「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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生まれて6ヶ月目の赤ちゃんが病院の診察台に寝かされて、手足をばたばた動かして大きな声で泣いていました。私は赤ちゃんの体が冷たくないようにベッドの上にはバスタオルを敷いたけれど、赤ちゃんは泣き続けました。 お母さんの柔らかい感触が無くて怖いのかな? 眠たいのかな? それとも聞きなれない器具の“音”が不安なのかな? 私は赤ちゃんの小さな手足と細い腕に優しく薬を塗っていき、やがて処置を終えた赤ちゃんはお母さんの胸に抱かれた途端にぴたりと泣きやんだから、私は感心してしまいました。 赤ちゃんにとって 「お母さんの温もり」 は 「自分の世界」 そのものなのですね。 この 「小さな赤ちゃん」 はまだ 「一人で生きていかれない」 けれど 「自分で生きようとする力」 はありますし、これから年齢を重ね、何かを体験するたびに 「自分で生きられる能力」 が増えていきますね。だから私たち大人は、子どもが何をしていても基本的に 「待ち」 なのですよね。そしてもちろん自分自身に 「待ち」 の時間があっても良いですよね。22:50
| 2005年02月26日(土) |
「自立」 して生きていこう |
半日の仕事を終えた午後、「鳥が見えて運動が出来る場所」 を探して車を走らせた。天白公園の河川敷近くに 「ピッチング」 が出来そうな壁のある小さな公園を見つけて車を降りてみた。風は強いけれど空は晴れていて、川伝いの景色は遠くの方まで良く見える。「気に入った!」 早速降りて身体を慣らし、素振り・空手の正拳・公園にある大きな壁に向かってのピッチング。気が付くと、すぐ目の前にオレンジ色のお腹をした 「ビタキ」 が止まっていた。私は慌ててカメラを撮ろうとしたけれど、鳥はすぐに飛んでいった。いいよ、カメラに取れなくても。私は今日確かに自分の目で 「ルリビタキ」 を見たのだから、私の見たものが何処かへ飛んでいっても構わないのだ。そして此処で運動していれば 「鳥」 を見ることも出来るんだね・・この場所を私の暮らす町 「名古屋」 の 「お気に入りナンバー2」 に決定すべし。 再び意識を運動に戻して今度は 「正拳」 を作ってみた。以前私に「拳を握り人差し指と中指を親指でかしめた時、かしめた指と腕の形が水平に整っていれば、その拳で腕立て伏せをしても痛くない」 のだと言って、私の前でやって見せてくれた人が居る。私はその光景を思い出しながら指の形を整えて、その拳を公園の地面に付いてみた。細かい砂利の上に降ろした両方の拳には私の体重がかかっているけれど、なるほど不思議、指は少しも痛くない。慎重に身体を下げて腕立て伏せをやってみた。8回でダウンしたけれど、地面に付いたままの私の指は依然として痛みを感じない。何度かに分けて腕立て伏せを続けてみた。 「うん 大丈夫。 何度やっても痛くない。 私にも出来るんだ」 気のせいかな、私が見つめている身体の 「箇所」 に、私の全神経が集中している気がした。
時計は一時間を経過していた。私は運動を止めて河川敷に登ってみた。高台に立って遠くを眺めている自分の足がしっかりと地面に付いている事を「私の感覚」で感じている。過去 「自分が誰か」 を分からないまま生きていた「私」 は、今は 「私」 を知っていて 「私」 が繋がり続けている事を 「私自身」 で感じているのだ。 私はさらに自立して 「自分」 を感じて生きていこう。「自分」 を生かせる生き方をしよう。そう思える 「私の生き方」 はちょっぴり「かっこいい」んじゃないかな。そんな気がした土曜日の午後。
休日。 久しぶりの 「ポカポカ陽気」 で嬉しくなりました。昼間には天白公園で 「てんとう虫」 を見つけましたから、「春」 はすぐそこまで来ているのですね。 夜は 「空手」 に行ってきました。最近は 「野球」 に熱中していたこともあり、練習に参加したのは一ヶ月ぶりなので、私の体はすっかり 「空手」 を忘れていて、感覚を取り戻すまでに少し時間がかかりました。 皆での練習が終わった後、小学生の男の子が先生と一緒に、今日練習した 「下段蹴り」 の 「おさらい」 をしていました。その姿がかっこよくて気持ち良さそうだったので仲間に入れてもらい、私も 「おさらい」 のつもりで 「下段蹴り」 をしてみたのですが、私の 「下段蹴り」 は自分でも分かるくらいに貧弱なものでした。けれどその後、先生は私に1つずつ伝えて下さり、最後には男の子から 「一番初めよりずっと良い形になったよ」 と言われました。どんな小さな事でも 「認められる」 と嬉しいものですから、今日は 「下段蹴りを練習する」 という宿題を持って家に戻ってきました。 「野球」 もやりたい。「空手」 もしたい。「パソコン」 もしたいし、「本」 も読みたい。やりたいことは、いつも山ほどある私。どれを 「大切」 にしていこうかな。何を 「楽しんで」 いこうかな。 いつも一番 「大切」 にしていくものは 「私」 の 「心」 と、そして 「穏やかに生きる私」 で生きていく事ですね。22:00 てんとう虫
| 2005年02月20日(日) |
Baseball 2 |
野球を楽しんできました。打順は「10番・控え選手」 今日のグランドは、始終冷たい風が吹いていましたが、防寒具で体をカバーすれば、北風の中でも楽しむことが出来ますね。今日は憧れの 「バッターボックス」 に立つことは出来ませんでしたが、試合を見守っている間中、私の頭は 「ヒットを打ったら・・」「バントできたら・・・」 と膨らみ続け、頭の中では 「ヒット連続」 の 「私」 が何度も行き来していました。何しろ 「控え選手」 とは、「何かが起きた時のピンチヒッター」なのですから、「何時でもスタンバイできるよう」に、「イメージトレーニング」しておくことはとても大切なことなのです・・・。 明日は仕事。いろいろな発見がありますね。明日も「感情」 に巻き込まれず、「そこにある現実」 をしっかりと見つめ、「必要なこと」 を 「適切な思考」 で判断できる私として仕事をしていきます。21:00
夕方から「心友」Hさんの家に遊びに行きました。外は雨振り、そしてラッシュの時間帯でしたが、私は「暗く反射した道」を「意識しながら」走っている自分が嬉しくて、片道一時間の道のりは「あっという間」に思えました。 私たちは、2月14日に起きた 「教師殺傷事件」 で、「教師を殺害してしまった少年」 の 「心」 に付いて語り合いました。事件を起こした事の 「罪」 は 「罪」 としてありますが、私たち大人は今、事件に至った事の「根底」は「何か」を、「見据える」必要があるのだと思います。過去に「類似する事件」は何度も起きていて、その度に社会は「何か」を「考えて」いて、それでも「マイナスの事件」は繰り返されているのだから、私たちは「今までとは違う方法」で「社会を見ていく」事が大切なのです。もしも仮に、少年を取り巻く周囲の大人が、彼の目の前で 「自分を見つめること」 を始めるのなら、「罪を犯した少年」 の 「心」に「何かが起きる」のではないかと思えます。
そして私は・・・。 「私」は過去、「親に向けた包丁」 を 「自ら元に戻す」 事をして、「自分を守ってきた」のです。だから今、こうして生きているのです。21:00
今日は職場で「大きな気付き」を得ました。きっかけは「一人の少年」 2005年1月初め、私が始めて少年と出会った時、彼は「ー186℃の液体窒素でイボを焼く治療」に訪れていたのですが、両手足に15個のイボがあって、治療は毎回暴言を吐き激しく抵抗したくなるくらいに痛いので、やむなく看護師さん3人で押さえつけられての大変な治療を受けていました。私は見るのが辛くて目を逸らしました。 初対面から1ヶ月後の2月11日、彼と話をしていく中で「あなたのイボは、あなたの力で治っていくと思うんだけど、私にもイボの治療を手伝わせてね」と伝えました。彼はその日、いつもよりもうんと静かでした。それはまるで自分の現実を受け入れているように見えました。 そして今日、少年は初め「今日も痛いんだろうなぁ」と言いましたが、その後には「今治療しておけば早く治るんだよね?!」と何度も言いながら、大人に押さえつけられることも無く「自分で治療した」のです。私は処置を手伝わせてもらいながら、彼の趣味「イラスト書き」の話をしました。私が「あなたがどんな絵を描いてるのかを教えて欲しいなぁ」と言うと、少年は大きな目を輝かせて「自分の事」を語り始めました。そして全てのイボを焼き終わった後、少年は「せっかくだから、もう一回焼いておこうかな。だって、どうせするならしっかり焼いたほうがいいし、早く治るでしょ?!」と言いましたから、私はすぐに賛成しました。少年は治療を終えて部屋を出て行く時、満足総な目をして私を見て「来週こそは僕の絵を持ってくるのを忘れないようにしなくっちゃ」と言いました。私は「ありがとう。楽しみにしてるね。又来てね」と言いました。 今日の少年は、1月に見た「辛い治療をしている少年の表情」とは違っていましたその「瞳」が「穏やさ」と「自分で治療を受けたという誇り」を持っているようにも見えました。 そして私は今夜、少年の「瞳」から、大切な事を教わった気がしました。とかく流れ作業になりがちな忙しさの中でも「心のある自分」を持って仕事をしていくと、このように大きな気付きを得る事が出来ると感じました。
私は今日、「癒やした部分」を使って生きることを「意識する」と、より成長できる事を知りました。これは「できるといいなぁ」という「理想の自分」を、「してみる」という「現実を知っている自分」へ変えていく事のように思います。現実を受け入れ、その中で「出来る何か」を探していると、例えば混乱さえも「楽の大小」の中で考えられるのですね。「素敵」な事ですね。22:45
| 2005年02月16日(水) |
生まれたままの姿で。 |
生まれたままの姿で、広い海の底を自由に泳ぎまわってみたいな。 人は生まれたときには「裸ん坊」なのだから、こんな想像があってもいいのではないかな。 いつも「自然」に寄り添って生きようとする私のことだから、もしかすると、いつかはこんな思いが実現するかもしれないな。けれど今のところは、自分の心をいつも「裸ん坊」にして生きていよう。裸ん坊の私の心はとても繊細だから、私はいつも自分の「心」に注意深く耳を済ませておこう。 こんなことを書いていたら、プールに行きたくなったな。
| 2005年02月15日(火) |
私が「死んでいくときの顔」 |
顔を洗い、鏡を見た。私は自分の 「顔」 が好き。 「私は死ぬ時、どんな顔をして、死んでいくのかな」 「優しい顔」 をして死んでいきたいな。今は、どうかな。私の目線は「優しさ」を持っているかな。「心」は自分を向いているかな。 うんうん、きっと大丈夫。
もう、「生きること」 に 「がむしゃら」 になるのは止めよう。私が持った 「生」 も 「死」 も、「自然の流れ」 の一部に過ぎない。そして私は、「自然」 の中に生きる 「小さな生命体」のひとつ。 これで、良いよね。 7:40
| 2005年02月14日(月) |
「プラスの資質」を探そう 「死の準備」 |
社会に「プラス」を探すということは、「社会の出来事」だけではなく、「社会に生きる人々」に対しても同じことが言えるのですね。そして何より、「自分自身」に対して「プラス」を見つけていく事は、私にとって一番大切なことですね。もしかすると私の中には、私自身も気付いていない「プラスの資質」が眠っているのかもしれません。 今日もまた、自分にある「プラスの資質」を「引き出すことが出来る生き方」をしていこう。8:00
空気を入れ替えようと思って窓を開けると、今夜は「三日月」でした。真っ暗な空に光る月を見ながら、いつかは必ず訪れる「自分の死」について考える時、私の日常にある出来事はとても小さな問題なのだと思えます。この毎日、「いろんな私」は「いろんな社会」を生きていて、私は何処を見ていても、何時かは必ず「死んでいく」のだから、「私が気持ちよく死んでいく」為に必要な事を、「今」見つけ続けられる私でいたいと思います。
ここ「名古屋」で始まった、私の「プラスの人生」 その先にある「私の死」は、いつ、どんな形で訪れるのかな。「私が死んだ後」には、私の遺体の処理の為に、何が必要になるのかな。「死」に付いて、分かっていることはほんの少しだけれど、今は「穏やかに生きる事」をしながら、「死後」の為に必要なものを整えていけば良いですね。 2月14日の今日、世間はバレンタインデー。私は一日、「自分を持って生きること」だけを意識して生きていました。22:50
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