「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2004年08月02日(月) 選択

 自分の事も他者のことも分かったつもりになるのはやめよう。それぞれの心の奥底にあるものは、それ以上誰にも傷つけられないように、少しずつ少しずつ、自分の全身で目の前にあるものが安全であるか確認されながら、少しずつ表に表わされる。それ程も繊細に配慮された結果、私の目の前に落ちた悲しみの涙の意味を、私は分かった振りをすることはやめよう。おそらくは分かったつもりの錯覚すらも、優越感の元になるのだろう。

そして、私は自分の事は 「自分の感覚」 として知っている。
自分が過去に、どれほども長い間この苦しみを押し込めていて、どれほども苦しみ続けていて、そしてこれ以上は無いと思える安全な場所にのみ私の苦しみは表現された事を、私はいつも知っている。私が経験してきたことは全て、私の感覚が知っている。私が感覚で知ったものに、私は確信を持つ。だからこそ、いつも感覚を持ち生きられるようにしていこう。

 私は今、私が何時生まれたかという事よりも、私が今どのように生き、そしてこれからどう生きていくのかを考えたくなっています。

 誕生日月に入る前の7月31日、Mitsukoさんとの出会いをきっかけに自分が長い間抱えてきた「生」と「死」と「生」の問題に又ひとつ足を踏み入れることになりました。そして同じ日の午後、私の頭に浮かんだひとつの思考。

「生きよう、生きてみよう、生きてみようと思うんだけど、私は何をしていけばいいのかな」

隣で私の発言を聞いていた人は「あなたはずっと生きてきたし、今も生きてるよ」と言いました。
そうですね。私はずっと生きていた。そして今、上の言葉が私の中から沸き起こってくるのです。これまで生きていたのは、「自身の感覚を知らない作られた私」だったのでしょうか。そしてこれからは「あるがままの私」が生きていくということでしょうか。
私は感覚を持った 「私」 で生きることを選択したのかもしれません。

私の感覚が生きる事を決めたその日から、プラスの私のすぐ隣にいた「そんなことやって何になるの?」という思考はぴたりとなくなり、今は自分を・社会を否定した視線の私は何処にも見当たらないのです。そしてその思考と入れ替わるように、「どんな風に生きようか」と自分の人生を模索し、より傷を癒やそうとする思考が、私の感覚として湧き出てくるのを感じるのです。


 過去には、常に正しいのは社会で、常に間違っているのは私だと感じていました。この頃は、私の中に 「何かが変な社会、何かが根本的に間違っている社会」 が見えます。仕事をしながら思うことのたいていは 「今の社会は何かが変だ」 という事です。6:57


2004年08月01日(日) 今を生きる 私

 今を生きるとは 自分がどんな思考にあっても、この時間の中に留まらず次の事をやっていくことだ。自分の信念を持ち、世の中の不必要な情報には参加せず、ただ次の事をしていく。今、自分の中にいかなるマイナス思考があろうとも、それはそれでよいのだろう。何しろ今を生きることでそれらのマイナスは徐々に排除されていく事は保障されているのだから。私は今、薄っぺらい上辺だけの社会から離れ、ただ自分の事をしていこう。8:30

 
 自分の信念を意識しつつ社会に出てみると・・世の中は常にマイナスの言葉が溢れていて、マイナスの言葉だけがあると言ってもよいほどではないかと感じます。その中で私は、今日はただ黙って仕事をしていました。黙って仕事をしている中で、時々周囲に心を奪われると 「こんなに事務的に仕事だけするだけで良いのだろうか」 という思考に変わってしまう。それでもただ黙って仕事をしていました。 「仕事だけする」 と、心は楽だったのですね。そうですよね。自分の仕事のことだけを知っていればいいのだから。

 仕事の間に、今夜仕事の続きで、ボランティアを強制される発言を受けました。出来ないことは無かった・楽しめるかもしれないとも。そして私は自分の行動に対してボランティアと言う言葉を当てはめたくありませんでした。それから自分の心が望んだことだけをしたかった。更に、世の中の常識の範囲で動くことは避けました。

 夕方仕事を終える頃、私の心に 「マイナスの世界に巻き込まれているのは自分ではないか」 という思いが浮かびました。自分の信念を持って社会に出ている。自分の中に確かな 「私」 を感じているのに、社会に出るとまだまだ社会の基準の中に生きようとするのです。そんな自分を感じてからの帰り道、私の視界に久しぶりに青い空が飛び込んできました。
しばらく空を見る事を忘れていたのかな。カメラも壊れていたからな・・。


 先週、ほんの少しの期間ですが、バイトを入れて仕事に時間を使っていました。たった一度の経験なのですが、今その期間を振り返ると、仕事以外のことが出来にくかったと感じます。やはり私は今、心の事を優先することが大切なのですね。

 私は今日、優越感を持ったまま生きていたでしょうか。自分ではなんとも言えません。昨日までは、優越感だらけの社会の中で 「私は違う」 と錯覚しながら、確信と優越感を持って生きていたように思います。自分を傷つけていましたね。それも仕方が無いですね。そんなものはあれもこれも全てポイ捨てにして、私は楽な私で生きていくのです。

 人はいつも 「自分」 を知っているでしょうか。私は・・。
私にまだまだ自分の事が見えていません。真実の自分は何処にいるのだろう。私は今、他のどんなことよりも自分自身を知りたいと感じています。自分を知るためには今を大切に生きることですね。過去に巻き込まれない自分が今を生きること。巻き込まれる自分を知っても、そして今を生きること。
22:00




2004年07月31日(土) 信念 

 私が社会で多くを語りすぎてしまう原因のひとつは 「沈黙が怖い」 ということでした。「沈黙」とはただそこにいる人皆が黙っているだけのことなのに、私は過去の傷の中に巻き込まれていたのですね。
まだまだたくさんの傷を抱える私を感じます。分かっていても、意識していなければいつでも小さな戸惑いを無視してしまうのですね。これまでも、そしてこれからも自分の問題から逃げたくありません。

 Gobamcan・Hide主催のファシリテーター育成会にMitsukoさんが来場されました。24年前の 「新宿バス放火事件」 で体の80%に火傷を負ったMitsukoさん。実は私は、彼女と出会える日を楽しみにしていたのですが、Mitsukoさんは育成会の写真を撮り終えると、そのまま会場を後にされました。
私は・・。
細くて小さな身体・風が吹けばそのまま倒れてしまいそうな身体で生きてきた彼女の、その表情に、私の心の奥底が大きな刺激を受けました。
帰っていく姿を目で追っているうちに 「どうしても言葉を交わしておきたい」 と感じたので、私はMitsukoさんに声をかけ、会場から出たばかりの彼女の手に触れました。
「死ぬ事を考えて、そして生きてきた彼女」 その事実は、私の過去と大きく重なり、私は自分の中に埋もれたままの生傷をその場で垣間見ることになりました。そしてそんな彼女の身体に触れた事は、私の中に今も埋もれている傷を自ら引き出すきっかけとなりました。そして、私はこれからどんな人と出会っても、どんなことが起こっても、現実をプラスに吸収していく事が大切なのですね。

 エーリッヒフロムは『愛するということ』の中で 「理にかなった信念」 という言葉について書いています。 「自分の思考と経験で掴んだもの」 が 「理にかなった信念」。 因みにその反対は権力によって出来上がった「根拠の無い信念」と。私はこれからも 「自分の信念」 を信じて生きていきます。それが傷を癒やす為にはとても大切です。 「現実の社会で、自分の信念を持ち生きられること」 は私にとって大きな能力になるのです。
私は現実の中で過去に巻き込まれずに “私” として生きていく。
私はより太くて力強い能力を持つために 「社会の中で、自分の信念を持ち過去に巻き込まれない私で生きる時間を持続させる」 ことにします。22:55


2004年07月30日(金) 「私」 の生き方  信念

 夜勤でした。
社会の波に飲み込まれない為に、ただ仕事をすることだけをしようとしているのに、いつの間にか 「語りすぎている」 自分が居ます。私は必要以上に話しすぎるのは何故なの? 語りすぎる私の根底には不必要な守りや評価があるのです。
私はいつも静かに自分の事だけをする人になる為にはどうすればいいのかな。そうだ、過去は降ろして新しい事をしてみればいいんだね。では又また、新しい事をする自分で生きてみます。そして、傷を癒やす事を忘れないで。

 少し前に、相手や状況で思考を入れ替えている自分に気が付きました。そして次には、思考が入れ替わる瞬間に気が付きました。昨日は更に、マイナスの思考に入れ替わり、プラスの私になれないまま動いている自分を見ました。

そんな自分はどう生きているかな。
マイナスの思考も、少なくとも今までよりは楽に生きています。そしてその状況は今までより 「ましに過ぎない」 だけだと感じながら生きています。心の奥底で 「この感じは違う」 と考えている自分が居ます。そうだね。本当の 「私」 はもっと柔らかいはず。切り替えられていないんですね。では切り替えられるように。そのように生きましょう。
 あることをきっかけに、過去を思い起こしました。私は過去、自分が生きる家の中で、他の誰も皆私の身体をすり抜けていくと感じ続けていたのです。
「私は空気よりも邪魔な存在」
過去には、そんな自分のまま生きてきて、そして今も生きている。人は成長するのですね。それが生きていることですね。草木が空に向かって伸びるように、私は私の命をぐんぐんと延ばして生きることをしているのですね。

 私の生の可能性はどうなっているのかな。私は私自身の未来に付いては何一つ分からない。そして、傷が癒やせた分だけ、好奇心と可能性を使って生きる事を知っている。この生き方を続けていこう。ただひたすらこの生き方を。そして私は、真実の私に付いて語れる人にのみ、「私自身」 を語っていこう。それが私の生き方で、それが私の人生です。私は私だけの信念を持ちその中で 「私」 だけの人生を生きるのです。22:00






2004年07月28日(水) 意識 給料明細 謙遜

 無意識に何かを感じないようにすることが、傷を押し込めマイナスの思考に足を引っ張られることに繋がるのなら、私は自分の感覚を見逃すまい。誰よりも何よりも、自分の感覚に耳を済ませておこうではないか。私は 「私」 の心を感じることが、全てのプラスに繋がるのなら、今、私に必要なのは、この感覚を感じられる意識を持続させる事のみではないか。私は今は、自分を意識すること意外に、他には何もいらないではないか。自分が何を感じているかを直視できるように、私はいつも自分を意識して、生きていこう。7:44

 今月の給料に夜勤手当てが含まれていなかった。実は就職して間もなく聞かされたのがこの情報。「給料明細が間違ってることが多いよ」。これまで自分の問題ではないと思っていたが、今回は違う。上司に伝えるとその場で申請書を書くように言われた。「この場で書かなければ手当てをもらえない」と早合点して、その場で書類を書いた。
でもどう考えてもおかしい。私たちは今の仕事をすることで給料を受け取る。「等価交換」と言うらしいがそのとおりだと思う。私は私の能力に見合う賃金を受け取るのだ。だから仕事中に何かのミスをしたら報告書を書く。収入に見合うもの以下の働きをしたからだ。

 給料は会計士が計算する。会計士の仕事は、私たちの働いた時間を計算し、会社側がその時間数に見合うお金を私たちに支払えるようにすることだろう。だとしたら、働いた人の賃金を間違えるとは大きなミスではないだろうか。それも疲労度の高い夜勤手当を省かれているなんて・・。

 昼休み、ちょうど隣に 「以前給料がうんと少なかった」 と言う人が居て、彼女は 「申請しなかったのでもらえなかった」 事を私に話した。ベッド数200床を抱える施設で、こんな事が繰り返されていて、その度に皆で申請書を書いているなんて、まったくおかしな話だと思う。大きさゆえにこんな事が起こっているの? 私の場合も、私が申請書を書くことで給料が追加支給されることになる。こちらもひどい話ではないだろうか。間違われた私が申請書を書かなければ、私の賃金は闇に消えてしまうのである。申請書の用紙には 「給料を今月中にもらうか、来月でもよいか」 と言う選択項目があり、私は 「今月中」 の欄に丸をする。丸をする自分を 「なんておかしな事をしてるんだろう」 と見つめていた。

 私はどうすればいいかな。間違っている事を間違っていると伝えられる私で生きていこう。会計士は・・自分の賃金以下の働きをし、信用をなくしたのだから、私に詫び状を書くべきだ。私に申請書を書かせた施設側は、施設の運営力の小さなひとつになっている私の信用をなくしたのだから、私に謝罪するべきだ。こうすることが、どんな小さな力の人も気持ちよく前向きに働く為の基盤である。私はこの矛盾を自分の中でどのように片付けていけばよいのだろう。

 感情を切り離し、プラスの思考をうまく使い、優越感を持たない私が正当な事実を訴える事をしていくために。



 「謙遜」という言葉がありますね。

謙遜とは広辞苑で引くと 『控えめな態度で振舞うこと』 とあり 「謙る,遜る」 は 『他人を敬って自分を卑下すること』 とありますが、評価の社会で作られたマイナスの言葉です。
である事を知っているのに、私が自身の成長を見つけた時に必ず表れるこの思考。

「私なんて・・・」

この言葉は自分だけでなく他者も巻き込むのですね。何故なら謙遜された相手の人は、他者を敬うように教育されているのだとしたら、 「私のほうが・・・」 と言う言葉を引き出してしまうのですから。こちらはそのように学習してしまったのだから、今のところは仕方が無いですね。
そして 『謙遜』 は上の 「自分は間違っている」 と繋がるように思えます。失敗したと思いたい私は他者に向かって自分を謙遜することで、他者からの評価を得ようとしていたのかもしれません。何しろ過去には、自分を認めることが出来ないまま生きていたのですから。他者の評価に依存していたのですね。こちらの思考も、もう良いですね。私は今、自分の能力と他者の能力は何の関係も無い事を知っています。人が生きるのに 「評価と比較」 は最悪の環境です。姉弟間で・学校で・社会全体で比較されていた世界は、今はもう過去のこととなり、私はまったく違う世界で新しい私で生きていくのです。23:00


2004年07月27日(火) 「ファシリテイト空間」 悪習 

 いつも自分を否定してしまう自分に気が付きます。 「自分は間違っている・失敗している」 と思いたがる私が居るのです。でも・・・果たして 「私はいったい何を間違っているのだろう」
自分自身のあるがままを生きている今の私に 「まちがい」 と言う言葉が浮かぶのは何故? 失敗したと思いたい私は過去には、自分を認めることが出来ないまま生きていたので、他者の評価に依存していたのですね。そして真実は、自分の能力と他者の能力は何の関係も無いのですね。人が生きるのに 「評価と比較」 は最悪の環境です。私は、姉弟間で・学校で・社会全体で比較されていた過去とは違う視点で、新しい私で生きていくのです。


 「ファシリテイト」
その空間はとても不思議な世界。私は昨日、この不思議な世界にほんの少し足を踏み入れた。目の前の景色はいつもと変わらない。私が生きる家の中に、 「私」 が居て 「他者」 が居る。お互いが自身を見つめている。どんな自分も見つめている。お互いの心が何を感じているのかを、お互いの心が知っている。自分を見つめる私は、自分の心を通して他者を見つめる。その何処にも、乱暴な空気は存在しない。ただ、私は自分と他者がそれぞれの心を持ちそこに生きている事を感じている。
この空間は 「ファシリテイト空間」「ファシリテイトスペース」
私は昨日、社会へ 「冒険の旅」 に出かけるルームメイトとの会話の中で、この新しい世界を感じたのです。今はまだ、社会の何処にも見つけられない 「新しい空間」 を私はもっともっと感じたいと思います。私が私を意識して、私の傷を癒やし続けながら生きることが、この世界が広がることに繋がるのですね。

 社会の中で、思考を入れ替え続ける自分に気が付きました。その瞬間は、職場で他者と1対1で会話中に別の他者が入ってきたことにより訪れました。 「あれ? 何かが入り乱れている・・・そっか、こんな風にして私は自分の思考を入れ替えて社会を生き延びてきたんだね」
今ならよく分かります。私は実に細かく相手を観察し、実に小刻みに思考を入れ替えて生きていたのです。こんな生き方は疲れますね。記憶が繋がらないはずですね。何よりも自分を大切にする生き方ではありませんね。この思考ももういらないですね。私は 「私」 で生きる事を知っているから。そして 「私」 として生きる能力を持つことも知っているから。

 過去、「父親」 が居ました。私を養育した父親は実際には私をすっかり見捨てていました。私を養育した父親は自分を生きる事を知らず、何の根拠も無い迷信を鵜呑みにし、丙午に生まれた女である 「私」 を感情的に見捨てていたのです。このことは私の歴史の中で変えられない事実ですね。全ては迷信と言う 「悪習が存在した結果」 。社会の・日本の歴史の中でも変えられないマイナスの事実です。そして今、過去に見捨てられ続けていた私は此処で生きています。この社会の何処かにも私と同じようにこの悪習のせいで苦しみを受けた人がいる。私はこのような悪習慣を否定し続け、不必要なものは削除しながら新しい生き方をしていきます。22:00


2004年07月25日(日) 夜の世界 肯定

 昨夜、玄関先で月を見るだけのつもりが、夜風の心地よさについつい足を延ばしていました。こうもりが夜空を飛んでいました。遠くを照らす街頭は夜の暗さの中でこうこうと輝き、黒いアスファルトの中に小さな石がたくさん光っていました。遠くでセミの鳴き声が・セミは夜でも鳴くんですね。昼とは違う町の空気、近くの家の中が見える。いたずら心でちょっとだけ家の中を眺めていたら、犬に吠えられちゃったから慌てて小刻みに走り逃げる。車が私を追い越して傍から風を感じました。あれ?走り去る車が起こした風よりも、自然に吹く風のほうが肌には心地よいんですね。だって車はエンジンを熱くして走っているから。空に星は見えるけれど、肝心の月が見当たりません。まあいいか、今日は夜風を感じられたから。私は夜も生きている。何時もいつも生きている。「私」として生きている。とは、昨晩の独り言・・。

 いつまでもいつまでも、自分を否定する私が居ます。プラスの動きをしている時でさえ 「つまらないことしてる」 と、覚めた視線で自分を・社会を眺めている瞬間を感じます。そんな自分に気が付けた瞬間にプラスの思考に切り替える。切り替えられた事を確認して喜ぶ事を繰り返し、ふと、「私は何時も同じ事を繰り返していることが多い」と痛感する。癒やさなければ、傷を癒やしていかなければ何時までも同じ事を繰り返してしまう。そうですね。癒やせた部分から新しい思考が広がってくるのだから、私はこれからも自分の傷を癒やし続けます。自分を一番大切にするために。16:00


2004年07月24日(土) 今を生きる 優先順位

 夜勤明け。 「とても眠たい」 夜勤でした。眼を閉じればすっかり眠りにつけるような頭で、それでも忘れ物をしないように注意しつつ一晩を終えました。私は 「いきもの」 なので夜には身体を休めたい欲求に駆られるのです。そして、必要な収入を得る為にはそれだけの働きが必要であることも今の私は知っています。

 昼間、家の周囲(庭) を一周してみました。軒下で弱ったセミを見つけました。指でそっと触れても動かないけれど、まだ命は保っている。このセミは命を使い切ったのかな・・そんな事を思いながら、「木に止まらせてあげると樹液を吸ってエネルギーを取り戻す」という話を聞いたので、木に止まらせて上げました。
私たちは自分の周りに 「人の死」を見る機会は少ないですが、自然に触れて生きていると、毎日のようにどこかで 「いきもの死」 に出会います。ひとつの 「死」 は別の生き物の命の 「糧」 になるのですよね。私たち人間にも同じ事が言えますよね。

ルコウソウは毎日小さくて赤い花を咲かせています。花は小さいのだけれど、その色はどちらかと言うと濃厚な紅い色をしていて、まるで花自身の存在を色でアピールしているかのようです。

苗を買ってきて植えたトマトは毎日その実を赤くしています。食べてみると、今のところはそれ程市販品との違いを感じないのですが、これから水遣りをやめてひたすら完熟になるように待っているので、トマトさん甘くなってね。

 今日一日、優先順位だけを意識して動いていた私は、小さな事を発見しました。優先順位に沿って動いていると、心の底からワクワクしてくるのです。始め小さなワクワクが徐々に大きくなってくるのを自覚でき、ついには見るもの全てが 「何だろう、どうなるんだろう」 という意識に変わるのです。
車を運転しながらでも、心はまるで 「子ども」 のよう。子どもとはいつもこんな視線で世の中を見ているのではないかと思います。さらに考えてみると、私“Mamo”の優先順位で動くということは 「プラスの好奇心の中を生きている」 という事なのですね。プラスの発想は更なるプラスへと発展していくのですね。一人ワクワクしながら、「私はこれから何を発見するのだろう」 と考えるだけで更にワクワクしてくるのでした。

 自分の部屋をより楽な空間にするために部屋の配置換えをしました。途中、OA機器のコードが足りないと気付き、電機やさんへ行きました。買い物というと、たくさんの中からひとつを選ぶことが苦手な私は、今回もコーナーをうろうろし、決められない自分に疲れてしまいましたが、店員さんを利用して楽しく買い物を終え、又ひとつ必要な事を優先できた自分を見ていました。

 こんな風にして、生きていくのに必要な事をひとつひとつやっていくことがとても大切なのですね。これが生きているということですね。

私は今、過去の思考を降ろし、良質の本を読み、今を生きる中で自分の心と対峙しながら、一日一日必要な事をしています。
この一日が一年に、この一年が十年に、やがては私の一生へと、いつか繋がっていきますね。私は今、こんな風に生きていくことが大切ですね。21:21


2004年07月22日(木) 思考

 生きていく中でどんな問題に出会っても、私はその問題をきっかけに成長する。私が持つ問題は、私がそれらを見る能力を備えた時に見つめられるようになる。

 私は、過去に何があったかということよりも、私は過去に何を感じていたかが大切なのだ。私は今、自分が見聞きしたものは正しいかということよりも、私が見聞きしたもので、私自身が何を感じたかが大切なのだ。

 親も社会も否定の材料にすぎない。何故なら、誰も皆完璧ではないから。人の思考とは、そういうことだ。私もいろんな側面を持つ。プラスもマイナスもある。プラスはより多く持ち、延ばして生きればよい。マイナスは浮かんだ傍から否定していけば良い。

 かねてからの方法を、私は今日新たに、しっかりと心に刻み活用していこう。

 一人で歩いていこう。どんな問題も腰をすえて見つめていこう。6:40


2004年07月21日(水) 過程を楽しむ

この2,3日間、頭に浮かんでくる思考を吟味できず、自分の思考に振り回されていました。今の私の思考はマイナスばかりではないと思うのですが、マイナスばかりが目に付くのは、「マイナスの自分を収集している」 からでしょうか。私はマイナスの自分を責めるから、ますますマイナスに入っていくのですね。どんな人も完璧ではないはずなのに、私は成長してる自分さえも、 「そこから下がっていないか」 と常に評価してしまうのですね。仕方がありません。私は過去に大切にしていたのは 「課程を楽しむこと」 ではなく 「結果のみ」 だったから。これも過去の思考だから 「ポイ捨て」 です。

 今夜から、自分の思考にしっかりと優先順位をつけるために、「感じた事を書き出す作業」 をしていきます。感じた事を書き出していくのだから、常に自分を意識している必要がありますね。私が何を感じているかが、とても大事なのですね。私が「何を感じているか」を「私自身が知ること」から、「そしてどうするか」が決まってくるのですよね。

 一週間ほど、このHPの日記にプラスだけを書こうとしていました。この試みは良いのですが、「完璧」を求めていたので、日常で巻き込まれたり戸惑った自分を無視していたようです。これでは、私は辛さを抑圧しているのと同じだから、私の心はパンクしてしまいますね。どうすればいいのかな。まずは書き出しておいて、それから整理して日記に書き上げれば良いですね。22:20


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