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私は1993年の4月に上京して東京城西支部阿佐ヶ谷道場に移籍をしました。東京城西支部阿佐ヶ谷道場は何故か中野駅にありました。上京した理由は世界チャンピオンを本格的に目指すためです。東京城西支部阿佐ヶ谷道場を選んだ理由は黒澤浩樹先生の道場だからです。第5回世界大会を見てから私は黒澤浩樹先生のファンになっていました。それと同時に黒澤浩樹先生みたいになりたいと思いました。そのためには黒澤浩樹先生の道場に入門し黒澤浩樹先生と一緒に稽古させて頂けば、どんな稽古をすれば黒澤浩樹先生みたいになれるのかが分かると思ったからでした。幸運にも移籍して1ヶ月で黒帯と茶帯がスパーリングをするクラスに参加出来るようになり、3ヶ月で黒澤浩樹先生とウエイトトレーニングを一緒に出来るようになり、4ヶ月後には黒澤浩樹先生の個人的な稽古の合宿に呼んで頂けるようになりました。その年の25回全日本空手道選手権大会では黒澤浩樹先生のセコンドをさせて頂きました。先生の生活や稽古やトレーニングを全てご一緒させて頂きました。黒澤浩樹先生から学んだ事は稽古に挑む厳しい姿勢や普段の生活の厳しさや試合に臨む姿勢や稽古方法やトレーニング方法や先生の考え方や理念なども学ばせて頂きました。本当に勉強になりました。そして本当に大変でした。人に気を使う事をここで学ばせて頂きました。先生の足音で先生の機嫌が分かるぐらいになりました。先生は稽古の前やトレーニングの前は誰とも話はしませんでした。それでも先生が何をするかをいつも考えて先回りしました。それでも先生によく怒られました。先生は人に厳しい反面、自分にもとても厳しい方でした。先生は絶対に稽古を休まないし、絶対に遅刻をしない方でした。絶対に稽古やトレーニングで手を抜かない方でした。自分が決めた事しかせず自分が決めた物しか食べない方でした。本当に凄い人間でした。黒澤浩樹先生を身近で学ばせて頂いた事は私の大きな財産となりました。黒澤浩樹先生は9年前に亡くなってしまいましたが、私の中では大きな存在として生きています。今でも黒澤浩樹先生の試合の動画をよく見ます。カッコイイなと思います。未だに黒澤浩樹先生のファンです。
自分の人生の中で起きた事や人から言われた事を味噌󠄀にするのも糞にするのも結局はその人次第です。逆に言えば自分に起きた事や人から言われた事はその人次第で味噌󠄀にだってなるし、糞にだってなると言う事です。その出来事や言われた事がその時は悪い事だと思っても、あとになって良い事だったと言える場合もありますが、逆にその時は良い事だと思った事が、あとになって悪い事だったとなる場合とあります。どんな事もどんな言葉もカンフル剤にして生きて行く人もいれば、自分に起きた出来事や言われた事のせいで自分はダメになったと言う人もいます。どちらが得かは誰にでも分かる事なのですが、分かっているけど、そうは生きて行けないのも人間なのだと思います。なので時には起きた事や言われた事をカンフル剤にして頑張り、時には起きた事や言われた事を言い訳にして辞めたり諦めたりすれば良いのではないかな?と思います。
私は、自分のこれまでの人生での出来事に無駄な事は1つも無かったと思っています。それは良かった事も悪かった事も含めてです。虐められた事も好きな子にふられた事も夢が叶わなかった事も死にたいと思った出来事も全て無駄じゃなかったと思っています。そしてそんな出来事も無駄にはしなかったから、今その言葉を言えているのだと思います。50歳を過ぎて、この言葉を言えたと言う事は、自分は間違った生き方はしていなかったと言う事なのだと思っています。そして10年後、20年後、自分が死ぬ間際にも、この言葉を言えているよう頑張って生きて行きたいと思っています。
私は17歳の時に国際空手道連盟極真会館福島県北支部に入門しました。この時は本当に世界チャンピオンになりたい!と言う夢を持って、それまでにしていた馬鹿な事を全て止めて入門しました。その時によく指導しして頂いた先輩は、梶川裕史先輩、堀江崇先輩、滝嶋邦彦先輩、吉田広明先輩でした。その頃に私がライバルにしていたのは、八木沼史郎さんと増田亮一さんでした。特に堀江崇先輩に可愛がって頂きました。一緒に稽古させて頂いたり、食事に連れて行って頂いたりしました。基本稽古、移動稽古、組手などを良くやっていた記憶があります。自主トレでサンドバックやウエイトトレーニングをやっていました。休みの日もウエイトトレーニングをしに道場に行っていました。20歳で東京に出るまでお世話になったのですが、この道場で空手の基礎となる事を学ばせて頂きました。三瓶啓二師範は雲の上の存在で審査や試合でアドバイスを頂いただけでも嬉しい気持ちになりました。1度だけ約束組手の相手をして頂いた事がありました。凄い迫力で師範の前に立っているだけで圧倒されてしまいました。何かしたら本気で攻撃されてしまうのではないか?とおっかなビックリ組手をしていましたが、とても優しく組手をして頂き、本当に強い人は優しいんだと思いました。先ほど書いた指導して頂いた先輩方もみんなそんな感じでした。後輩や弱い人を大切にするとても素晴らしい雰囲気の道場でした。悪い噂しかない私にも指導して頂いた先輩方は「真面目になろうと思ったから空手を始めたんだろ!頑張れよ!」と良く声をかけて頂きました。極真空手の素晴らしさをこの道場で学びました。私の極真空手の原点はこの道場だったと思います。今は新極真会と言う団体になり別の組織になってしまいましたが、三瓶啓二師範を初め指導して頂いた先輩やライバルにしていた同輩には本当に感謝しています。
今までの空手人生を振り返って思い出を書いてみようと思うのですが、空手歴37年にもなると、何から思い出せば良いのか?何から書き出せば良いのか?とても迷います。そんな時は思ったままに書き出せば良いと言う言葉通りに、思ったままに書き出そうと思います。私の最初の空手の先生は魏桜流拳法菊地塾塾長菊地信弘先生です。菊地先生は硬式空手の世界チャンピオンでシュートボクシングのシーザー武志会長と異種格闘技戦をしたり、様々な流派の試合に出場して素晴らしい成績を収めていました。菊地先生との出会いは私が15歳で高校を退学になり、馬鹿な事ばかりしている頃に、それを見かねた私の知り合いに「お前は何かやりたい事はないのか?」そう聞かれ、私は「TVで極真空手の世界大会を見たんだけど、それをやって見たい!」と答えました。その方に「極真空手ではないけど、空手のチャンピオンを知っているから、見学に行ってみるか?」と言われたので、私は「見学に行けば、その人と戦えるの?」と言いました。その方が菊地先生に電話で連絡すると、是非道場に来て下さいと言われました。そしてその方と菊地塾に行きました。当時は福島市の青果市場の近くにあり、プレパプの道場でした。私達が道場に入ると門下生の方がもう練習していて、菊地先生はまだ道場にいませんでした。菊地先生が来るまで見学していて下さいと師範代の方に言われ、私達は練習を見ていました。私の記憶では、キックボクシングのようなシャドーをしていました。少しすると菊地先生が道場に入って来て「君か?じゃあさっそくやるか?」と言われ、私はヘッドギアとグローブをしてもらい、スパーリングなのか喧嘩なのか分からない感じですが、スパーリングが始まりました。まるで今流行りのYouTubeの道場破りのような感じです。私が殴りかかると、菊地先生のハイキック一発で私は失神させられました。納得がいかない私はその後、何度も立ち上がって菊地先生にかかって行きましたが、パンチでまた失神させられ、最後はローキックを何度も蹴られて、私は立ち上がれなくなりました。「まだやるか?」と聞かれたので、私が「もう立てない」と少し生意気な感じで言うと「負けたんだから、参りましたと言え」と言われ、私も観念して「参りました」と言いました。続けざまに「悔しいか?強くなりたいか?俺に勝ちたいか?」と言われました。私が「強くなりたい」と言うと「じゃあ空手を教えてやるから、俺に勝てるようになるまで頑張れ」と言われました。そして鏡の前に連れて行かれ正拳突きを俺が止めて言いと言うまでやっておけと言われ、正拳突きを教えてもらいました。鏡を見ると自分の顔が見た事もないほどボコボコになっていました。顔は目と鼻と口が腫れていました。頭痛が1週間は治りませんでした。おそらくこの時に眼底骨折していたと思います。何十年後に検査したら、以前眼底骨折していると言われたのですが、症状からすると思い当たるのはこの時だと思います。話は戻りますが鏡を見ながら正拳突きをしている時に自分のボコボコの顔を見て悔しくて涙が出ました。でもこれをやればもっともっと強くなれるんだ、菊地先生が自分を蹴りやパンチで一発で失神させたように自分もなれるんだと嬉しい気持ちになりました。あれが私の空手道の第一歩でした。家に帰宅すると、私の家に遊びに来ていた祖父母が驚いていました。父には「どうだった?」と聞かれたので、「スパーリングして負けた。強かった。」と答えました。母には「そんなのやらないほうが良いんじゃないの」と言われましたが、私は空手をやらせてくださいと言いました。母も私が退学になったあと馬鹿な事ばかりしていたので、空手をやれば少しは良くなるかもと言う事で、私が空手をやる事を承諾してくれました。あの時の菊地先生は私にとっては鬼のように強かったですし、その後は鬼のように怖い存在になりました。私が問題を起こすたびに菊地先生に道場に呼び出され、スパーリングでボコボコにされました。あの時、菊地先生と出会っていなければ私はもっと馬鹿な事をしていたと思いますし、あの時、菊地先生に出会っていなければ、今の自分はないと思っています。菊地先生には心から感謝しています。今でも菊地先生の事は尊敬しています。菊地先生のもとを離れた今も、心のなかでは先生と思っています。
53回目の誕生日でした。12時になった瞬間に次男の真白が「パパ、誕生日おめでとう!」と言ってくれました。とても嬉しかったです。この瞬間の事を一生忘れないと思いました。そのあと家族のみんなが「おめでとう!」と言ってくれました。その後に寝ました。朝は9時に起きて、朝ごはんを食べ、少しゆっくりしてから、妻の個人レッスンを大森道場でしました。妻は運動は大嫌いなですが、流石に健康の事を考えたのか、ウエイトトレーニングをするようになりました。メニューはバーベルスクワット、ダンベルレッグランジ、ベンチプレス、ダンベルフライ、ダンベルショルダープレス、サイドレイズ、ダンベルベントオーバーロウ、腹筋、背筋で、前半を3セット、後半を2セット、約60分行いました。その後、妻と次男は新大久保へ行き、私は鷲神社に参拝し、榊を買いに行き、道場の神棚の榊、米、塩、酒、水を替え、今までに感謝し、これからの発展を誓いました。家でゆっくり入浴して、家族みんなで夕食を摂りました。誕生日のお祝いにガレット・デ・ロワを食べました。妻が4等分に切って分けてくれました。当たりのアーモンドが入っているケーキを引いた人は1年を幸福に過ごせるそうですが、それは私が当てました。まあ誕生日ですし、私が幸福になれば、菅野家も幸福になるはずなので、良かったかなと思います。私は家族のおかげで本当に本当に幸せな日々を過ごせています。歳を取ったって誕生日は悪くないですね。その感謝の気持を両親にLINEで伝えました。53年生きてみて、本当に人生は面白い、歳を取るのも悪くないって思っています。
明日で53歳になります。自分の青春時代を振り返ってみようかなと思います。振り返るには長すぎるので、ずっとそれを書くわけではないけれど、思い出すままに書いてみようかな?と思います。福島での10代の時の事や、魏桜拳法菊地塾で菊地信弘先生のもとで空手をやっていた時の事や、極真会館福島県北支部で三瓶啓ニ師範のもとで稽古していた時の事や、極真会館城西支部阿佐ヶ谷道場で黒澤浩樹先生のもとで稽古をしていた時の事や、城南支部時代の時の事などを書いてみようかと思っています。今振り返って考えてみれば、後世に名を残すような伝説レベルの人達と一緒に稽古したりプライベートでも一緒に食事をしたり遊びに行ったりさせてもらったので、稽古やトレーニングで凄いと思った事や自分に影響を与えて頂いた事など書いてみようと思います、
次男は優しい子です。私に「ママに〜なこと言っちゃダメだよ。ママは気にしてるからね。」とと2人でいる時に話してくれたり、私と妻が上手くいくように仲を取り持ってくれたりします。次男がいないと家の中は会話が少なくなります。次男が菅野家のムードメーカーになっています。次男が家にいなくなったら寂しいです。
私は子供の頃に父と母が喧嘩しているのを見るのがとても辛くて悲しかったです。父と母の喧嘩は、父がほぼ一方的にの場合が多かったのですが、それは子どもとしては本当に辛くて悲しかったです。だから私は妻と喧嘩はしないように心がけています。今は長男と次男の兄弟喧嘩を見るのがとても悲しいです。長男は次男より3学年上なので、言葉でも力でも次男は敵いません。でも次男だって悔しいから言い返します。長男は言葉でヒートアップすると次男に暴力をふるいます。対等な力での喧嘩なら私も最後の最後まで行かないように見守りますが、力が違う者の喧嘩は止めに入ります。長男にも言い分はあるのでしょうが、やはり自分より弱い者を屈服させるために暴力を振るう事は許せないので、長男を叱る事になります。兄弟仲良くして欲しいと心から願っています。
「沢村忠に真空を飛ばせた男」を読んでいます。戦後の日本の情景や格闘技や興行と言うものがどう発展して来たのか?などが描かれています。ムエタイと言う格闘技に初めて日本の空手が挑戦したのが極真空手なのですが、そのへんも描かれています。私は単行本を読んでいますが、文庫本も上下巻で発売しているので、是非おすすめです。
kanno
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