カウントシープ
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夢こそは真実だ。 夢は、ボク達が体験している世界をありのままに映し出す、 そのものだ。 夢はデタラメだという。違うのだ。夢がデタラメなのじゃなくて、世界は本当はもっとデタラメのものでできているにすぎないのだ。
世界の謎を解いて、単純明快にできたらと、アルバート少年は世界の法則を追い求めたけれど、世界は物質的な触れることのできる世界だけでは無かった。
目の前にヒトツの何かがあるならば、それと同様にヒトツの得たいの知れないものがあるのだ。闇に光を照らしても、その背後に同等の闇が生まれることを意味するのだ。
光を追い求めた先にあるものは何なのだろう。それ事態が無駄な足掻きだとしても、人の知りたいという気持ちに蓋はできない。あるものをなくしてしまうことなど出来ないし、ないことにしてしまうことでできた歪みに捕らわれるだけなのだから、
知りたい気持ちと得られないもどかしさと、未知への恐れを抱いたまま、生き続けていけたらと望む。
時々行くイギリス紅茶の店で、レモンティを購入した。
それは、青い缶に入った茶葉で、夏のアイスティとしても美味だと言われた。ボクはちょっと迷ったけれど、結局買ってみた。ボクはレモンティが好きじゃないけれど、ヴァイオリンの先生は好きかもしれない。季節は夏に向かっているし、涼しげなアイスティのイメージは悪くない。
このおじさんが薦めたものは大抵美味しかったしな、と思いながら買ったそのレモンティは、凄く美味しかった。 レモンティが嫌いと前述したけれど、それはレモンの渋みが嫌だから。レモンの味自体は好きで、このティはとてもさっぱりとしたレモン風味の味だった。 すっかり嵌ってしまって、それからいつでも作りおきして、今年の夏は麦茶や烏龍茶の変わりにレモンティが常備されている。
問題はひとつ、和食にもレモンティが出てきてしまうこと。ボク達は何の問題もなく飲んでいるけれど、ゲストが来たときはどうしようかしら、と思いつつ、黙ってこのレモンティを出してみようと思っている。
子供の頃、ぐるぐる回るのが好きだった。部屋の中でぐるぐる回って、目が回った感覚を楽しむのだ。時には反対周りに回って、回転を戻してみたり、とにかく回ることが好きだった。
ぐるぐる回りは一人遊びだ。自分の体の中から起こってくる感覚を楽しむ遊びで、興味の対象が広がる前の幼い自閉症の子供達には、比較的多く見られる遊びのひとつでもある。
もう自分は回転を止めてしまっているのに、視界だけぐるぐると回っているのが不思議で面白かった。自分では制御できないことが面白かったし、自分ではどうにもならないことに快感めいた感覚を覚えた。
けれど、不思議なもので、ボクは、回転する乗り物が苦手だ。遊園地ならコーヒーカップや、支柱を軸にして回転するものが駄目だ。ジェットコースターだってなんだって、絶叫マシンと呼ばれるものは全部苦手だけれど、回転系は怖いのじゃなくて、気持ち悪くなるので駄目。
自分が軸になって回転するのは好きで、自分ごと回転させられるのは苦手なのだ。
ある人が、ボクの手にある電子辞書を見て、「りんどうを引いてごらんなさい」と言った。ボクは、言われたとおりに「りんどう」を引いてみて、彼の視力に合わせて字を拡大してみせた。
「ほら、ごらんなさい。りんどうには毒があるのです」
彼の言うとおり、リンドウ(竜胆と書く)は有毒の植物だ。その毒性を生かして強心剤や利尿剤としても使い、また香水の原料にもなる。花は白色の壺状の姿をし、果実は赤く、赤褐色の根は苦い、と広辞苑に書かれているが、別の辞書で見る限り、花は青紫っぽい色もあるようだ。
彼はその後もリンドウにまつわる思い出話をしてくれたが、内容は理解できなかった。彼は、若い頃に気がふれてしまっているのだ。
だが、彼がボクに教えてくれることは何時だって正しい。 以前、彼はボクに「テレビはいけません」と言った。「テレビは、本当のことは流しませんから。どれが嘘でどれが本物かわからないでしょう」と言われ、何となく納得した。 また、別の機会に彼は、「パソコンは怖いといいますが、怖いのはパソコンではなくてそれを扱う人間なのです」とも言った。車だって、怖いのは運転する人間ですよ、と彼は付け加えた。
リンドウの話をしてくれた御礼を言うと、彼は「毒物学の本を読んだまでです」とにやりと笑った。
| 2005年06月26日(日) |
お人形遊び ユノア・クルス7 |
さて、一体人形とは何なのだろう。 単純に、所有者の心の対象、というわけではなさそうだ。心の対象ならば、人形はたったの一体でいいはずで、子供の頃にずっと離さず持ち歩いていた何か(ライナスの毛布を含む)は、もう1人の自分だった。
大人は人形を持ち歩かない。いや、持ち歩いている人もいるだろうけれど、大抵は自分の部屋の中に、大切に飾ったりしまったりしてある。渋澤龍彦氏の部屋にあった少女人形のように、常に空気を供にする対象もいれば、着飾ることを目的にした対象もあり、中には自分の好きなものに似せて飾るものもいるかもしれない。
いずれにしても、人形はもはや心の一部の対象になっており、「私達の全て」ではなくなっている。1人の人間の人格を多重構造に捕らえるならばその一部分が映し出されているといえばそうだろうし、そういう対象として、人形は限りなく空の媒体であり、いつでも魂を内包し、また放出して人形に戻りえる。
姿があり魂がある一方で、魂をなくしても居られる存在。
それに安心の全てを求めるような世界があるならば、それは人間社会、ひいては他者を相手にしない世界に落ち込んでいくことになるのだろうか。自分だけを愛して満たされる、ひとつの意志だけが存在する世界。
それが保ち続けられるならばそれもまたひとつなのかもしれない。大抵のものは、心に触れたくなってまた生きている対象を求め始めるだろう。人形と人間を行き来するなかで安定を保つような精神を、一度はみんな通り抜けてきたのだ。 成長が中途半端に止まったままで生きているならば、この先にまた時間は流れるのであって、その先に不変の姿で待っていてくれる人形が、やはり存在するのだ。
| 2005年06月25日(土) |
お人形遊び ユノア・クルス6 |
子供の頃に買うような人形、例えばリカちゃんやジェニーは人前に出られるような状態、つまり衣服を身につけた状態で売られている。最近はレオタードだけのものもあるようだが、昔はちゃんと服をきていて、どの服を着ているかで人形を選んでいたように思い出される。
さて、ユノア達(未塗装版)はバラバラのパーツでやってくる。当然顔も未塗装で、目玉も入っていない。その状態では流石に目の前の対象が「人」らしきものとは認識しにくいものだ。 組み上げ、塗装をしていっても、顔がないとやはりモノというニュアンスに満ちているのに、顔を取り付け、とりわけ目玉を入れた状態になると、とたんに命がそこに吹き込まれるように思える。「目」とは実に象徴的なパーツなのだ、と改めて思う瞬間だ。
荒木氏の茶目っ気で、ユノアはバーを押すことによって目玉が動く仕組みになっている。コメカミを押すことで、視線が此方に移動してくるのだが、人形がこんな表情を見せてくれたことは今までに無く気分は高揚した。と同時に、されるがままのはずの人形に、何だか欺かれるような錯覚を覚えたのだ。
| 2005年06月24日(金) |
お人形遊び ユノア・クルス5 |
絵画考察の回でも述べたが、対象を、できるだけ近づけて表現することと、ディフォルメしていくことの差はなんだろう。 殆ど必ず人形は美しく作られ、ストイックさを感じさせる存在であり、無駄なものをそぎ落とされた、もしくは存在しないものを付け加えられたとしても、それは理想のカタチのひとつなのだ。
ユノア・クルスは、見ての通り大変アンバランスな美しい少女達だ。女性的な柔らかいラインをもち、少年のようにスレンダーな手足を持ち、頭身は高く、手足は大きい。表情も、あどけない子供のようであり、大人びたようにもみえる。ユニセックスで年齢不詳、掴みどころのないような姿をしているのだ。
これを不気味ととるか、美しいととるか、それは見たもの感じ方に一存するだろう。
ボクは、文章でも絵でも人形でも、もっというなら曲だって、その作り手の生写しみたいなものだと思っている。荒木元太郎氏は、だから、ある部分ではユノア的なのだ、と思う。 ユノア的であるということは、一歩間違えば恐ろしい、危うい存在だ。そうあり続けることは、何者にも囚われない、捕らえてもらえない、認識されがたい、正体不明の、そしてやっと触れることのできた僅かな実感に満足を得て、また心を生めるような何かを捜し求めていくような、終わりの無い状態を意味する。
| 2005年06月23日(木) |
お人形遊び ユノア・クルス4 |
現在活躍中の人形師の1人、恋月姫氏の作品は、眠り顔の人形が沢山出てくる。彼女の耽美な世界においては、眠っている少女達は、けして眠ってはいないと思うのだけれど、閉じた目の人形にはまた格別の魅力がある。
ずっと目を開いたままの人形とちがって、眠ることができる人形は、人形ごっこにおいて、リアリティが増す。(だが、ユノア・クルスの場合は顔そのものを挿げ替えるという斬新な方法なので、リアリティからは外れるだろう) 子供の頃、傾けると目を閉じる人形を持っていたけれど、子供ってリアリティを感じさせるものに敏感だ。ミニカーだって、ドアが開いたほうがいいし、ボンネットが開いて中のエンジンなんて見れたときには大感激しちゃうのだ。もちろん、ボンネットが開いたって、ミルクを飲んだってそれがオモチャであり、模倣したものだとわかっているけれど、とても魅力的に感じるものだ。
そういえば、子供の頃に預けられていた家のお姉さんは、表面が凸凹した立体的な地球儀を持っていて、その地球儀はとても素敵に見えた。それにくらべたら、デパートの学習机コーナーに並んでいるツルツルの地球儀なんて偽物に見えた。解りやすいように色分けされているのも気に食わなくて、なんでアメリカがピンクでカナダが黄色なんだよ、とケチをつけてみたり・・・ 結局ボクが買ってもらった地球儀はやっぱりツルツルの地球儀で、がっかりしたけれど、代わりに地球の足元に天球儀が付いていたので、それで満足することにしたっけ。
| 2005年06月22日(水) |
お人形遊び ユノア・クルス3 |
続いてシストさん。
どちらが好みかといわれたら少年っぽいシストだけれど、思い切ってルシスも迎えておいてよかった。二人一緒ならべると凄く雰囲気がでる。
人形って、人間じゃないから人形なんだけれど、顔があって目があって、口もあって、人の形をしていると、もうそこには意思が存在しているような錯覚を覚える。きっと、ボクの中にある部分の何かがそこに流れ込んでいて、自分を反映しているのだろうけれど、まるで別人格として存在しているようで不思議。ちょっと狂うと危ない世界に行ってしまいそうだ。
映画「イノセンス」の中に出てくる少女人形は、凄く怖かったけれど、あれはもう意思を持って動き出しているから怖いんだよね。人形が動かないで、されるがままの存在だから、安心して人間は付き合っているのであって、意思を持ったらもう人形のコンセプトから外れてしまう。
じゃあ、なんで人形に魂があるって感じるかって?それは、人形の前にいる人間が、多少なりとも分裂しているからじゃないかな。人は、人形的存在(※人形とは限らないよ)を全部取り上げられたら、まとまりが付かなくなって自我崩壊に向かっていくものね。
| 2005年06月21日(火) |
お人形遊び ユノア・クルス2 |
メイクは2人ともデフォルトメイクを。眉毛のモールドを削り落とす勇気が無かったし、一度は荒木氏のメイクもしてみたかった。
雑誌ドリィ・バードに載っていた荒木氏のメイク解説とにらめっこしてメイクしていたけれど、エアブラシを扱うことに苦労してなかなか上手くいかなかった。特に唇が難関で、こんな小さなところにどうやってエアブラシできるの?とか文句を言いながら拭いた。(ユノアは体長40�僉�
今回は、ユノア・クルスのルシスとシストを一度に作ったのだが、メイクを入れていると、荒木氏の眉毛は2人ともきりりとくっきりしていて、これじゃあユノア・ルシスのぼんやりした感じや、色気がでないんじゃないか・・・と心配になったけれど、完成してみたら結構様になっていた。
というわけで、まずはルシスさん。とても色っぽい。
| 2005年06月20日(月) |
お人形遊び ユノア・クルス1 |
球体関節人形の存在を知ったのは、天野可淡の作品だった。以来ボクは、この球体間接人形にすっかり心を奪われてしまったけれど、当時は大きな本屋の片隅に、ほんの数冊写真集があるだけで、なかなか触れ合う機会がなかった。
それが今では簡単に手に入るようになって嬉しい反面、人形を必要とするような心に正体不明の空洞を持った人間―もちろんボクもその1人だ―が増えたのだと思ったりする。
という前置きの元に、これから数日間、日記を人形の話題でジャックするので、ドールアイが入った人形が苦手な方は飛ばしてください。
昨年からずっとチマチマ手を入れてきた荒木元太郎氏の「ユノア・クルス」がようやく完成した。今回初めてエアブラシを使って全身塗装までやったが、エアブラシに慣れるまではかなり苦労した。
ミスターカラーでやっているときはどうしても上手く噴けず、何度もやり直しをしているうちに嫌になってしまって何ヶ月も放置していたが、荒木氏の説明書どおりにリキテックスを使ったら難なくクリア。剥がれ易いので、コートが必要だが、リキテックスは色も綺麗だ。
というわけで、まずは全身を。(※裸 おまけに画像重いかも)
今日は相方の誕生日。 なのに、相方をおいて仕事仲間と島にいたボクは、ご機嫌取りのケーキを片手に帰宅した。 美味しいケーキ屋さんに入ってお目当てのショートケーキを探したら、この季節はショートケーキは苺ではなくてメロンですといわれて、メロンのショートケーキを買って帰った。何となく誕生日のケーキっぽくなくなって、言い訳しながらケーキを渡し
、「まさか(子猫は)いないだろうねぇ」と恐る恐る尋ねてみると、昨夜犬を居一頭連れて迎えにいったら、もう居なくなっていたらしい。 ホッとしながら、母猫が迎えに来たのならいいなぁと思った。
ほんの数日前、この子猫と同じ柄の明るい茶トラ猫が、家の向かいで跳ねられて死んでいたからだ。ボクの家の周りには飲食店が多くて、野良猫も沢山いるけれど、猫は、他の猫が産んだ子猫は育てたりはしなさそうだ。母猫が死んで1人ぼっちで、機材の温もりを見つけてボクの家の裏にいたのかもしれない。
ボクは猫を拾わなかったし、ボクの手はそれ程沢山のことをできないくらい力がない。自分の力量を見定め、抱えられる範囲のことを腕の中においておいて、急に手を離さないようにと、思っている。それくらいのことだって、ずっと続けるには、相当の覚悟を要するものだ。
久しぶりに海を見た。というよりこの日ボクの居た場所が島だったので、周囲はぐるりと海だった。
ボクは海のない県出身のせいか、海にたいしては結構な憧れがある。ちょうど沖縄出身の相方が雪に思いを馳せるように、ボクは海を想像力を膨らませてイメージする。相方から聞いた子供の頃の話と、一緒に沖縄についていったときにみた海の光景とがあいまって、いつの間にかボクの中でも海といったらエメラルドグリーンの沖縄の海を思い浮かべるようになった。
それと比べたら、何処の海だって色あせて見えてしまう、比べるほうが間違っているってわかっているけれど、沖縄の海は綺麗で光っていて暖かかくて、綺麗な魚がウヨウヨしていて、とても綺麗だったのだ。
ホテルから港まで10分程度の道を歩いた。道のいたるところにフナ虫がいて、最初は気持ち悪くて大騒ぎしていたけれど、あんまり沢山いるのでそのうち慣れてきた。フナ虫はどちらかというと向かってこないで遠くに逃げてくれた。港には釣り人がチラホラいて、野良猫が何匹もいた。皆よたよたしていて、何となく哀愁漂う猫達だった。
船着場に何か落ちているので、近づいてみたらヒトデのミイラが沢山干してあった。多分船についたかなにかが邪魔だったので、とってアスファルトの上に放っておいたのだろう、綺麗に星型のまま干からびたヒトデは、何だか「銀河鉄道の夜」に出てきたサギのお菓子を思い出した。
海を見ながら、海が見たいなとぼんやり思った。 せっかく島まできたのに、夜更けまで飲んでいたら星を見損ねて、起きたら朝になってしまって、更に不完全燃焼気味の島の思い出になった。
ここ最近、夜になって静けさがやってくるころに、子猫の鳴き声がするようになった。きっと家の裏あたりで子猫が生まれたのだろうと思っていたが、毎日か細い声がにゃーにゃーとするので、気になって、夜、相方と懐中電灯を持って探しにいった。
猫はあっさり見つかった。屋外においてある機材の下に、小さなトラ模様の猫が一匹はまり込んでいたのだ。親猫や同胎は見当たらず、ちんまりといる子猫は、頼りなく鳴いていた。 しかし、我が家には猫嫌いな猫が1匹いる。これを連れて帰ったら怒り狂うことは必然、もう家には入れてもらえないかもしれない。「全部の猫は救えないよ」といいながら家に戻った。
話変わって、明後日は相方の誕生日。なのに、ボクは明日から一泊で出かけなくてはならない。このことで相方は少し拗ねていたのだが、この猫を見かけたとき、ニヤリと笑って「明後日帰ってきたら、家族が増えているかもよ♪」などと脅してきた。 いやそれは困るよ君、などといってもボクのほうにも後ろめたさがあるので強く言えない。あくまで仕事の一環なのだけれど、今回は多少レクリエーション的要素が含まれているからだ。
追い詰められたボクはつい嘴ってしまった。
「とにかく猫は駄目だよ。鳥を飼う夢が遠のくよ」
それを聞いた相方は、とうとう鳥を飼っていいとお許しが出たと、勝手な解釈をして喜んだけれど、駄目駄目駄目と言い聞かせた。 相方の欲しい鳥は、タダの鳥ではない。ヨウムといって、世界で最も言葉を覚える賢い鳥なのだ。家に言葉を覚える鳥がいるなんて楽しそうだけれど、普段の赤裸々な会話が筒抜けになるじゃないか。それに、これ以上家族が増えても、手に負えそうにないのだ。
※ヨウムは、言葉を沢山、200語くらいは覚えて、TOPもわきまえて、それほど大型でもない優れた鳥。写真は掛川花鳥園のアイドル「アンソニー」
ペンギンは、果たして冷たい地方の生き物なのか?
そう疑問に思うのは、夏の動物園にもしっかり水浴びしながらペンギンが生息しているからだ。 もちろん、ペンギンだって本当は南極ほど寒いところが好きなわけじゃないだろうけれど、寒さ暑さにも限度ってものがあるだろう。 多少ひんやりしている土地でないと生きられないようなイメージがあるし、名古屋港水族館のペンギン水槽は天井から氷を砕いたような人口雪だって降ってくるぐらいだから、彼らが快適に過ごせるのはやはり氷の世界なのだろうか?
そういう疑問のものが他にもある。例えば、ソテツのような南国チックな植物たち。相方によれば、沖縄あたりにはざくざく生えているようだが、雪が降るこちらにだって見かける。あれらが越冬できるならば、どうしてソテツに南国のイメージがついたのだろう。
多分、ペンギンだって住む土地を選ぶならばもう少し涼しい土地に行くだろうし、ソテツだってもうすこし暖かい土地に住みたいけれど、澄んでしまったものはしょうがないってことでそこにいるのだろうけれど、生き物の適応能力って凄いなとか感心してみたり。人間なんて服で体温調節しなくっちゃ、四季を乗り越えられないのにね。
ここに一冊のノートがある。ごく普通の、中に罫線が弾いてあるだけのものだけれど、何となく表紙の絵が気に入って買ってしまったまさに衝動買いの一品だ。 表紙にはヘラジカのような、立派な角をもったシカが一頭、その傍にウサギが一羽、少し離れたところにもう一羽。緑鮮やかな木々だが、シカの傍に落ちているのは枯葉であり、ウサギのあたりは白い雪山のよう。 よく見れば随分おかしな絵なのだ、緑豊かな木々と、枯葉と雪山がひとつの絵に同居しているのだから。
このノート、使い道が見つからなくて困っている。最近は何でも文章は皆パソコンで書いているし、ボクはお世辞にも字が上手ではない。何かを勉強してまとめるならば、ルーズリーフタイプのものがよかったし、メモにしては立派すぎる。ようするに、使い道の見つからないノートなのだ。
今やっている勉強は、並列で色々あるけれど、仕事以外で考えるなら、ヴァイオリンおよび音楽の勉強か、英語の勉強だ。音楽の勉強をするなら五線紙のほうが相応しいけれど、5線紙には文字は書きにくい・・・ ということで、考えたのが、このノートで音楽を勉強して、必要なときに五線紙を切って貼り付ける、というもの。 これでこのノートが活躍したらいいな。
虹が好きだ。
じゃあ、虹の7色って何色からできてるの?って言われるとさあ困った。好きだとか言ってるワリにすらすらと出てこない。赤・黄色・紫・青・・・緑なんてあったっけ? ということで調べてみると、赤・橙・黄・緑・青・藍・紫 がその7色だった。藍色―インディゴ色もカウントするのか、と思ってみたけれど、この天然の色彩の組み合わせを好きな人は多いだろう。 虹や、(見たことがないけれど)蜃気楼、そしてオーロラのようなカタチなくして見える幻のようなものは、どこか神秘的な匂いを含んでいて、何処までも魅力的だ。
もうひとつは、消して手の届かないところに現れることだろうか。虹のたもとに辿り着けたらと、誰でも子供の頃には考えるだろうが、近づけば虹は見えなくなってしまいそう。また、どれも自然の条件が合わさってできる現象で、作り出すことができない。一体誰が、空に大きく掛かる半円状の虹を掛けることができかといえば、それはもう神様の気まぐれくらいじゃないかしら。
話が変わるが、子供の頃、祖父の家は山の裾にあった。祖父の家に車で近づくと、段々山が大きくなってくるが、いざ近づくと山は居なくなってしまう。自分達が山の中に入ってしまったからだが、子供の頃はこれが不思議でならなかった。 近づいた分だけ大きくなると思っていたからだ。
二年ちょっと前に今の家に引っ越したときには、ボク達はまだ植物のことをよく知らなかった。周囲に何か植えますか?と聞かれた時、そんなに手の掛からないものを少し、と答えたら、手は掛からないがどんどん増殖していく植物が植えられていた。
手入れの仕方がよく解らないまま、二年をかけて植物は伸びていった。冬には姿を消しても春になればまた芽吹き、随分賑やかになった、のはいいが、気がつけば庭は沢山の植物が絡み合う混乱状態に陥っていた。どうしたものか困り果てて、数ヶ月前、ガーデニングの設計をお願いすることにした。
ボク達に欠けていたもの、それは剪定をすることだった。ボクは、庭に生えてきた全ての植物を、葉や花を全部育てようとしていたのだ。いい植物を育てるためには、葉を切り落とし、間引いていかなければならないことに考えが及ばなかった。
庭に何を植えようか、友達に話した。友達が沢山か 「これからは、全部を助けようと思わないとよいかもしれませんよ」
そう言ってくれた友達の言葉が頭を何度もめぐった。
ずっと忘れない橋がある。
小さな頃、ボクは他所の家に預けられていて、その家のおばさんが、半分ボクの母親代わりだった。その時代のボクの思い出は、実の両親よりはそのおばさんたちと過ごした思い出が大半だ。 そのおばさんと、時々バスに乗った。田舎なので、バスに乗る時間も長かったが、いつも通る道は、大きな川と併走していた。
川には所々橋が架かっていたが、その中のひとつの橋は、両岸に橋らしきものが作ってあるのに、真ん中には何も掛かっていなかった。まるで真ん中だけ抜け落ちた橋だ。 ある日おばさんが、その橋にまつわる話をしてくれた。その内容は、
「ある大雨の日、1人の女の子が橋を渡ろうとした。端の向こうには女の子の家があり、家では母親が待っていた。 女の子が橋の中央まで歩いたところで、増水した川の水に橋が流された。音に驚いた母親が家から出たところで、娘が流されていくところを目撃したが、なす術もなく、数日後娘は遺体となって返ってきた。橋はそれから掛け直されず、残った部分も取り壊されることないままになっている、それがその橋だ」
それ以来ボクはその橋を必ず見るようになった。見ないといけない気持ちになったのだ。そして、その橋の中央に傘をさした女の子と、彼女を待っている母親を想像した。
今もうそのお母さんが亡くなっていたとしたら、母子は天国で再会できただろうか。
何故だかとても寂しい。
寂しい気持ちと表現していいのかどうか解らない気持ちだけれど、少なくとも楽しかったり満たされているような気持ちではない。時々は自分の気持ちが解らないことがあって当たり前だけれど、わからないくせに感じ取ってしまうことが苦しい。
寂しいって不思議。 寂しくなったときには何時だって直ぐに「ああまた寂しいのがやってきた」って思うくせに、普段はすっかり忘れていられるもの。
悲しいとか、悔しいとか、恥ずかしいとか、そういった気持ちは毎日いつも感じていてどうにか頭で考えて処理していけるような気がするけれど、寂しいだけはどうにもならない。一番どうにもならなくて一番やっかいで一番しまわれていて、発見したときにはもう遅くて、
今寂しさと一緒に御喋り中。
| 2005年06月10日(金) |
ヘア・カットには程遠い |
今月から相方の抗癌剤が変わった。最初から組まれていたメニュー通りなのだが、今もしかしたら相方の身体の中に残っているかもしれない癌細胞をたたくことが目的なので、見た目にはちゃんと効いているのかどうか解らない。髪の毛が抜けていくことと、爪が黒くなっていくこと(新しく生まれ変わる細胞が死んでいくから)から、身体の中で何かしらが起きていることだけは解るのだけれど、目に見える効果はマイナスばかりだ。
で、抗癌剤が変わって、なんと髪の毛がまた生えてきた。まだうっすらでしかないけれど、ちゃんと全体的に髪の毛が生えてきていている。
今から数ヶ月前、2人で美容院に行って来た。いつも一緒に行っていたから、今度からはボクしかこないことを話した。美容師さんは「また着てください」って言ってくれたけれど、それから直ぐに髪は全部抜けてしまった。 ボクは、そのとき願いを込めてうんと短く髪を切ったのだけれど、それからもう数ヶ月経つのに、ボクの髪はあんまり伸びなかった。
いつも美容師さんがビックリするくらい早く伸びてしまうボクの髪が、どうしたことか全然伸びなくて、気がついたらもう3ヶ月くらいは経つのに、まだ前髪が邪魔にならなくて、ボクの身体も相方に反応しているのかな、と思うと複雑な気持ちになった。
半分は嬉しいような、半分は、こんなに相方に反応していたら、相方がいなくなったら生きていけないような気がしたのだ。
いつも覗きに行く雑貨屋さんは北欧が好きで、北欧発の雑貨やら人形やらが仕入れてある。そしてその一角にあるムーミンコーナーは、普段見かけるムーミンコーナーとはどこか一風違うのだ。
今日本で見かけるムーミンは2種類あって、ひとつはトーベ・ヤンソン自身が描いた挿絵をつかったもの、もう1つはアニメとなって放送された名倉靖博氏の描いたムーミンだ。どちらも魅力的だけれど、どちらかというと名倉さんのムーミンたちは柔らかくて、原作のムーミンは荒削りな感じ。雑貨屋さんにあるのはたとえばムーミンの切手(もちろん北欧の言葉/フィンランド語かな)とか、薄っぺらい塗り絵とか小さな絵本とかだ。(写真は名倉ムーミン)
直接ムーミンとは関係ないけれど、なぜか一個だけザリガニの缶詰も売っていた。どんな味がするのか怖くて眺めているだけだったけれど、3週間くらいしたらちゃんと売れて?無くなっていた。ザリガニってどんな味がするんだろうか、子供の頃に捕まえて「飼っていい?」っておねだりしたら、母親に「そいつは寄生虫の塊だ」とか言われて却下されてから、ザリガニ=寄生虫のイメージが忘れられないけれど、母親は普段から不潔恐怖な人だから、あっさり口からでまかせかもしれないなぁ。
先日友達から羊を貰った。(F○さんありがとっ) 束子に似た不思議な素材でできているそれは束子素材のわりにしっかりモコモコしていて可愛かった。
今日先生に会いに行ったら、先生の部屋にも同じ羊が(大きさは違ったけれど)いた。以前からいたみたいなのに、今日まで気がつかなかった(羊好きのボクが!)。 先生がお茶を煎れてくれている間に、そっと手にとって確かめてみたけれど手触りも一緒の本当の同じ羊だ。先生の部屋には色々な物が沢山沢山あるのだけれど、ボクの視線の届く範囲には羊はそのコ一匹だけで、丸いお目目がちょんちょんと付いててまるできょとんとしているみたいだ。
尋ねてみたら先生も人から貰ったものらしい。 羊の話題に触れたので、ボクは自分が羊を好きなことを話して、ついでにフラミンゴも好きになったことも話した。そうしたら先生の一番近くに置いてあった籠の中からフラミンゴの人形も出てきて、ボクはすっかり嬉しくなってしまった。
今日は休みを取っていた。ローズ・ガーデンを見に行きたかったから。
ボクは薔薇が好きだけれど、相方はもっと好きだ。多分、相方が一番好きな花だと思うから、一緒に見に行きたかったし、見せてあげたかったのだ。結局は相方の仕事と抗癌剤の都合で行かなかったけれど、薔薇を見に行きたいという想いだけはボクの心の中に残ってしまって、それから薔薇のことをよく考えている。
イギリスのマザーグースを読んでいると、薔薇がいかに美しく価値のある、特別な花かということ感じさせられる。英国庭園、という存在を知ったのは何時だったのだろう、最初にその言葉を聞いたときには、ベルサイユ宮殿のあの庭のイメージをぼんやりと浮かべていたのだけれど、全然違って、ある時読んだ文章において、ボクの英国庭園についてのイメージは確定した。そのキッズ・ピストルズの言葉を思い出すとき、ボクは最もその印象深い庭を、あたかも見てきたかのように頭に思い描くことができ、
そうして言葉だけで構築されたボクの頭の中の英国庭園は、
沢山の緑が深く生い茂り、 迷路のように入り組んでいて、 所々立ち込めた霧が視界をよどませ、 湿った空気は少し冷たく肺を満たし、 流れる水音は無意識へ導き、 シンメトリーの狭間でゆれるものを見、 咲き乱れる薔薇は怖いくらいに美しい、
そんな庭に辿り着くまで、何度でも薔薇を見に行こう。
よくよく考えたら、こいつもビッグバード系の顔をしている。このコたちは長い口なので、大きいことは大きいけれど、苺とかプチトマトとかをあげると上手く噛めなくて何時までもしゃぶっている。こんなんでよくオオカミ狩りができたなぁと思うのだけれど、ノコギリみたいな歯は大層ご立派で、本気で噛んだら鋭く引き裂くことができるのだろう。
家の奴らは顔が濡れるのが嫌なのか、水を飲むときに舌で掬いとって飲んでいるが、友達の飼っているコが、鼻を半分くらい水に沈めてブクブクいいながら水を飲んでいたのを見たことがある。間違って鼻から水を吸い込んだりしないのかな?
相方にもらったプレゼントの中身はフラミンゴ(のボールペン)だった。確かにフラミンゴのような、でも何かちょっと違うような気がしていたが、そうだコイツはビッグバードに似ているのだ。
ビッグバードはあの図体だがカナリアの子供という設定だったはずだが…と確認のためネサフをしてきて新たに知ったことを含めて書き出してみた。
・人間で言えば6歳くらいの幼児 ・249cmの長身、飛ぶことはできない ・セサミストリートのアパートの隣に巣がある ・絵や詩を愛する芸術家 ・バラ色のサングラスをとおして世界をみている ・レイダーという名前のクマのヌイグルミを大切にしている ・親友はマンモスのスナッフィー
セサミにマンモスなんていたっけと思ったけれど、ちゃんとオレンジのゾウみたいなのがいた。ビッグバードがカナリアにしてはありえないどころの騒ぎじゃないくらいでかいのに対して、マンモスはミニマムなような気がするが、スナッフィーはきっとマンモスの子供なのだろう(※未確認)
あのアイシャドウが入ったような目玉はサングラスだったのかな。
いつもレッスンをするテーブルの上に、スナフキンのフィギィアがおいてある。小さなリュックを背負ってどこかに歩いていく、旅立ちのスナフキンだ。
ヴァイオリンの先生は、小さなそれにすぐ気がついて、スナフキンはカッコいいねと言ったけれど、ボクもそうおもう。もう何年も前にはスナフキンのように生きられたらと本気で思っていたけれど、今のボクにはもう無理だ。
沢山の繋がりをもってしまったから―それは喜ばしいことであるけれど、同時にもう勝手に居なくなれないことを意味している。人と人の繫がりを意識していなかった頃は、人は孤独なものなのだと思い込んでいた。孤独であることが基本で、誰かと心を供にし続けることが何か恐ろしいことのように思えた。 その頃には宙ぶらりんでいてもまだ平気に思えたのに、今はちっとも平気じゃない。スナフキンは、ひとところに留まらず何処かに1人で旅に出てしまうけれど、ちゃんと心の繫がりを持ったまま、旅するのだろう。寂しくなっても、ちゃんと心が繋がっていることをイメージできるくらい大切な思い出さえあれば、きっと何処に行っても生きていける。
そう思うのだけれど、やっぱり、触れられる繋がりが欲しい。会えなくなってそれでも思い続けることを想像したら、それこそは本当に苦しいことじゃないのかしら?
先日とある場所で「宇宙戦艦ヤマト」の話題がでたが、タイトルの知名度に反して誰も内容を知らないことに気がついた。 でもって、全く別の場所で、もう少し年上の同僚と話をしていたらなぜかヤマトの話が出たので(というより松本零次の名前が出たので)、ヤマトの内容について聞いてみたところ・・・
「とある未来の地球上に、何処かの星からごみが不法投棄されてくるようになる。人々は困り果てたが、ゴミを処理できる装置が宇宙の果て、イスカンダルというところにあると知って、その装置を取りにいく、その任務をおったのが宇宙戦艦ヤマトだ」
なんとヤマトは宇宙の果てにゴミ処理機を求めて旅立ったのだ。なんてシュール。
「ところが、そのゴミを捨てていた宇宙人の星と、イスカンダルは双子星になっていて、その青い顔の宇宙人から邪魔が入る」
まてよ、すぐ隣に装置があるなら何故わざわざ地球までゴミを捨てにやってきたのか?
「戦争を繰り広げながらもヤマトは何とか装置を回収し、地球に運び込む。その過程で船長が亡くなるが、全員が死んだわけではない」
ヤマトは、ガンダムがZ→ZZと進化していくように、ヤマトその3くらいまであって、最初の話は上述のような内容だというのが彼から聞いた話だった。その後ボク達の話題は、いかにメーテルが美しく憧れたかという話に発展していったのだがそれはまた後日に。
※あくまで彼の回想話であって、事実かどうかはまったくわからない。
以前シルバーのリングを右手の薬指にしていた。
ローリーロドキンのラブ&ヘイトの、、相方とは形違いのものだったのだけれど、それをしていた指の皮膚が荒れてしまって、以来ずっとしていない。指輪をはずしてもう1年近くも経つのにちっともよくならなくて、薬を塗ってみたり、絆創膏で保護してみたりと試行錯誤したり、皮膚科のお医者さんに見てもらったりもしたけれど、やっぱり治らない。
先日両親が来た時にその指の話をしたら、父親が指を差し出したら、全く同じような皮膚だった。父親も、昔プラチナのリングを左手の同じ場所にしていて、そこがある時から荒れだしてもう何十年も治らないという。また、時計をしていた左手首にも同じように皮膚が変化していた。
父親とボクの体質はよく似ているシルバーでもプラチナでも駄目だったらもう金属は何も付けられないのかと思うとちょっとつまらない。父親はもう時計ははずしなさいというけれど、時計っていうアイテムは結構好きなので、それからも時計をしている。もう何年も肌身離さず首につけているプラチナのクロスも、そのうちできなくなるのかもしれない。
父親はいつもポケットに懐中時計を忍ばせている。ずっと前に母親から貰ったものを、ずっと鎖を付け替えながら30年近くは使っているはずだ。そういったずっと身につけたいられる何かを探そうかな。
マリアージュ・フレールの茶葉といえば“マルコ・ポーロ”が有名で、ボクも最初の出会いはそれだった。以来いつでも我が家に常備されているのだが、最近は“エロス”という名前の紅茶がお気に入り。
エロスはハイビスカスとモーブ(あおい)と書いてある。甘い香りと甘い味の、少し特徴的な味で、ミルクとはあわなさそうな印象だ。
青色の花びらと紫っぽい花びらが混じったそれは見た目にも楽しめる。ボクは紅茶のことをよく知らないが、紅茶の葉に花弁が混じると甘い味になるのだろうか?花の蜜は甘いけれど、花弁なんてめったに食べないから味なんて覚えていない。いつだったか、サラダみたいにしてランの花らしきものがお皿の上に載っていたことがあったけれど、甘くはなかったような気がする。
何となく、花弁は食べてはいけないような気がするのだ。鮮やかなキノコに毒があるように、花のように美しいものは、眺め愛でても触れてはならぬ― そんな気がする。
花弁を散りばめた紅茶の名前が何故エロスなのか解らないけれど、とても似つかわしいと思う。
ロビン
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