「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2005年10月11日(火) 取り組むと癒える

 今日の私には「ある取り組み」が待っていました。それは何か・・。実は数日前私と職場の1人の先輩との間で1つのミスをテーマに語り合ったのですが、私はその会話の中で大きな戸惑いを持ちました。そして今日の取り組みとは、上司との会話の中で自分に残った戸惑いを手紙にして上司に伝えさせていただくというものでした。 
上司は手紙を読んだ後にご自分にあるいくつかの事情を語りながら私には謝罪の言葉を下さいました。私にもいくつかの思いはありましたが、私に出来るのは私をお伝えすることのみなのでした。私は上司のお話を聞き終えたあと、私の戸惑いに耳を傾けてくださった事に「ありがとうございました」と言いました。
 「自分の事を伝えていく」という取り組みを職場で手紙として練習することも出来るのですね。そして私自身はまだまだ社会に巻き込まれていた私に気付くことができたのですよね。
午後、ヘルパーの女性と行動をともにしました。女性は私に「Mamoさんは自分を持っているから羨ましい」と仰いました。私は心の中で「私はそんなふうに見えるんだなぁ」と思い、女性には「言えると癒えるというギャグがありますよ」とお伝えしました。女性は笑って「でも何かを言ってしまう自分が嫌になることって無い?」と仰ったので私は「私はやっと、何かを言える自分が好きになりました」と答えました。ほんとうに「私は自分を伝えられるようになった分だけ軽い心で仕事が出来ている私」なのですよね。

 
 夕食前、バッティングセンターへ行きました。今日は久しぶりに快調でしたよ。理由は2つ考えられます。1つ目は「空腹状態」にあった事。2つ目は「自分を意識できていた」。どっちかな?おそらくどちらもありですよ。
 今日のバッティングの中で確信したことは「重心を右足のかかとに保っていられれば確実にボールを当てる事が出来る」ということでした。家に戻るとルームメイトが「どうだった?」と尋ねてくれましたので「重心を右足のかかとにおいておくと確実に打てる事が分かった」と伝えました。するとルームメイトは「…Mamoちゃん・・確か前にも同じ事を言っていたような気がするんだけど…」と。私は「んん?そういえばそうだったなぁ」と呟いて「ま、こんなものですよ」と答えました。仕方が無いですねぇ。何かが出来る自分も何かを忘れる自分も、全部私なのです。これからやれるよね。“言えると癒える”“癒えるとやれる”。これもありかなぁ??


2005年10月10日(月) ゆったり

 今日は祭日ですね。世間はお休みの方が多いようですが私は仕事をしてきましたよ。ところで今日の私は心のどこかで「昨日とはちょっと違う」ように思えていました。何が違っていたのかな・・。“心が静か”だったのかもしれません。どこにいてもいろんな事を思う私、そして「あれもよしこれもよし」の私なのです。

「静かな一日」。こんな感じもいいんじゃないかな。・・ゆったりのんびりいろんな事を静かに考えている今夜は時間の流れもゆったりです。

寒くなりましたね。私はいつも一番先に自分にお布団をかけてあげるのです。


2005年10月08日(土)

 今日は統合失調症の病名を付けられているSさんの精神科受診のお手伝いをしました。診察室の前には前回と変わらず多くの患者さんが待っていらして、私達の腰掛けている椅子の前のボードには「精神的疾患を抱える人々」へ向けられたセミナー勧誘のポスターがきれいに貼られてありました。私達が椅子に腰掛けるとお隣の席からお1人の女性の「私、働き始めたの」という言葉が聞こえ、続いて女性と同席されているらしい方の「よかったね」というお返事が私の耳に届きました。少し離れた場所には「今日から入院する」という青年が腰掛けていて、現在入院中らしい女性は「又あの部屋だよ。皆に言っとく」と冗談交じりに語りかけ、青年の返事を待たずにロビーを離れていきました。私にはぐるりと見回したその空間の全てが「間違っている」ように思えて仕方がありませんでした。頭には診察室の中に居るであろう医師の顔と先日鑑賞したヴィデオの中のセラピスト、そして過去に私に薬を処方し続けた医師の顔が順番に浮かび、医師・患者という世界に生じる力関係を思わずには居られませんでした。ほんとうに、私を含めた誰も皆、「自分で生きる力」を持っているはずなのに、そして此処に居て診察を待っていらっしゃる全ての方もSさんも、“生きる力”に変わりは無いなはずなのに。「私は今感じている世の中の間違いをもう少し大きな形で訴えていってもいいのではないのかな」・・・。

 私自身に付いては、過去に診察して頂いた医師の中に私の心を見ようとした医師は一人も居ませんでした。今思えば、医師が私に薬を処方し続けた事は当時の私が抱えていた混乱を長引かせる事に繋がっていたのではないかと思うのです。そして今、私の感じている「社会に対する違和感」は10年前に感じた事実が10年経った今もなお医療の世界で変わりなく続けられていることの結果ではないかと思えるのです。医師やセラピストが心を見る事のできない理由は私利私欲の為であるのなら、私は私達から“生きる力”を奪う事を止めて欲しいという事を強く訴える必要があるのではないかと思うのです。

そして今、私に何が出来るでしょうか。私はいつも自分を見つめて生きることが大切なのです。
心に湧いた思いを新たにして、自分の生き方を確認したような気持ちの夜でした。


2005年10月07日(金) 木曜ナイター

 昨晩木曜ナイターの野球へ行き、打席を2回頂く事ができました。一打席目はデッドボールです。「ボールが当たる!」と思った途端に体が固まってしまった私の左脇に当たりました。それでも当たる瞬間に体に力を入れたためか、打ち身にならずにすみました。そして二打席目はファーボールで塁に出る事ができました。私のホームインは野球を始めて2回目・そして木曜ナイターでは初めての事ですから、これも嬉しいですね。そして次にはボールを打ってから、ホームインしたいものですね。
 一方守りのほうでは、今夜は「野球ショー」を見ているようでした。相手チームに打たれたボールの殆どはサードに向かって飛んでいき、サードの選手は飛んできたボールをバシッと捕ってすばやく一塁へ投げるのです。一塁に投げられる球は一直線に飛んでいき、一塁の選手も逃さずボールをキャッチします。「切れがいい」といはこのような事を言うのではないかと思いました。ほんとにほんとに「すっごいなぁ」と思いましたよ。
 そして今日は昨日のゲームを思い出しながら素振りをしました。今日は「右足のかかとに重心を置くこと」を意識して素振りをしました。上半身は下段払いを意識しました。私はいつも原点を忘れずに丁寧にやっていけば良いのです。

 夜、アメリカ旅行から帰国する心友を迎えに行きました。私は一ヶ月前にベトナムへ行きましたが、今夜再開した心友は今アメリカから戻ってきたばかりなのですから、かつて「遠い」と感じていた「外国」は、実際には私が思っているよりもうんと近いものだなぁと思えます。帰りには車の中で「心の話」をしました。私は自分に付いて語りながら、いつもいつもチャイルドを癒やし先を見て生きていこうと改めて決心しました。

 私自身はベトナム語を定期的に勉強してみることにしました。私はいつもいつも先を見て、自分を高めていくのです。
「切れよく生きよう」 Hẹn gâp lại!


2005年10月06日(木) アオイトトンボ

 今日は職場の責任者となっている人がお休みでしたので、入職一ヶ月目の私が先輩の代行をしました。私にも分からない事がたくさんあるのですが、
ポイントを絞って取り組んでいくと丁寧に解決していけるのですね。そして私は今日の動きの中で掴んだものを元にして成長していくのです。
 昼休み、カマキリのえさを探していつもの河川敷へ行きました。今日はバッタを二匹見つけましたよ。それからなんと「アオイトトンボ」が飛んできました。アオイトトンボを御存知ですか?顔をしっぽの部分が蛍光色のように光っています。きれいですねぇ。そしてこんなに小さくて細い体をしていますが、自然の中で生きているのですよねぇ。


アオイトトンボ彼岸花 やさしい色ですね。


2005年10月04日(火)

 昼休み、会社近くを流れる天白川の河川敷を散歩しました。目的は「家に居るカマキリのえさ・バッタを探す為」でした。残念ながらバッタは見つける事ができませんでしたが、ついに「私のお気に入りの場所」を見つけました。目の前には「登って欲しそうに立っている大きな木。そして木の下には小さくて可愛い花がたくさん咲いていて、どれも皆「芸術作品」に見えました。

 カマキリには私が捕まえたてんとう虫と、心友が捕まえて下さったバッタを与えてみました。カマキリはえさを見つけると一瞬のうちに長い足を延ばして捕まえててんとう虫もバッタもむしゃむしゃと食べてしまったのです。大きくて怖い顔をしてるように見えるカマキリも一つ屋根の下で過ごしてみると愛着が湧くものですよ。どうやら餌があれば飼う事もできそうなので、しばらくカマキリと同居してみようかと思っています。さて・・どうなるでしょう。

何とも言えません・・。 お見合いしています。 木のブランコでした。


2005年10月02日(日)

 昨日育成会で「多重人格のヴィデオ」を鑑賞し皆様のご意見を聞かせていただき、後に「私の思い」を伝えさせていただきました。私は放映内容に関して感じた事を語らせていただいたことで、更に深い部分で自分を考え、自分の「取り組み」を見つめなおす事が出来ました。本当に、何が足りている事よりも何が整っていることよりも、「心」を感じていられる事が一番大切」なのです。


 「今思うこと」
私にはいろいろな「心」があります。
きれいな花を見たら「美しいな」と思い、面白い話には笑いがこぼれます。楽しい場所には「いつまでも居たい」と思い、嫌な気持ちがした時には「その場所を離れたい」と思います。そしていつも何かを感じて「動いている」・「生きている」のが「私」ではないかと思います。

 私にはいろいろな「動き」があります。
楽しみの延長でプラスが浮かぶ事があり、過去の悲しみに巻き込まれて気持ちが沈むこともあります。私に分かることは「確信」を持って動き、わからない事は「無知なまま」動いている。「確信していること」と「わからないこと」とどちらの面も持ち合わせているのが「私」ではないかと思います。

 「私」とは、「いろいろな心と動きを持ち」、そして「いつも成長途中である」のだろうと思います。そして私は、「私はいつも同じではないのだ」という事を今知ったのではないかと思います。

 「私」はたくさんの「好奇心」を使って自分自身を育ててつつ、「私が安定するよう」に生きていくのです。



 野球に出かけた公園で「蜂の子採り」を楽しんでいるおじさんに出会いました。写真の蜂は「地面に巣を作る」ので「地蜂」と言われているそうです。鶏肉に綿をつけて、綿つきの餌を蜂に持たせ、巣まで追いかけていくそうです。実に面白そう。自然と一体化したように遊んでいらっしゃるおじさんは優しい表情をされていました。
お肉のところへやってきました。悪い事をしなければ刺さないそうです。
綿が邪魔にならないよう、後ろに廻そうとしています。

庭へやってきたクロアゲハチョウ。


2005年09月29日(木)

 木曜ナイターの野球へ行ってきました。今日は他の皆さんが球を投げている様子に感心してばかりでした。まっすぐに切れ味良く、そしてなんと遠くまで飛ぶことか。空中を飛ぶ球を見て居る私の心は、「私もあんなふうにきれいな球を投げれるようになりたい!」という言葉で埋め尽くされていました。試合を見ながら少しだけ壁投げをしました。球を投げる時、右利きの私は左足へ体重を乗せてから投げるのだそうです。そして壁投げの時には、球は下のほうに向けて投げ、投げたらすぐに受ける体制を作るのだそうです。
今夜又、私の中に眠っていた「新しい芽」がフツフツと湧いてきましたよ。
 本日ゲームに参加することはできませんでしたが、観戦しているだけでも楽しくてたまりませんでした。そして、日曜日の野球が楽しみですよ。

会社近くの公園に咲いている「きょうちくとう」


2005年09月28日(水)

 今日は小雨が降っていて、肌寒い朝でした。寒さに敏感な私はいつもより一枚余分に上着を持って歩きました。
 偶然にもこの数日間は「健康に生きること」に付いて考えているのです。40年後の私は80歳。80歳の私も今と同じように「自分の事を自分で出来る私」でいるつもりです。そしてその為に、39歳の今、運動を楽しむ時間を意識して作っているのです。
 午前中は水曜日恒例の女性宅へ訪問させていただきました。親戚の結婚式に出席されたという女性、今日はいつもよりもお疲れのようでした。けれど女性は私にコーヒーを勧めて下さいました。私は少し迷い考えましたが「今私とコーヒーを飲もうとしている女性の心を断る理由」が見つかりませんでしたので、女性の入れてくださったコーヒーを頂くことにしました。私は女性と向き合う形でテーブルに座らせて頂き、女性はご自分の事を語って下さいました。
 途中、私は女性に「Mamoちゃんは昔、田舎道で虫取り網を持って虫を追いかけている雰囲気がよく似合う。子どもの頃はそうだったんでしょ?」と尋ねられ「子どもの頃は」という女性の言葉を聞いて(面白い)と思いました。何故なら、私は39歳の今も網を片手に虫を追いかけているからです。私がその事をお伝えすると「ほんとにMamoちゃんって不思議な人」と呟いておられました。

 昼休みには素振りをしました。この頃は自分でも「バットを振り下ろす音」が分かるようになりました。そして更に、「あーでもないこーでもない」と独り言を言いながら、自分を研究しています。一年前はひょろひょろと生きていた私は、今は職場の中で「スポーツウーマン」と呼んで頂けるようなり、私自身はもっと力をつけようとしているのですから、「自分の変わっていく様子」を面白いなと思います。
人って、何処までも「変わっていける」ものなのですね。そして私の体の成長は私の「心の成長」に伴っているのですよね。だから、いつも「心」を意識していくのですよね。

 夜には再び多重人格のビデオを見ました。今夜で3回目ですが、見るたびに違う事を思います。画面の中にある「自分と同じ経験をしている女性」。女性の動きの殆どは「私の過去」と重なります。「随分苦しんでいたなぁ」と思ったり、「まだ苦しい部分があるよ」と思ったり、そして「先」を思える私です。

 何かをしようとする私に、「いつも心を持って」。私の心はいつも「変化してもいいもの」なら、私は変化し続ける自分の心を見つめていけばいいのです。いつもいつも、自分を一番大切に。


 「いつかひとりになれたなら」、私は「どんな私」なのでしょう

夜の公園で輝いていた「黄色い花」。名前が、分かりません・・・。


2005年09月26日(月)

 「複数である自分」を見つめる時、何度でも「自分の奥底」を見ている気がします。そして時に心が迷います。迷ったときには、まるで振り出しに戻った気分になるのです。そしてでも、「小さな確信」を持ち合わせていることも感じます。

 私は「人」だから、心はいつも変化します。私は「人」だから、「感情」もいつも変化します。そして感情に伴って「思考」もいつも変化します。これでいい。何があっても「同じように振舞える自分」をはずして、感じたままを認めていけば、「本当の私」が見えるはず。 今は何ができていて、何が「これから」なのかをはっきりと見る事が出来るはず。どんな場所で何をしていても、どこで何を語っていても、私の心が感じたものは私自身の問題なのだと捉えられ、私が私の中に起きたことを自分で整理していこうと思えた時、私は真に自分を見つめる事が出来るようになるはず。
 2004年11月6日の日記には、「自分育て」と書きました。自分で自分を癒やしていく事を「楽しい」と感じた日の日記でした。「人体実験」はまだ日が浅い。時間はいつも同じように流れていて、現実は私がどんな心でいてもやってきます。ゆっくりでいい。私の周囲がどのように変化しても、昨日よりも確かな「私」が居ることだけは予想できるからです。そしていつか私は「自分」をやさしく語れる日がやってくる。だから、これでいいのです。

 そして私は、もっと「自分を知りたい」のです。22:45


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