乳がんなんてやっつけろ!!

2002年04月08日(月) 受け入れられない

まだ「乳がん」告知されたことを現実のように
受け入れられていない気がする。

友人達に電話をしまくって、乳がんだったことを伝えた。
みんな驚いている。言葉を探すのに困っているようだったので、
あまり長くは語らなかった。



2002年04月02日(火) 再検査

午前中、昨日の病院へ。剛くんと2人で話を聞きにいく。
昨日と同じ説明を受け、剛くんは「治るなら胸を全部取るほうがいいです」と言った。
先生に「伯母から紹介された病院へ行きたい」と伝えた。
自分の体のことなので遠慮している場合ではないのだ。
少し気を悪くされたようだったが、承諾してくれた。
しかし検査内容の貸し出しはしてくださらなかった。

午後からもうひとつの病院へ。
入るとそこはホテルのロビーのような明るさだった。
ソファー1つにしてもおしゃれ。受付に名前を書いて待つ。

2階にある診察室に呼ばれ、先生に会う。
優しそうな先生。これまでの経緯を説明して、視診と触診。
もう一度検査のやり直しだ。前の先生は紹介状しかくれなかった。

超音波とマンモグラフィー。
同じ内容の検査だったが、すべて女性による検査だったので気持ちも違う。

お昼を食べているときに、剛くんがこんなことを言った。
「さっき置いてあった本にステージってのがあって、
それが5だったら末期なのだって。
綾ちゃんのは5だって昨日言ってなかった?」
そういえば昨日告知されたときに、がんが「レベル5」だと言われていた気がする。
え???私はもう末期なの??

結果を聞きに行く。
やはり右の乳房にはいくつもしこりがあるらしく、
脇の下のリンパにも転移の可能性が大きいので全切除になるらしい。
(やっぱりだめか)そんな気持ちが伝わったのか、
先生が「右胸の1/4にしこりが集中しているみたいなので
そこだけ取る方法が可能かを調べてみますか?」
可能性が少しでもあるならと返答。
剛くんは全部取った方が安心といった。明日から手術前の検査が始まる。

念のため細胞診もする。
超音波をしながら胸を取ることよりもショックを受けていたことを聞いてみる。
「もう赤ちゃんは作れないですか?」
「それは一昔前の話であって妊娠出産は可能です。
ただがんばって産んでもお母さんが小さい頃になくなる可能性を考えたら
すすめられないという社会的理由だけですよ」

2人目をと考えていたところだったので、可能性はゼロじゃないとうれしくなった!

そしてさっき剛くんが言っていた「レベル5」「末期」の話を聞いた。
先生が説明してくれた。
私が「5」と言われたのは、ガンの悪性度なのだそうだ。
これが「5」だということで、100%取った細胞が
ガン細胞だということを表しているらしい。
「末期」とかいうものは「ステージ」と呼ばれる。
私の場合はまだリンパ節にいくつ転移しているかわからないので
病理の結果が出てから説明がある。

また乳房再建の話も聞いた。
ここでは同時再建をしてくれるそう。
生理食塩水を入れる方法で、1年後くらいに福岡で中のバッグを
入れ替える手術をしてそこで乳首も作ってくれるらしい。
そっか無くなっても作ればいいのだ。

この病院に来て本当によかった。
実はそれまでお先真っ暗のように感じていたものが、
ぱーーーっと明るくなった。



2002年04月01日(月) 検査

市内の大きな病院の外科へ紹介状を持っていく。
外科の「乳腺外科」と書かれた部屋へ。気持ち程度にドアが1枚あった。
優しそうな年配の先生が視診をする。胸を見せるのは少し恥ずかしい。
「右の乳首が少し横を向いていますね」と言った。
触診の後、胸のしこりの細胞を注射で取る。
大きな注射だった気がしたのだが、あっという間のことで痛みも少しで終わる。
注射の前だったか後だったか、
取った細胞を研究材料として使ってもいいという許可書にサインをした。
研究材料などといわれると、自分の今取った細胞は
がん細胞だと決められたような気がした。
結果が出る間に別の検査室で超音波検査を受ける。
暗がりの中で検査の人の手がしょっちゅう止まるので
画面を見てみると大きなしこりの他にも小さなしこりがたくさんある。
「それ、できものですか?」と聞くと
「あちこちあるねーなんでだろうね」との答え。

その時は(やっぱり乳腺にお乳がたまっているのだ)と思った。
しこりがいっぱいあるわけない。

そしてマンモグラフィーという乳房のレントゲン。
おっぱいをビヨーンと伸ばされて機械にはさんで押しつぶして
乳腺内のしこりまで見る検査。これが痛かった!はさまれる瞬間は思わず声が出た。
おまけに検査はオトコの人だし、まだ授乳中だからおっぱい出るし勘弁してほしかった。
配慮がほしい。すべての検査が終わってお昼からの結果を待つ。
私のこのときの気持ちは(小さな小さなガンでそこだけ取る手術だったら保険金も出るしいいな。
中途半端な病気だったらお金かかるだけで嫌やなあ)という軽い気持ちだった。

お昼を院内のレストランで食べたあと、約束の時間に病室へ。
待合室で母と「どきどきするなあ」と話をする。
名前を呼ばれる。「お母さんも一緒に」優生と3人で中へ。
先生が「坊やはいくつ?」と優しくたずねる。
私の目を見ない先生。母に向かって話しをする。

「細胞診の結果、悪いものだったのです」すまなそうに言う先生。
一息ついて「リンパにも転移している可能性があるので、
若いからかわいそうだけど右のおっぱいを全部取ることになると思います」と言った。
(え?おっぱいを全部?)
予想もしていなかった結果にとまどう私。

母を見るとショックを隠せない様子。笑っている優生。
「右側に大きなしこりがあり、リンパの硬さからいって
転移の可能性が高いので全部摘出になる」という結論。

正直ショッキングな事実だった。
20代の乳がんは稀だし今は乳房を全部切除する手術は少なくなってきていると思っていた。
自分がガンになるなんて思いもしなかった。
でもこれが現実。
先生からの告知が終わると、母は優生にミルクをあげるために部屋を出た。

1人になると頭がぼーっとして手先がしびれてくる。
何も考えられない感じ。
先生は「手術と入院の予定を決めましょう」と言った。
私は「主人にも話を聞いてもらいたい。明日島から来ますので、説明をお願いします」と伝えた。 

そこへ看護婦さんがやってきて、入院の際に持ってくるものや
スケジュールを淡々と説明し始めた。はっきり言って何も頭に入らない。
まだ血が全身に巡りきっていない感覚で、頭もぽーっとしている。
あとから思えばだが(そのときは余裕なんてない)告知っていうのは
もう少し心細やかに行われるべきものじゃないか。
看護婦さんからは「大丈夫?」の一言もなく、
最後に「まあ今は気が動転しているでしょうから、
これ読んでおいてください」と言って、紙切れ1枚を渡されただけだ。

部屋を出るときに、ふうーっと一息吐いて外に出る。

すぐに母が父に電話する。そして私も剛くんに電話。
仕事中だった彼にガン告知のことを伝える。ショックを受けた様子。
そして明日の朝1番で島から来てくれると言ってくれた。
電話が終わって外に出ると、母とさっきの看護婦さんが話をしていた。
「娘さんのことですからね。お辛いでしょうが、がんばってください」
そんな言葉が聞こえてきた。

病院を出るとこれでもかというくらいにいい天気。不思議だ。
ここにたった今ガンだと告知された人間がいて、
でも世の中は何一つ変わらず動いていて太陽だってこんなに降り注いでいる。
帰りの車の中、落ち込んでいる母を励ますために精一杯笑った。
そうしているほうが自分の気持ちが落ち着いた。
みんなのためにもガンバラなくちゃ

告知された夜、1人になる時間があって考えた。
ネットで「乳がん」を検索してみると、いろんな病院で診てもらったほうがいいとのことだった。
いわゆるセカンドオピニオンというやつ。
友達や親戚からすすめられた乳腺科がある病院に早速電話。
診療時間がとうに過ぎた病院には、警備の方がいただけだった。
私はその方に胸のうちを語った。
「今日乳がんだと言われたのだけれど、納得がいかない。
なのでそちらで診てほしい。お願いします」。
しかし、その方は受付の方でもなく看護婦さんでもなく、
警備の方だったので困惑され
「ここの病院は予約制なのだが、今から明日の予約は取れない。
なので直接病院に来てお願いしてみてください」と優しく教えてくれた。

明日の午前に今日の病院へ行って、午後セカンドオピニオンをとることにした。
ネットでいろいろ病気のことを調べるとちょっと怖くなった。
でも自分の病気のことだから全部知っておきたい。

乳がん患者のML(メーリングリスト)があったので、すぐに入会する。
「今日、告知を受けました」と書いたメールを送った。
夜、弟やその彼女も心配してきてくれた。
おじちゃんはガンにいいという電解還元水とアガリクスを持ってきてくれた。本当にありがたいことだ。

明日の朝来るはずだった、剛くんが夜行の船で来てくれた。
この夜は優生と剛くんと3人で並んで眠った。
剛くんが手を握って寝てくれた。ちょっと泣いた。


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