「変ですわ。私にいたわりの言葉など。私は機械です。機械に体の心配をすることは無用です。」 「だが・・・。しかし。」
彼はもう、目の前の存在をただの機械とは思えなくなっていた。
「いや。いいんだ。とにかく、あちらの部屋で休んでなさい。私も、徹夜の作業で疲れた。少し眠るから。」 「分かりました。」
彼女は、言われるままに隣室に行った。
彼がいつものように彼のベッドで眠るように言わなかったことに疑問を抱きつつ。
--
彼は、自分自身に絶望していた。
彼女を抱きたい。その一心で、彼女を改造した。だが、自分がやったことの醜さに我慢がならなかった。
汚らわしい。
少年の日、大人を憎んだ。女を憎んだ。彼を愛の対象と見ない人々を憎んだ。
そして、彼は究極の女を作った。
はずだった。
なのに、彼は、彼の愛を受け入れる道具を作っただけだったのだ。
彼は、絶望していた。そして、薬を一瓶飲んだ。
--
彼女は待っていた。ずっと待っていた。だが、何日経っても彼は来なかった。
「お前は、本物になる。完璧になる。本当の女になるのだよ。」 確か、彼はそう言ってくれた。
だから、待った。
「そんなことないですわ。あなたはすばらしい科学者です。」 声を出してみた。
そうしたら、彼が戻ってくるかもしれないと。
「そんなことないですわ。あなたはすばらしい科学者です。」
だが、返事はない。
2004年03月22日(月) |
綿でできたスポーツブラなんかじゃない。レースがふんだんに使われたかなりセクシーなやつだ。 |
「じゃあ、パパ、行ってくるね。」 「あんまり遅くなったら駄目だぞ。」 「分かってるって。」
やれやれ。春休みになった途端、この調子だ。
私は、春の休日の昼下がりを家でくつろいで過ごす。梨佳はこの春小学校を卒業して、今は休みを満喫していて、いつもどこかに遊びに行っている状態だ。
離婚した妻は、海外から祝いの品を寄越して来た。もう、離婚してから五年になる。離婚の際、梨佳は迷わず私と暮らすことを選んだ。
娘というのは、いつまでも子供の癖に、知らないところで思った以上に大人になっていたりする。たとえば、彼女が部屋のベランダに干している下着。綿でできたスポーツブラなんかじゃない。レースがふんだんに使われたかなりセクシーなやつだ。友達も皆、こういうのをしているんだという。
「お前に胸なんてあったっけ?」 なんてからかったら、
「ひどーい。パパ、触ってごらんよ。」 と言って胸を突き出してくるものだから、笑って逃げた事もあった。
どんな男の子が好きで、誰からコクられて、だけど友達がその子の事を好きで・・・。
何だってしゃべってくる。全く、大人なんだか、子供なんだか。
私は、一人、秘蔵のワインを出して娘の成長を祝う。
--
ドアチャイムが鳴ったのは、少しワインを飲み過ぎてソファで居眠りしていた時だった。
慌てて身を起こし、玄関に出てみる。
「こんにちは。梨佳、いますか?」 「ああ。ええっと。梨佳の友達だね。」 「はい。」 「ごめんね。今日は、梨佳は他の友達と遊びに行ってるみたいなんだ。」 「そう・・・、ですか。」 「ああ。携帯に掛けてごらん。」 「あの。いいんです。梨佳に借りてた物、返しに来ただけですから。それで、あの、ママがお礼も持たせてくれたんで。」 「ありがとう。じゃあ、梨佳に伝えるだけでいいんだね?」 「はい。」
少女はペコリと頭を下げて、帰って行った。
手元のリボンが掛かった包みは見たことがある。たしか、紅茶の専門店のものだ。思いがけない来客のせいで、すっかり目が覚めた。勢いでグラスを片付け、夕飯の下ごしらえに入った。
--
「そうなんだ。知奈、来たんだ。」 「ああ。お前に電話するように言ったんだがね。」 「また、後で電話しとく。」
梨佳のリクエストで野菜が多めのメニューをつつきながら、私は訊ねる。 「で?今日は何してたんだ?」 「男子のグループとボーリングしてた。」 「しかし、よく遊ぶなあ。」 「いいじゃん。最後、勉強もすっごい頑張ったんだから。」 「いいけどな。中学に入る頃には勉強の仕方を忘れるんじゃないか?」 「うるさいなあ。」
梨佳は、頬を膨らませて。
だが、にこっと笑って、こう反撃してきた。 「ね。パパ、最近デートしてないみたいだけど、どうしたの?」 「え?」 「だからさあ。前、時々女の人から電話掛かってきてたじゃん。」 「ああ・・・。そうだな。もう掛けて来ないだろう。」 「何?ふられたの?それとも怒らせちゃった?」 「うるさいな。パパの問題だろ。」 「いいじゃん。教えてよ。大事な事だよ。」 「まあ、どっちからともなく・・・。ってとこだな。」 「ふーん。」 「気になるか?」 「うん。まあね。やっぱ、パパには変な人と付き合って欲しくないから。」
梨佳は笑いながら食器を片付け、さっさと部屋に入ってしまった。
残された私は別れた女の事を少し思い出してみたりした。何が悪かったのか。多分、お互いの想いが足らなかった。お互いの都合を優先させた付き合いには、どこか踏み込み切れないものを感じていた。だから、別れた。
もう間に合わせの愛では駄目な年齢なのだ。
--
中学に入って。梨佳は部活だの塾だの、と、帰宅が遅くなった。たまに、随分と長電話もしている。私と顔を合わせても、以前のように何でも話をする子ではなくなった。
今日も。まだ帰らない。
彼女の部屋で携帯が鳴っている。めずらしい。命より大事にしている携帯電話だ。
普段ならそんなことをしない私だが、今日は虫の居所が悪かったのか。梨佳の部屋を開け、彼女の携帯を手にすると、そのまま通話ボタンを押した。
「もしもし?梨佳?あたし。ねえ。明日の晩のことだけど・・・。」 「もしもし。」 「え?あ。梨佳じゃないの?」 「梨佳の父です。」 「ごめんなさい。」
電話は切れた。
私は、勢いで携帯の履歴を見た。知奈。ああ。あの子か。他の履歴も見た。知奈とかいう子も。男の子も。たくさんの名前。
私は、今掛かってきたばかりの知奈という子のところに電話をした。
「はい?梨佳?」 「私です。」 「ああ。梨佳のパパ。」 「すまない。梨佳がどこに行ってるか、知らないか?」 「えっと・・・。」 「教えにくいかもしれないが。最近の梨佳の行動がよく分からなくなってるのは、親としてまずい事だと思いますから。」 「あの。今日は知りません。てっきりおうちにいるかと思ったんで。」 「そうですか。じゃあ、何か分かったら教えてください。」
私は、携帯を切った。
--
「じゃあ、今、あなたの家に泊まってるって言うんですね?」 私は、知奈という娘に言った。
「はい。しばらく帰りたくないって。」 「あなたの家にも迷惑を掛けてしまう。」 「うちはいいんです。お姉ちゃんが大学生になって、家出てったから。部屋空いてるし。」 「だが、しかし・・・。」 「ねえ。梨佳のパパ、お願い。父親には言えないこととかもあるから。」 「まだ中学ですよ。」 「私が、毎日報告しますから。」
私は、知奈という娘の顔を見た。どこにでもいるような、顔。梨佳と似たりよったりの髪型や装飾。綺麗だが、町の雑踏の中では見分けられないような。
「・・・分かりました。」
その日から、知奈という娘と連絡を取り合う。時には、梨佳の服や持ち物を渡すために、知奈に会いに行った。
「どうです?梨佳は最近。」 「元気にしてます。」 「まだ帰る気はないんでしょうか?」 「ええ・・・。多分。」 「何が悪いのかな。」 「え?」 「いや。男親だけじゃ、何がまずいのかな。」 「さあ・・・。私が梨佳だったら、おじさまみたいなパパ、ラッキーだと思うけどな。」 「あなたは?お父さんは?どうしてますか?」 「単身赴任です。」 「そうですか・・・。」
--
それから数日後。私は、マクドナルドでアルバイトをしている梨佳を見つけた。
店でちょっとした口論をした後、私は、梨佳を連れて家に戻った。
梨佳の片頬は赤くなっている。私が平手で叩いたのだ。
「まったく。何を考えてるんだ。お前は、まだ子供なんだぞ。」 「子供、子供って言わないで。」 「お前の友達関係とかも、まったく分からん。なんでそんなに繋がりたがるのだ。どうして、いつもいつも、携帯で繋がってなくちゃならんのだ。」 「孤独だから・・・。」 「安っぽい孤独だな。」
梨佳は、うつむいていて、長い髪が顔を隠していた。
「今日、これから、知奈さんのところに行って、お礼とお詫びを言いに行こう。」 私は、梨佳にそっと言った。
梨佳は首を振った。
「どうして?」 「パパにしたら、どうだっていいことかもしれないけど・・・。」 「だから、何が?」 「知奈よ。」 「何が言いたい?」 「パパの事が好きなの。」 「・・・。」
その瞬間、私は混乱する。なぜ、知奈とかいう子の事が問題なのか。
「ねえ。私、知奈に協力するって言ったの。」 「何を?」 「だから。パパといろいろ話をする機会を作ってあげるって。」 「そんなもの・・・。」 「そんなものって言わないで。あたしたち、真剣だったんだから。」 「とにかく・・・。」 「とにかく、じゃないわ。パパ。あたしたち、一生懸命考えたの。」 「だから、帰って来なかったのか。」 「他に方法を思いつかなかったんだもの。」 「つまらん。」 「つまらなくないよ。」
梨佳は泣いていた。
私は、分からなかった。知奈という子の、熱っぽい瞳を、たった今思い出した。話をしている時の、どこか居心地悪い感じを。だが、私は、考えないようにしていた。娘の友達の大勢の中の一人。そうして、名前もすぐ忘れるつもりで。
だが、突如、知奈という少女が私を不安にさせる。次に会う時、私はどう彼女の視線を受け止めればいいのか?あるいは、彼女が私以外の男に恋をするまで、逃げ回るか。
「お前一人で行っておいで。知奈さんのところから荷物を引き上げて。」 「パパ・・・。」 「一言言っておいてくれないか。知奈さんに。私がそのうち、お礼に食事に誘いたいからって。」 「・・・。」
梨佳は、大人の女のように、うなずいた。
--
「今日は、お誘いありがとう。」 車に乗り込んで来た少女の香りは今までの花の香りと違う、少しクールな香りだった。
無表情を装っている顔の、瞳だけが熱く私を見ていた。
逃げ出したくなる。少なくとも、しばらく前に終わった付き合いとは、似ても似つかぬ。あの時は、お互いに傷つかぬようにするのに気を取られ過ぎていたというのに。
恋というものは。
ある日突然、それまで知っていたはずの相手と自分の役柄がガラリと変わる瞬間。友達同士とか、上司と部下とか、大人と子供とか。そういった言葉では片付けられなくなる瞬間。
少女の手の震えに、自分の手を重ねたくなる瞬間。
2004年03月19日(金) |
その男女は、夫婦としてやって来たが、夫婦のようではなかった。恋人同士のような、敵同士のような。 |
風が出て来た。
母が経営している小さな浜辺の宿の玄関がカタカタと風で音を立て始める。
少年は、舌打ちをした。このまま外で風が吹く様を見ていたら、すぐにでも母が心配して少年を呼ぶだろう。少年は、重い腰を上げて宿に戻った。
「風が強くなってきたわね。」 母が言った。
もう何度となく、この季節になると母が言う言葉。
「うん。」 「部屋に入ってなさい。」 「分かってる。」
少年は、ほんの少し唇を突き出して、頬を膨らませて見せる。が、母は構わず、宿の玄関から入り込む砂を丁寧に掃いている。
「そんなに砂の掃除が大変なら、玄関がきちんと閉まるように直してもらったらいいのに。お金がないわけでもないだろう。」 少年は母に言う。
「そんなことしたら、何も入れなくなるじゃない?」 母は意味不明の事を言いながら、しゃがみ込んで最後には手で砂を集める。
少年は、暖炉の上に置かれたコルクの栓をした瓶に目をやる。砂の入った瓶。
「今夜は、お客さんが来るから。」 「どんな人達?」 「ご夫婦よ。」 「僕、挨拶してもいいかな。」 「・・・ええ。多分。でも、あまり邪魔にならないようにして。」 「分かってるよ。うるさくしないようにする。」
少年は二階へ上がって行った。
宿の女主人は小さくため息をついた。ねえ。あの子。そろそろ反抗期かしら。だんだん扱いが難しくなるわ。もうすぐ客から海の向こうの話を聞くだけでは満足しなくなるでしょう。きっと、遠くに行きたがる。そうしたら私、どうすればいいのかしら?
--
少年の体は砂でできていた。少年の父親が砂男だから。ある日、母は、大量の砂と共に彼を吐き出して、そして彼は産まれたのだ。少年が産まれた時には、もう、少年の父はいなかった。風に乗ってどこかに行ってしまっていたのだ。
少年が住んでいるのは小さな島だった。住人は年寄りばかりだ。訪れる客もほとんどいない。おまけに少年の体は砂で出来ているから、誰かと強く抱き合うこともできないし、食べ物や飲み物も必要としない。
母と海が全てだった。ずっと。
幼い頃はそれで良かった。年に一度、嵐の季節には、少年が叩きつける風に怯えても一晩中歌を歌ってくれていた。その歌を聴いていると、少年は安心して、いつの間にか眠りに就くことができた。
だが、もう少年は幼い子供ではない。海の向こうの話を聞いているだけでは満足できない。
母は怖がっているのだ。少年が父親と同じように風にさらわれて遠くに行ってしまう事を。だが、少年はそれでも構わないと思っている。強い風が彼の体をバラバラにしても。そうやって何か別のものになり、新しい世界を知って行った砂の男の話を、いつか、カモメから聞いた事がある。今はまだ、母を一人にはできないし、彼自身が母を頼りにしている部分もあるから、もう少しだけ母のそばにいるつもりだが、そのうち彼は風に乗るつもりでいる。その気持ちは日増しに膨らんで、もう抑えられなくなってきているのだ。
--
その男女は、夫婦としてやって来たが、夫婦のようではなかった。恋人同士のような、敵同士のような。
少年が挨拶をすると、男は笑って、 「お前みたいな種族の事は知ってるよ。こっちに来なさい。」 と言って、少年をそばに座らせた。
女は数秒間じっと少年を見て、それから、 「前に会った事があるかしら?」 と訊ねた。
「ないと思います。」 少年は答えた。
母は、食事の給仕を手早く済ませ、後は部屋に入ってしまった。
男は陽に焼けていた。長く旅を続けていたらしい。女の方は身ごもっていて幸福そうだった。赤ちゃんを産むには少し高齢な気がしたが、多分、無事に産むことができるだろう。
「なんでこんな何もないところに来たの?」 少年は不思議だった。
女が言った。 「この人が来たがったのよ。」
男が言った。 「前にここに来た事があってね。なぜか、気になっていたんだ。」
少年はうなずいた。
女が少年に触れようとしたから、少年は慌てて後ずさった。
「ごめんなさい。僕・・・。」 「いいのよ。知ってたの。この世に、抱き締める事ができない存在があることを。前もそうだった。食べる事も飲む事も、抱き締められる事も叶わない。こういったら失礼だけど、私なら、そんな事耐えられないわ。」 「僕みたいなのに遭った事があるの?」 「ええ。あなたみたいな子供。」 「彼はどうなった?」 「風に乗って行ったわ。冬になって。」 「バラバラになって?」 「多分ね。気付いた時には、彼は一握りの砂を残して行ってしまっていたから。」 「彼は怖がっていたかな?」 「怖がる?どうかしら。でも、多分、彼は分かっていて、怖がってなかったわ。むしろ、待っていたのかもしれない。」 「そうなんだ・・・。」
少年は、自分と同じような存在を知るたびに胸が高鳴る。
それから、女が言った。 「先に部屋に行ってるわ。お腹に赤ちゃんがいるせいで、眠くてしょうがないの。」
女が出て行くと、男が訊いた。 「お前の母さんは元気か?」 「うん。」 「そうか。」 「母さんを知ってるの?」 「ああ。」 「でも、今日は二人共知らん顔してたよ。」 「気を遣ってくれたんだろう。私の妻が妊娠してるのを知って。」
少年は、男が何を言いたいのかを知るために少し待った。
だが、男は何も言わなかった。
少年もあきらめて、部屋に引き上げた。
--
次の日、泊り客は帰って行った。海が荒れそうだから、と。
少年は彼らを見送った。
そして、そのままいつまでも海を眺めていた。
知らぬ間に母が背後に来ていた。 「ねえ。どうして海を眺めるのが好きなの?」
少年は振り返らずに言った。 「向こう側と繋がってるからさ!」
母は、 「そうね。」 とだけ言って、そのまま立ち去った。
風が強くなって来た。
少年は風の話し声を聞いた。どこに行くだとか。どこから来ただとか。
それから、両手を広げた。
何度目かの強い強い風が手を差し伸べて少年の体を救い上げた。
少年はバラバラになって。
--
「ねえ。あなた。あの子、行ってしまったわ。」 彼女は、キッチンに座って。両手には、砂の入った瓶。
「分かってたの。いつか行くって。でも、少しでも長く引き止めておきたかった。」 瓶の中で砂がサラサラと音を立てる。
「私、ずっと思ってたわ。あなたたち砂男って、何て不自由なんでしょうって。そのもろい体を支えて生きて行くのはさぞかし大変でしょうって。でも、その後で、ずるいって思ったの。風に乗ってどこにだって行ける。風のせいにして、後に残した人にさようならも言わずにどこかに行ってしまうのなんて、ずるいって。」 砂は、また、サラサラと音を立てる。
「でも、どこにも行けないのではなくて、どこにでも行けるから、あなたを愛したのね。」
彼女の手の平の中で砂は。だが、彼女を、包み込んで。
「遠くに行かないときみを愛することができないと、そう思ったんだよ。」 彼は、彼女に言った。
彼女は、分かっていたわ、とうなずいた。
2004年03月17日(水) |
妻は微笑んで見せる。その目は語っている。ええ。分かってるわ。これは間違い。でも、お願い。このまま、 |
最近じゃ、ロボットも安価に手に入るようになった。そいつらはペットや家族の顔をして僕達の生活に入り込んで来ている。もちろん、人間に似せられてはいるが、動作も知性も実にお粗末だ。なぜ人は人型ロボットなんか欲しがるのだろう。そこには、人間の安っぽい欲望が映し出されているようで見ているだけで腹立たしい。
--
ある春の日、僕は素敵な女性と結婚をした。飾り気のない、笑顔の素敵な女性。
式が終わってようやく二人きりになった時、緊張の解けた顔で彼女は僕を見て言った。 「これからよろしくお願いします。」 「こちらこそ。」
僕は、彼女の手を握った。早く子供が欲しいと思った。多くの人々が結婚する時夢見るように、僕も夢見ていた。小さな家。彼女と僕と、僕らの可愛い子供。ささやかだが、誰にも壊されたくない家庭。
「子供は何人欲しい?」 僕は訊ねた。
「沢山よ。」 「僕もだ。」
--
間もなく、彼女は妊娠した。
「あなた、お帰りなさい。」 彼女の言葉は喜びに満ちていて、温かい食事の香りと共に僕を出迎える。
「無理するなよ。」 「ええ。大丈夫。」
食事を終えると、ソファに座り、生まれて来る子供について語り合う。そんな幸福。
--
「ご主人ですか。」 「はい。妻は、どういう具合なんでしょうか?」 「何とか落ち着いて来ました。ですが、しばらくは安静にしないと。」 「子供は?子供は無事ですか?」 「ええ。無事ですよ。」 「ありがとうございます。」 「ただし、奥さんの方は、次に妊娠したらもう、出産には耐えられないでしょう。残念ですが、この先はお子さんは望まれないほうがいいですよ。」
体の小さな妻は、子供を大層苦労して産んだ。入院してから三晩がかりのことだった。眠る妻の傍らで僕の手は震えていた。もう少しで、僕は妻と子と、両方失うところだったのだ。
妻は、血の気のない顔をして点滴につながれたまま、目を閉じていた。
僕は、泣いた。
幸福とは、いつもそれを失う不安と背中合わせだ。
--
随分と長く掛かったが、妻と、僕らの赤ちゃんは無事退院することができた。可愛い男の子だ。今はまだ、少し小さいが、きっと誰よりも大きく育つだろう。僕らは子供に、「大樹」と名づけた。
「心配掛けてごめんなさい。」 妻は、頭を下げた。
「きみが謝る事じゃないよ。」
でも。ああ。良かった。僕は、両手を広げ、妻と子をしっかりと抱き締めた。
--
大樹は、すくすくと育った。あっという間に五歳になった。
「大樹。お誕生日は何が欲しい?」 「えとね。パパ。僕、犬のロボットが欲しい。」 「ロボットか。ロボットは、駄目だ。」 「どうして?」 「パパは、ロボットはあんまり好きじゃないんだ。」 「でも、ママのアレルギーが出るから、本物の犬も駄目なんでしょう?」 「ああ。そうだな・・・。」 「僕、犬が欲しい。ママとお外に行けない時は、おうちで遊べるし。犬が欲しいよ。ねえ。お願い。」
振り返ると、妻が懇願するような目で見ていた。僕は、折れるしかなかった。
息子の誕生日を境に、仕事から帰った僕を出迎える声は三種類になった。 「あなた、おかえりなさい。」 「パパ、おかえり!」 「ワンワン。」
慣れれば、悪くはない。旅行の時は電源をOFFしておける犬ロボット。僕は晩酌のビールを飲みながら、妻と息子がロボット犬と戯れる姿に目を細める。
--
なぜこんな事が起こるのか。
もうすぐ小学校に入学するという時。息子は、家のすぐ前で交通事故に遭って亡くなってしまった。
体の弱い妻は、その日を境に寝たきりになってしまった。
時折、妻は息子の名前を呼ぶ。だが、返事はない。それから、妻は、初めて息子がいないのにはっと気付いて、激しく泣く。繰り返しだ。
そんな妻を見ていられない僕は、ある事を思いついた。息子に似せたロボットの入手。息子が生きていた頃に採取した息子の音声データをメーカに持っていけば、ロボットは息子の声でしゃべるようになる。
妻の主治医は、僕が相談するとすぐさま賛成した。このままだと奥さんの体が心配です。そう言われて、僕は迷わず決意した。
--
「ただいま。」 私は、言う。
「あなた、おかえりなさい。」 「パパ、おかえり!」 「ワンワン。」 変わらない声が出迎える。
僕は錯覚しそうになる。そこには、あたかも息子がいるようだ。だが、よく見れば、息子と同じ声を持つロボット。
妻は、それでも幸福そうだった。ロボットに、大樹のために買ったランドセルを背負わせて手を叩いている。
やりきれない気持ちで見ている僕に向かって、妻は微笑んで見せる。その目は語っている。
ええ。分かってるわ。これは間違い。でも、お願い。このまま、このロボットを息子と信じるふりをさせてちょうだい。
僕は、だから、何も言わない。
--
あちこち言った。妻と、大樹と、ロボット犬を乗せて。海が見える場所。広い草原。
僕らが家族と信じれば、それは家族だった。
--
ある日、僕が仕事から帰ると、 「パパ、おかえり!」 「ワンワン。」 という声。
不思議に思ってキッチンに行くと、妻がテーブルの上に伏せていて。空っぽの薬の瓶が転がっていた。
そばで、ロボット犬と大樹がぎこちない動作で戯れていた。
「なあ。眠ってるのか。」 僕の声に返事はなかった。
なんでだよ。お前がいつもみたいに出迎えてくれなくちゃ。なあ。返事しろよ。僕はがっくりとそこに膝をついて、頭を抱える。
--
「ただいま。」 いつものように。
「あなた、おかえりなさい。」 「パパ、おかえり!」 「ワンワン。」 再び、三人の声が出迎える。
妻の姿をしたロボット。そのそばで、大樹とロボット犬。
もはや、ロボットは、家族の一員ではない。人間である僕が、彼らの一員だ。
だが、ロボットか、人間か。そんなことはどちらでもいい。そこにあると思えば、愛が、絆が、確かに見える。
夜は長い。妻の前にビールのコップを置いて、僕も、自分のコップにビールを注ぐ。
そういえば、書類が届いていた。必要な事項を記入して、データを添える。明日、契約に行くのだ。
私がもし死んだら、私の声を持つロボットを作成してもらうために。
そうしないと、誰が彼らに「ただいま」を言うのか。
2004年03月16日(火) |
彼女は問うたのだ。「ねえ。不倫に正しい不倫ってあるのかしら。」僕は、適当な返事をすると、彼女の白い滑らかな曲線に |
「ねえ。不倫に正しい不倫ってあるのかしら。」 彼女がベッドそんな事を訊いたことがある。
僕は、その時どんな言葉を返したっけ。うまく思い出せない。どっちにしても、正しいか正しくないか、なんて考えもしない事だったから。
彼女は、その時の僕の返事に満足したのか、しなかったのか。思い出そうとしても思い出せない。僕は、彼女の白い背中ばかりを気にしていた。
--
僕が出会った頃、彼女は子供服の店を始めたばかりだった。彼女自身は五歳の男の子の母親で、息子に服を作っていたのが近所で評判になってついには店を開く事になったというのが事の成り行きらしい。なんだか知らないうちに話が進んじゃって。そう言って彼女は謙遜してみせた。彼女の夫は事業に成功していて、彼女は自分の店を持つまでは退屈した主婦だった。
僕はと言えば、しがない企画屋だ。店の宣伝のためのホームページを立ち上げたいという理由で彼女が知人のつてを探した結果、僕に行き当たったというわけ。何も分からないから全部お任せしたいの。そう、僕に提示した金額は目が飛び出るほどだった。僕が慌てて修正した金額を告げると、彼女はほっとしたように笑った。 「正直なのね。他の業者さんはもっと高い値段を言ったわ。」 「そいつらはみんな、夢のような事を言いませんでしたか?」 「そうね。いろんな資料を沢山見せてくれたわ。」 「無駄なお金を遣う事は賛成できません。あなたの大切なお金だから。」 「あなたにお任せするわ。」 「いいんですか?」 「ええ。いいの。直感よ。」 「ありがとうございます。」
契約書なんか交わすのはよしましょう。と彼女は言った。そんなものに縛られたくないの。あなた自身がやりたい事を提案してちょうだい。
そして、僕は、彼女の店のためにコンテンツの企画書を作った。それはとても楽しく幸福な時間だった。彼女は、僕が困らないようにいつも多額のお金を払ってくれた。こんなには要りません、と慌てる僕に、彼女はいつも微笑んで見せた。あなたの無限の可能性に投資をしたいの、と彼女は言った。
そして、僕らの企画は大当たりして、彼女の作る子供服は飛ぶように売れた。気付けば、彼女のアトリエには多くの人々が出入りするようになっていた。
そうして、僕らはある日、親友から恋人同士になった。
彼女は、僕には過ぎる存在だった。ほっそりした体と神経質過ぎる性質が僕を惹き付けた。不安がる彼女を励ますのが僕の役目だった。ある、彼女の夫が出張に出ている間の嵐の夜、僕は彼女の震える体を抱き締めずにはいられなかった。
--
そんな幸福の絶頂の時、彼女は問うたのだ。 「ねえ。不倫に正しい不倫ってあるのかしら。」
僕は、適当な返事をすると、彼女の白い滑らかな曲線に唇を這わせた。時間が惜しかった。僕はもうすぐこの街を離れなければならなかった。僕が勤める会社が他県に支社を出すということで、その支社長に抜擢されたのだった。
彼女に切り出すのは、もう少し先でいい。
僕はもう一度、彼女の体の火照りが静まらないうちに彼女の体を抱いておきたかった。
数時間後、すっかり落ち着いた様子で僕の腕の中に納まっている彼女に僕は転勤の事をそっと切り出した。
彼女は、僕の言葉を静かに受け止めた。 「そう。おめでとう。」
彼女の顔から、特別な感情は読み取れなかった。僕は少しがっかりした。取り乱して行かないでくれと言われたらどうしようか、と思っていたのだ。
だが、彼女は、明るく微笑んで言った。 「頑張ってね。」 と。
僕は、 「ありがとう。」 と言った。
それしか言えなかった。当たり前だ。相手は裕福な家庭で幸福に暮らす美しい人妻だ。もしかしたら、そろそろ僕に飽きていたのかもしれない。
僕は、もう一度言った。 「ありがとう。」
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一年が過ぎ、僕は久しぶりに彼女がいる街を訪ねた。彼女の店は元の場所にあり、なかなか繁盛しているようだった。だが、店には彼女の姿はなかった。店番をしている女の子に訊くと、入院していると教えてくれた。
僕は、教えてもらった病院の内科の病棟を訪ねた。
病室の彼女は、とても小さくなっていた。僕を見ると、あのはにかんだような笑顔を見せてくれた。 「久しぶり。」 「恥ずかしいわ。こんな格好で。突然来るなんてひどい人ね。」 「変わらないね。」 「うそ。変わったわ。」 「いや。変わらない。綺麗だ。」
本当はすぐに帰る予定だった。だが、帰るわけにはいかないと感じた。彼女があまりにも小さくなっていたから。あまりにも寂しそうに微笑むから。
「何があったのか教えてくれるかな?」 僕は訊ねた。
「何って。あなたに教えるようなことはないわ。」 「嘘だ。ある筈だよ。ねえ。教えてくれないか。」
彼女は僕から視線を外すと、ぽつりぽつり語りだした。僕がいなくなってから、いろんな事が上手く行かなくなったのだと。店の方も。夫との関係も。そして、体までも壊してしまったと。
「僕のせいかい?」 「・・・。」 「教えて欲しい。僕のせいなんだろう?」 「・・・ええ。」
彼女は両の手で顔を覆った。 「あなたがいなくなっても平気だと思ったの。だけど、駄目だった。何もかもがびっくりするぐらいに上手くできなくなって。」
僕は、彼女の顔を覆う手を外すと、そっと涙の伝う頬に口付けた。 「ごめん。遅くなって。」 「いいえ。いいえ。あなたに迷惑は・・・。」
だが、残りの言葉は、僕の唇がふさいだ。
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その日から、週に一度。僕は理由を作って、彼女の元を訪れた。その頃には僕も結婚していたというのに。
僕が行くと、彼女の頬がバラ色に輝いた。彼女の病気は少しずつ回復し、僕は、時折彼女を病院から連れ出してあちこちへとドライブした。
春の海は、まだ少し肌寒かった。だが、彼女が靴を脱いで波と戯れている姿が、僕の心を熱くした。
「あると思うよ。」 僕は彼女に呼びかけた。
「え?何?」 「正しい不倫。」 「よく聞こえないわ。」
問い返す彼女に、僕は笑って手を振った。
そうやって、半年が過ぎ。
彼女は元気を取り戻した。彼女と彼女の夫との間には離婚が成立した。
それから、再び僕らの間に転機が訪れた。僕の妻の妊娠。それから、新しい支社立ち上げのための再びの転勤命令。
「そう。」 以前と同じような表情で答えた彼女だったが、直後、表情が歪んで涙が溢れて来た。
僕は彼女を抱き締めた。
またしても彼女を苦しめることになるのかと思い、僕も一緒に泣いた。
長い長い間、彼女は大声で泣いた。
それから、そっと僕の体を押しやると、言った。 「もう大丈夫よ。いってらっしゃい。」 「また来るから。必ず。」
彼女は黙ってうなずいた。
僕らの二度目の別れだった。
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店は、前と同じ場所にあった。
ドアを開けると、チリチリとドアベルが鳴った。
「いらっしゃいませ。」 彼女の声が明るく響いた。
「あら。お久しぶり。元気でした?」 彼女の笑顔は、以前とは明らかに異なっていた。
「ええ。何とか。」 「お子さんは?」 「三歳です。来年には幼稚園に上がります。」 「そう・・・。」
その時、そばにいた上品な紳士が、 「じゃあ、僕はこれで失礼するよ。」 と、彼女にささやいた。
彼女は、小さな表情の変化だけで彼に何かを伝えた。
僕は、その瞬間に分かった。
紳士が去った後、僕は彼女に訊ねた。 「恋人?」
彼女は、微笑んで頬を染めた。
僕はそれを見て、少し寂しい気持ちになった。
「ねえ。私、思うのだけれど。」 「何だい?」 「正しい不倫について。私、あなたに訊いたりしたわよね。」 「ああ。その事。」 「答えは、自分の心の中にあるのに。まるで、誰かがどこかで裁いてくれるんじゃないかって。ずっと待ってた。でも、どちらにしても、私から恋を捨てることなんかできやしなかったわ。恋が私を置いてどこかに行ってしまうまでは。」 「僕には分からない。そんなこと考えもしなかった。ただ・・・。」 「ただ・・・?」 「いつだってきみが僕を置いて行ってしまう気がするよ。身勝手だけどさ。」
彼女はそっと微笑んだ。 「あの恋があったから、今の私がいるのよ。」
僕も微笑んだ。 「僕もだよ。」
それから、僕は、 「また、来るよ。」 と言って店を出た。
そして振り返ると、もう二度と来ない場所を目に焼き付けるため、しばらくそこに立ち尽くした。
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