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池上本門寺に次男の七五三祈願を受けに行きました。次男は祈願を受けている間、私の隣でずっと正座をして手を合わせていました。南無妙法蓮華経と唱和する所も周りに合わせてしっかりと唱和していました。なかなかしっかりしているなと感心しました。生まれる時はいろいろと大変だった次男ですが、本当に早いもので、もう5歳になり七五三です。次男が生まれたすぐ後に、私はインフルエンザになったので、その時の事を凄く良く覚えています。なぜならあれから5年、私は風邪を引いていません。
家族で入間基地の航空祭に行きました。昨年も行ったので2回目でした。長男も次男もブルーインパルスは大喜びで見ていました。どこかに行った時は好きな物を買ってあげるのですが、長男は悩みに悩んだ挙句に双眼鏡を買っていました。帰りは電車の中でずっと双眼鏡で、外のいろんな物を見ていました。本当に面白い子だなと思います。次男は戦車やヘリコプターや戦闘機の入っているおもちゃを買っていました。
平日は子供達と一緒にお風呂に入れないので、土曜日と日曜日は必ず長男と次男と三人でお風呂に入るようにしています。長男も次男も私が髪も体も洗ってあげます。髪や身体を洗ってあげながら、子供達の成長を知る事が出来ます。子供達の成長は本当に早いです。長男なんてあと何年かしたら一緒にお風呂に入ってくれなくなるかもしれません。まあその時々の子供達との付き合い方があり、その時々を楽しめば良いとのだといますが、やはり今しか出来ない事もたくさんあるので、後悔しないよう今という時間を子供達と楽しみたいと思います。
今日から11月です。2019年(令和元年)も残すところあと2ヶ月です。朝の稽古を行い、とても良い形で11月をスタートする事が出来ました。今、自分が頑張れている事に感謝したいと思います。
もう少し稽古に付いて書きたいと思います。稽古をする心構えとして「守・破・離(しゅ・は・り)」という言葉があります。守は(まもる)、破は(やぶる)(超える)という意味です。離は(はなれる)です。とにかく何かを始めた時は守る事が大切です。物事をやり易いようにやったり、自分に都合が良いように解釈したり、自分の都合が良いように工夫したりするのは良くありません。何故かと言えば人間は物事を道理が分かるようになる前に工夫してしまうと自分の都合が良いように楽なように工夫してしまいます。先ずは習う時にはその道理と言うか真理という物を理解するまでは教えられた事を守りきる事が大切です。空手で言えば自分の精神的な悪い所や、身体的な悪い所を矯正し、言って見れば悪い癖を取るために、良い癖を上書きするからです。それが出来たら次は破の段階に入ります。一から十まで習った事が出来るようになったら、また一に立ち返るのですが、自分のやっている稽古に常に疑問を持って行い、何度も稽古する中で自分の特徴に合った物に変化を加えて行き自分の奥義を見出します。それが出来たならば今度は、教えてくれる人から離れ、自分の習得したものを人を教えて育ててみると良いと思います。その教えるという作業からまた新たな気付きや新たな事を学び習得する事が出来ます。では守破離のその先は何にたどり着くのでしょう?これは私の考えですが、やはりまた新たな何かを始め守に立ち返る事が大切なのではないかと思います。学びに終わりは無いのではないかと思います。それが私の師匠である廣重毅師範が私に贈ってくれた本にサインをした「求道無限」という事なのだと思います。「求めれば道は無限に通ずる」のだと私は思います。4回に渡り稽古と言うものについて私の今の思いや考えを書いてみました。ですがこれが完成形だとは少しも思いません。数年後の自分はさらにさらに進化していて、この日記を見て、この頃の自分は未熟だと思える自分になれるよう日々精進して生きて行きたいと思います。
この菅野日記で2回に渡り稽古とは?という題で私の稽古に対する考えを書いてきましたが、もう少し稽古に付いて書いてみたいと思います。「稽古照今(けいこしょうこん)」という言葉があります。この 稽という字は 「考える」 という意味があります。なので稽古照今とは「今について昔と照らし合わせ、考えなおしてみる」 という意味になります。温故知新にも似ている言葉だと思います。なので伝統や文化や格式を重んじ礼儀作法を守り先人達への尊敬と感謝の気持を持って稽古する事が大切なのですが、常に稽古している事に疑問を持って稽古する事が大切ですし、今の学びをさらに研鑽し前に進め、最終的には自分の極意というものを掴まなければならないと思います。なので稽古の作法などは別として、稽古自体が神のように絶対なものになっては行けないと思います。数学や化学反応のようにこれをやれば必ずこうなるという稽古方法は無いと私は思います。だからこそ自分のやっている稽古に常に疑問を持ち稽古する事が大切だと思います。そしてやはり一から十を学んだ後に、また一に戻ることも大切だと思います。それはまた新たな気づきを得る事が出来るからです。なので同じ所をグルグル回るのでは無く、螺旋階段を登って行くような感じになると思います。人間の素晴らしさは学んだ事をさらに前へ進め、それを次の世代に渡す事が出来る事です。自分のやっている事が数百年後にもっともっと素晴らしいものになっていたら、それは本当に素晴らしい事です。その中に自分もいたという事は、この世に生まれ生きた価値があったという事になると思います。
稽古とは自分を俯瞰して見つめ直し、自分の今の状態や良し悪しに気付き、良い所は伸ばし、悪い所は改善し、常に前進する事だと思います。そしてその稽古の中で気付いた事から普段の生活習慣や、自分の生きた方や、心構えなども見直して改善して行く事も大切ですし、それも含めて稽古だと思います。そして稽古の中での学びを社会生活の中で生かして行く事も稽古だと思います。何かに挑戦し目標を持って一生懸命に稽古する人には必ずそこに求めていた物以上のプラスαとも言える物を得る事が出来ます。それは目に見える価値のものではありません。簡単に言うと徳というものなのかも知れません。自分に取って得なものだけを上手く得ようとする人は、得はしても徳を得る事は出来ません。結局長いスパンでものを見た時には徳のない人は得はしないと思います。稽古とはそのような事も学べる場です。
稽古と練習と訓練とトレーニング、全ては何かを上手に出来るようにやる事なのですが、稽古と練習と訓練とトレーニングという言葉ではニュアンスやイメージが違うように感じます。稽古とは何か?日本の武道や茶道や書道など道の付くものは稽古と言います。稽古とは「古を稽う(いにしえをかんがう)」「昔のことを考えて調べる」「古(いにしえ)の事柄に照らしわせながら、物の道理を学ぶ」ことなのだそうです。千利休によれば「稽古」には、「一から十まで学んだ後、再び一に戻る」 という意味があるそうです。その事を踏まえて私は、稽古とは、「学んでいるものや学んでいるものを前進させてくれた先人達、またその先人達の知恵や技術に尊敬と感謝の念を持ち学びを行うこと、その先人達が守ってきた礼儀作法や形式などにも敬意を持ち遵守し学びを行うこと、そして常に初心に帰る謙虚な気持ちを持って学びを行うこと、そしてその学びから物の道理や人の道を知ること」という事だと思っています。その気持ちを常に意識して稽古に励まなければならないと思います。またそう自分がして行かなければ、この素晴らしい伝統や文化や格式は失伝し、この日本から消えてしまう事になってしまいます。私は自分の命を懸けても、私が素晴らしいと思う極真空手を私達が居なくなった遠い未来に残したいと思っています。
茨城県水戸市の茨城県武道館で全関東大会が開催されました。私の運営する支部からは安西愛琉、安西昊晴、今野譲が出場しました。結果は1回戦敗退でみんなが得たいと思っていた結果ではなかったかも知れませんが良く頑張ったと思います。ご父兄様も本当にご苦労様でした。そして子供達に試合に出るチャンスを与えて頂き本当に感謝しています。子供を水戸で行われる試合に出場させる為には、ご父兄様は、いろいろな面で負担がかかる事と思います。その中で1回戦敗退だったりするとガッカリしてしまうかも知れません。もしかしたら、遠くまで電車賃と宿泊費をかけて試合に出してもどうせ1回戦敗退なのだろうからと思ってしまうかもしれません。ですが私は子供達を遠隔地の試合に出させて欲しいと思います。試合で行くのですから観光も出来ませんし、緊張もありご当地の美味しい物も食べる事も出来ないかもしれません。でも私は遠隔地で行われる試合に子供達を出させてあげる事は子供達に取っても家族にとっても絶対に良い事だと思います。家族みんなで同じ目標の為に協力し合う事も凄く良い思い出になると思いますし、子供達もいつか大人になった時や自分が親になった時に、自分の人生を振り返り、その事を思い出したら必ず両親を尊敬し感謝すると思います。またそこまで両親に愛情や期待を形で見せて貰えば、その両親の期待に応えたいと思い頑張ってくれると思います。
「空手バカ一代」のコミックを全巻買い揃えました。この「空手バカ一代」はたぶん3〜4回は買い揃えては、誰かに貸したり、なくしたり、あげてしまったりしました。今回、何故買い揃えたかというと長男もそろそろマンガが読めるようになって来たと思うので、空手バカ一代を読んでもらって、私が何に憧れて稽古したのかを知ってもらいたいと思ったからです。長男も極真空手や大山総裁に興味があるようなので頑張って読破して欲しいと思います。
kanno
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