カウントシープ
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桜が散った後の葉桜の下を歩くとき、ボク達はいつも毛虫に用心している。5月も半ばになるとぼとぼと毛虫が落ちてきて、足元にもうじゃうじゃ、木にもうじゃうじゃになるのだ。
これを見分けるのは簡単で、下を見ながら歩いていればいい。地面にすでにつぶれた毛虫が落ちていれば、それがサインとなるのだけれど、今日は今年初の毛虫を見てしまった。 まだ小さな毛虫だったけれど、今頭上の枝にはこれくらいの毛虫がきっとうようよいて、そのうち成長して体が重くなってくると風で揺り落とされて落ちてくるのだ。
これほど毛虫を用心するのは2つあって、ひとつは勿論ボク達が毛虫を敬遠していることだけれど、もう1つは、素足で歩いている犬が踏んで刺されることを想定しているから。たまに友達の犬が毛虫や蜂で大変なことになっているのを聞くから、これはひとつ用心しておきたいところだ。
と、これだけ警戒しておきながら、ボクは毛虫にさされたことがない(蛭にも蜂にもムカデにも)。刺されたらいったいどうなるのかしら?ネットで検索すると、『刺さっている毛を抜き取って、毒を吸出し』とあるけれど、吸って大丈夫なのかしら?まあ、口の中(というか消化管の中)は他より丈夫だから大丈夫なのかしら?
最近急にドコモダケが可愛いと思えるようになった。
きっかけは相方の携帯の着メロで、これを朝の目覚ましに設定してあるものだから、自然と毎朝ドコモダケから始まることになる。毎朝、どこかで聞いたけれどこれはなんだろう・・・と思いながら目覚めることを繰り返すうち、ドコモダケの曲が気になり、サイトでCMを見ているうちに突如可愛く見えてきた。
今回の携帯を買ったとき、ドコモダケのストラップ(といっても結構でかい。カメラのフィルムくらいはあったぞ)がついてきたのだが、あんまり可愛くないなぁと箱の中に閉まって屋上の倉庫に上げてしまった。やっぱり動いて、仕草とか見てると、可愛いと思えるものだね。
ボクは静止画像で人間の赤ちゃんって、特別美人な子を覘けばあんまり可愛いとか思わないけれど、動いているととても愛くるしく感じるのも、その動きや仕草が可愛いと感じるんだろうね。
でも、CM見ているとボクはなんだか凄く寂しくなって泣けてきそうになるんだよね。とくにラッパが鳴っているところ。もう、どうしようもなく寂しくって、どうしてなんだろうって思うんだけれど、よくわからない。
多分、『忘れちゃだめだよ』というフレーズあたりがヒントかな。
初めて相方に出会ったのがもう8年前の4月28日で、もう8年の付き合いになるのだと思うと感慨深い。家族以外に一緒に過ごした日々がもっとも長い人間ということになるのだが、それより長い付き合いなのは猫で、もう10年の付き合いになる。学生時代からずっと飼っているのだけれど、なんていうか、外見も内面も殆ど変化しなくって、なんとなく普遍的なもののような気がしてくるくらい。今一緒に住んでいる3匹の犬よりも長く生きるんじゃないかしら?とは思っていたけれど、
不謹慎だけれど、まさか、相方のほうが先にいってしまうんじゃないだろうね、なんて時々思ってしまう。最後に猫と2人残されるのは、猫には悪いけれど、やっぱり寂しい。猫って、自分自身みたいなところがあるから、そういう意味ではナルシスティックな相手として空間を共有できるけれど、別個の対象として存在する相手には、少し役不足な気がするのだ(少なくともボクの猫は)。
何時までもみんな生きているわけじゃないけれど、それぞれ想定している時間は、できるならば一緒に過ごせたら、幸いだと思う。
しばらく風邪を引いていて、具合が悪いのが続いている。しかもなかなか治らない・・・
どこから風邪をひいたのか、自損事故のように自己管理が悪くて引いてのかと考えていたけれど、犯人が見つかった。
一週間前の木曜日、ボクは仲良しの女の子と会っていて、彼女の赤ちゃんを抱っこして遊んでいた。赤ちゃんはまだ一歳半少し前で、可愛い盛りなのだが、この子が一週間前から風邪をひいていて、まだ鼻水を垂らしていた。 で、この子がラムネとかたまごボーロを口の中に入れてくれるので、もしゃもしゃと食べていたら、どうもそれが感染経路になっていたようだ。
なぜなら、母親に当たる子とボクは、殆ど同じ症状の風邪をひいていた、ということが今日会ってみて解ったのだ。
お互い第一声は「風邪がちっとも治らなくて・・・」で、鼻声も咳もまったく一緒で、思わず2人で「こいつか・・・」と赤ちゃんを横目で見てしまったが、本人はお構いなしにまたラムネをくれたりして、
これがまた可愛いから、ありがとっっていって食べたりして、そんなことしているからちっとも治らないのかな?
夢を見る人と見ない人がいる、という話を先生としているときに、思い出したことがあって、
ボクは子供の頃、怖い夢が怖くて眠れなかった。怖い夢はたいてい恐ろしいものに追いかけられる夢や、どこかから落ちる夢や、虫が這いずっているような夢で、夢から醒めると、また夢に戻るのが嫌で眠れず、眠らないと今度は夜の闇が怖くて、どちらにしてもじっと横になってはいられなかった時、父親がいるならば、迷わず父のところにいって安心を貰いにいった。
だが、父は夜も仕事で不在が多く、そういう時は母親のところにいくしかない。母親は子供と一緒に寝ることがきらいで、普段は別の部屋で1人眠っているのだが、父親が不在の時(その頃はボクも妹もまだ1人で眠るには幼かった)は子供と一緒に眠る。その母親に、怖い夢を見たと訴えると母親は凄く不機嫌になるのだ。
眠っているところを起こされるのだから、不機嫌にもなるだろうけれど、父親だって、起こせばひとこと「それは夢だから大丈夫だよ」と言うだけで、子供はみんな安心して布団に戻っていける。
怖い夢を見たと起こすと母親は、自分は不眠症で(睡眠薬まで飲むくらい)眠れなくて困っているのに、夢でも見れる分だけましだろう、と言うのだ。やっと眠れたところで子供の夢ごときで起こされて、すっかり不機嫌になってしまった母親の、ボクに向けられた背中をただじっと見つめて、そうして長い夜を何度も過ごした。
今はもう夢が怖くない。 夢には真実そのものが映し出されるし、知ってはならない真実を知るだけの心が、今のボクには広がっているから。
着うたが取れる携帯になったので、早速試してみたかったのだけれど、よく考えたら最近のボクはクラシック三昧で、とくに人間の声が入っている曲を聴く習慣がなくなってきている・・・ これじゃあ意味ないじゃん、とぼやいたら、クラシックだって着うたがある!と言われたので探してみて、歌ではないけれど、フルのオーケストラの演奏がそのまま着メロに使えることがわかって嬉しい。
早速何かサイトに入ってダウンロードしよう、と思ったら、これが凄く高くてビックリした。何と一曲が100円するのだ、しかも、一部のパートだけで!着メロの時にはかなりの長さがあったのに、着うたの短さにはビックリしたけれど、これは著作権の問題とかが絡んでくるのかしら?
まあ、実際に着信にどれだけの曲の長さが必要かって言われたら、殆どフルで聞けることなんてないのだけれどね。
でも、気の利いたところもあって、一曲が4つくらいに分かれていて、好きなパートをとれること。クラシックは一曲がかなり長く、人によって好みのパートが違うため、なかなか好きなパートが聞けなかったのだが、着信の出だしから好きなメロディが流れるのはなかなか嬉しい♪
でもやっぱり一曲100円は高い!FOMAはデータ移動できるとはいえ・・・うーん。
2006年04月18日(火) |
どんべえときつねとたぬき |
職場で男の子が食べていた新発売のインスタントのうどんの味が、『どんべえ』に似ているという話から、どんべえっって結局何なの?という話になって、
どんべえはうどんで、 みどりのたぬきはそばで、天かすがのっている あかいきつねはうどんで、油揚げがのっている
という解説を頂いた。ボクはパッケージの色が違うだけかと思っていたけれど、本体に違いがあったらしい。で、今度はネットで調べてみたら、どんべえはその後進化して、今ではそばもうどんもあるらしいということが解った。 スーパーに行くとかなりいろいろな種類のインスタントがあって、先日はソーキ蕎麦のとなりにそーめんちゃんぷるーを見つけて、相方がビックリしていた(どちらも沖縄の食べ物)。ちなみにそーめんちゃんぷるーはかなり実物と違う写真だったが、よく見ると“沖縄風”と書いてあった。
ボクはあまりカップ麺の類を食べないのだが、理由は猫舌だから・・・冷ましているうちに段々伸びていってしまうのが悲しい。お店で食べるラーメンはちゃんと食べ終わるまで伸びたりしないから、麺の性質が違うんだねきっと。
少し前、人からもらった小さな球根には、ラテン語でナルシス・・・と描いてあったから、おそらく水仙だろうと思いながら植えたら、春先に咲いた花はやっぱり水仙の形をしていた。
形、というのは、ボクの知っている水仙の色合いや大きさとは違ったからだ。ボクの知っていた水仙は、花びらが白く、中央が山吹色のものだったのだが、咲いたのは、それよりもう少し小ぶりで、花びらが鮮やかな黄色のものだった。(調べたら、全部真っ白の花も見かけた)
水の中の自分の姿に恋をしてしまったナルシスの話はあまりに有名で、ギリシャ神話を知らない人でもこの言い伝えだけは知っているものだが、それだけ、ナルシストという存在が普遍的なものだからだろう。誰でもちょっぴりナルシストであるし、そういう自分をも抱きしめて生きていけるならきっと幸いなわけで、ボク達みんなの心にナルシスは住んでいるわけだ。
心の鏡に映った自分だけを愛していけたなら、もう他者は誰も要らないし、生きている意味もなくなるから、あとはもう溺れて死ぬだけ―――神話って本当によくできているね。
単純に飛ぶことを望んでいるならば、人は自分の与えられた範囲を超え、相応を超えた世界をもうろつきたいという、飽くことのない欲望めいたものが垣間見え、人間の罪深い性のようなものを感じてしまう。
我々の多くがゴキブリを嫌いなのは、彼らがすばやく平面を移動する力を持っているその上に、飛び回る力をも持ち備えているからではないか、とボクは考えている。
カブトムシとの違いをよく問われているが、カブトムシは地面をそう早くは走れない。二次元も三次元も制覇しているゴキブリこそは、人間の理想の能力を備えている完全体のひとつなのかもしれない。 (※ボクだってゴキブリは嫌いですよ)
それがもし、最初から飛ぶことをメインにしているならば、ただの飛行昆虫だと認識していただろう。大抵地面を張っていて、いざというとき自在に飛べること、それが恐怖の源であるならば、飛べないコンプレックスがそこに横たわっているのだろうか。
鳥などみな不気味だという人がいて、どこが不気味か尋ねてみると、大抵あの丸い目と、鱗で覆われた足が嫌だという。
確かに手塚治虫の漫画を読んでいると時々遭遇する鳥人間は、どことなく不気味で、鳥人間に囲まれ人に飢え、ついには鳥の一族を皆殺しにしてしまった青年の気持ちもわからなくもない(火の鳥・宇宙編?)。
ハーピー(※頭部のみ女性の、怪しい生き物)のような姿になるとはっきりと不愉快さが沸き、それを好きか嫌いかはともかく、側にいつもおいておいて愛でるには、あまりに奇怪すぎるだろう。
かようのように鳥類の要素を部分的に取り入れることの不気味さを語ってみたが、我々は天使の存在を忘れてはならない。 鳥の要素のうちもっとも象徴的で、鳥がとりで有らしめるものであるところの翼、これを人の背に括り付けると、どうだろう。とたんにその存在は人を超えた神に近い存在になるのだ。
翼以外を融合した鳥人間が妖怪の類とされるのに、翼を背にした鳥人間は、もはや鳥人間などと誰も呼ばない。 なぜ翼だけが1人歩きするかといえば、そこには人が単独では成し遂げない、「飛ぶ」という力を備えることにある。あのダヴィンチも、空を飛ぶことを考えたが、我々は単独では平面の移動しかできない生き物でしかない。 空に憧れ飛行物体を作り上げたが、歩くのとはわけが違う。頼りない金属の塊に身をゆだね、落ちないように祈りながら座っているのでは、飛んでいるというよりただ移動しているだけで、どこか間が抜けてさえいる。
空を飛べるということは、とてもわかりやすい超人の能力であり、それゆえ天使という存在は特別であり、人を超え、神に近いものとして、神の使いとなったと考えてもいいだろう。
2006年04月14日(金) |
フラミンゴ イン ドリーム |
ボクの偏愛する生き物のひとつがフラミンゴだが、この鳥の写真をまじまじと見れば見るほど、愛らしいところが見つけられない。 接近した写真になるともう、どちらかといえば不気味な鳥に見えてくる。
目が大きくてくりりとしているわけでもなく、嘴はむしろ不恰好に長く曲がっている。長くて折れそうな足は象徴的だが、曲がる関節の節目は、哺乳類とは程遠くむしろ節足動物的であり、どんな声で鳴くのかは聞いたことがないが、玉のように美しい声でなくとは予測しがたい。
それでもフラミンゴが人気なのは、そのユーモラスな雰囲気と、やはり、動物にあるまじき目の覚めるようなピンク色のおかげだろう。
ボクがフラミンゴをどこで認識したのかはもう定かではないが、自分の記憶としては、「不思議の国のアリス」の、女王陛下の取り仕切るクロケット場で、クラブの替りにアリスに抱きこまれている、首の長い妙な生き物としてのフラミンゴだ。
子供の頃に、不思議の国のアリスが最高に不快だったのは、殆ど誰もアリスを助けてくれない勝手な奴らばかりなことで、最高に愉快だったのは、それが夢の世界だったことだ。
いったいアリスの世界ほど、夢でよかったと夢落ちであることを喜べるものなどないと思うくらい、是非1人では迷い込みたくない。アリスほどの勇気も好奇心も自尊心も持ち合わせていない臆病な子供ならば、あんな世界に迷い込んだら、きっと二度と戻ってこれなくなりそうだから―
今年もまた桜が咲いた。 ボクの住んでいる町では街路樹の桜を植え替えるということで、長年美しい姿を見せてくれた桜たちに代わって、今年は苗のような細い桜が登場した。 その頼りない姿と、切り倒された桜の残像でもって寂しかったが、切り倒されなかった桜が残っていて、そちらは去年までと同じように、見事に咲き誇っていた。
いったい桜の木が何年生きるのか解らないが、ソメイヨシノは成長も早い代わりに、寿命も短いと広辞苑には記載されている。ソメイヨシノはクローンだから短いとも聞いたことがあるが、木の寿命っていったいどれくらいなんだろう。
現在食物にはクローンが使われているが、こちらはそれほど寿命を長くすることには重きをおいていないだろう。(寿命が来る前に収獲して食べてしまう)クローン羊のドリーは(このサイトのタイトルでもある)短い時間しか生きられなかったけれど、クローンは本体よりも長くは生きられないということか?
だとしたら、同じ遺伝子同じ細胞でもってして、なぜ長く生きられないのだろう。やっぱり、神様が許さないのかな。
先日尊敬する絵描きさんのHPを見てから、すっかり魂は持っていかれてしまって、現在惚け中・・・
もう凄くお上手で、その上世界観も好きで、変な言い方だけれど、プロになって日が浅いせいかまだとんがってて、そこが堪らなくいい!どうかこのイノセントを失わないでいて欲しいと勝手なことを思いながら、すっかりその人の絵に夢中だ。
絵という対象がこんなに人の心を掴んでしまう。その向こうにある描き手の心に触れたと思うそのことが、恋のように心を引き寄せる引力になりうると思うのだけれど、いったい、人はどうしてこんなに人を求めてしまうのだろう。
そして、ダイレクトに人を求めるやり方でなく、こうして絵や音楽を通して、非ヒトなるものから人を求めるという回りくどいやり方に、どうして行き着いてしまったのだろう。 抱きしめる感触ほどダイレクトに人を感じることはないのに、そして抱きしめてさえも解らない感覚がこの世にはあるというのに、人は目の前にある本質を前にしてかくも不慣れなものなのだ。
そうして気分が高揚しているところに、仕事の上で画家に会った。この人はもちろんボクが絵を描くことが好きだということなど知らなく、絵とはなんの関係もない場所で遭遇したのだけれど、彼がいうには「描いて描いて描いて、描かないと何にもないですよ」と。
これには本当にその通りだと思う。もうずっと描いていない自分をふりかえってみて、どんな言い訳をしようともその先にあるのは、自分の不完全さに少し失望していたのではないだろうか? 時間を注いで描いても、自分の絵はそれほど素晴らしくもない、その凡庸さに傷つき、絵から逃避しているに過ぎないのじゃないかしら?
絵を描かないでも生きていけるけれど、絵を描くことで賦活する精神もきっと其処にあるだろう。ボクは絵を描くことが好きで、人形を弄ることが好きで、そしてヴァイオリンを弾けるようになりたい。そのどれもを捨てられないし、どれかを落としていったらずっと不全感が拭い去れない。
今日は休暇を申請して、一日だらだらとヴァイオリンを弄っていた。
朝から雨が降り続き、散歩も絶望的で、犬達に雨を見せて諦めてもらう始末。今年に入って始めての休暇で、こんな風に何かしなくてはならないことなしで過ごすのも大変悪くない。
そうはいってもヴァイオリンの練習はしなければならないが、こちらは今自分の中では、ご飯を食べることと同じくらいすることになっているので、レッスンすること自体特に抵抗ない。考えてみるとどうしてこんなにヴァイオリンが生活に入り込んできたのかな、と考えることがあるけれど、きっと複合的な理由によるものだろう。
自分で作り上げた理由として1番上にくるものは、ヴァイオリンを一生懸命にやれば癌が治る、と定義したことだ。何の根拠もないお呪いだが、癌が治る保障など何一つない中で、何かにすがって生きるならば、それは健康食品でも新興宗教でもなく、ただ魂を研ぎ澄まし真実に近づくことが、生きていく上での目標だと信じているから、 そして音楽という媒体こそは、その高みに行く肯定を他者ともっとも共有しやすいと考えているからだ。
相方がヴァイオリンをやりたいといったとき、そのときは癌とは無縁で生活していたのだけれど、ボクは「じゃあボクが絵を描いている側で弾いておくれ」と言った。未来ってどうなるものか解らない。いつかボクがバロックダンスを踊る日だって、ありえるかもしれない。
昨日はちょっとショックなことがあって、ものすごく凹んで今も凹み中。具体的には妹と妹の子供との間に、恐ろしいほど関係性がないことにショックを受けたのだけれど、妹だってあれはあれで一生懸命なのだ。
本当に、知らないということは恐ろしい。
ボク達は母親に抱っこしてもらえなくて寂しかったはずなのに、妹は赤ちゃんを抱っこすることにあまり興味を示さず、泣いている背景の気持ちを見ようとしない。これがボク達の知らないという咎なのかと思うと胸が苦しいし、この先ボクも妹も、何かしら少しずつ取り戻していけたらと願うばかりだ。
桜が散ってしまう前にと、せっせと散歩に出かけては、花が増えていくのを見ていたけれど、ここに来て満開になっている。
少し近いところにお墓を主体とした公園があって、ここらではお花見のメッカなのだけれど、夕方に近くを通ったら、肉の焼ける匂いがした。あんまり沢山の人があちこちでBBQをやっているからなのだが、道を車で走っていて(車はオープンカーだった)肉の匂いがするって、ありそうでない。車道からは綺麗なピンク色しか見えないけれど、その下ではきっと楽しい宴会が開かれているのだろう。
桜の匂いってあるのかしら? 梅の花の香りとは聞くけれど、あまり桜の香りって聞いたこと無いし、あれだけ沢山咲いている下を通っているわりに、特に匂いに気がついたこともない。
昔、読んだ本の中で― 『やがて窓から甘酸っぱい香りがしてきました。外を見ると、林檎畑が広がっていて、匂いは其処からでした。林檎の甘い香りが立ち込めてー』 というようなフレーズがあった。 ボクは林檎畑を見たことがないけれど、子供心に想像しては、甘い楽園を思い描いたものだ。本当に林檎畑が甘い匂いなのかどうか、知らないけれど・・・ できれば、甘酸っぱい匂いの畑であって欲しいな。
今日はヴァイオリンコンサートの後にティーパーティに出席した。欧米人が主催とあって、立食形式のスタイルはとても気軽でフランクな感じ。山盛りにつんでるスコーンや、種類が沢山の紅茶、クッキー、ケーキと、大雑把な感じも異文化の雰囲気。
立食スタイルはホテルではお馴染みだけれど、日本人的ではないような気がする。立食のメリットは、あちこち動いていって、いろんな人とおしゃべりできることにあるだろうけれど、こうして広く浅く交流を持つことって、我々の気質ではないように思うのだ。
我々は家に誰かを呼ぶとき、その人数に見合うだけの椅子を準備するだろうが、そうすると呼べる人間に限りがでてしまう。以前アメリカ人の友人の家に遊びにいったら、普通の2DKに20人くらい?がうろうろしていて、こんなに沢山一緒に過ごせるんだ、と妙に関心したりしたものだ。
それはそれとして、異文化として楽しめば、それはそれで悪くない。あちこちぎこちなくたたずんでいて、知らないもの同志は話しかけないという不自然さも微笑ましく(?)、お互いが話さない気まずさを共有しあっているのも面白いことだ、と非日本人ならからかうだろう。
途中で仲介してもらって話に加わってからは結構楽しくおしゃべりしてきた。みんな本当は話したいのであって、もちろんボク達だって、そうした日本人的な日本人の一組だった。
2006年04月07日(金) |
猫の首に鈴とは言うが |
時々鈴を身につけて歩いている人がいて、その人が廊下をあるいていくときとか、こちらからは誰がとおって言ったかすぐに解るのだけれど、そうして自分がそこにいることが周囲に知られてしまうのってどうなんだろう?って思うときがある。
同様に、車のマフラーを弄っている人も、近所からすれば「ああ今日もあそこの息子さん出て行ったわ」とか、自分の行動が把握されてしまうような気がする。 けれどこれは、周囲に自分のことを知られなくないからこそ出てくる発想で、知られてもべつにかまわないなら何の問題もない。
マフラーを弄っている若者に関して言うならば、むしろ周囲に知らしめてやりたいというニュアンスもあるかも知れない。その騒音と取られる音を聞く自分が心地よいとしても、それが周囲に響き渡っていることを意識しないではいられないだろうから、この場合はとんがっている心の表現の一つなんじゃないかしら?
冒頭に戻って、鈴をつけて歩いている人をよく観察してみると、その鈴はお守りやらなんやらに付属しているものであり、鈴は付属品であるようだ。そして、そのお守りやらアクセサリーは、他者からもらったものであることが多いように思う。 つまり鈴は、自分の意志でもってつけているのではなく、他者からもらった鈴以外のものに、鈴がおまけとしてついていたのである。
鈴をつける意味は、小さな音のする可愛らしさ、という付加的な装飾であろう。チリンチリンと小さく響く音は可愛らしいし、小さな子供はそうしたものを好むだろう。そうして、意識しないままに鈴の音をさせて、我々は時に廊下を歩いているというわけだ。
何を隠そう、ボクのポケットにも、ヒトからもらった手作りのキーホルダーは入っていて、それには小さな鈴がちゃんと付いているのだから。
ロビン
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