「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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2009年03月11日(水) 印刷の過程

 夜、校正用の印刷に、用紙とインク代を節約するために実際のサイズに近い形で印刷してみることにしました。ところが枚数が多いせいか今までのように行きません。紙詰まりが続いたときは「あ〜もう嫌だ…」と思いましたが「丁寧」を思い出して自分を導きました。ところが残り30ページのところで紙が2枚運ばれてしまいました。ページ数がずれてしまって、どうにもつなげられません。その辺りから刷り直しをして、全部で1時間くらい掛かりました。
 出来上がったとき嬉しくて、校正のための印刷なのに既に本が出来たような気持ちになってしまいました。が、明日はこれを見て校正を丁寧に進めていくのです。今夜は枕元の右と左において寝ようかしら…。寝返りが出来なさそうだから机の上において寝ましょうっと…。


2009年03月10日(火) まんまる

 温かい一日。日中はストーブを消して窓を開けて仕事をしました。この頃は一日中パソコンの前に座っていることが当たり前になっています。
 昼過ぎに郵便局まで散歩に出たら、部屋の中と違って外は強い風。でも、私はいつも部屋の中に居ますから意図的にお日様に当たる必要があるのです。
 夜、お風呂屋さんを出てお空を見上げたら、満月でした。日本に帰ってから初めて月を見上げた夜でした。私の心も満月のようにまん丸。文章作りも「なん○」です。


2009年03月09日(月) 未来予想図 Part 5 くらい

 明け方3時半にトイレに行ったあと本のことを考えていたら目がさえてしまい、今日も5時半に布団から脱出しました。朝早い時間は寒いですが、私は早起きが好きなのです。朝ごはんを済ませてせっせとまとめ。大きな引き出しが出来ました。
 私は今の引き出しを成長の証としての一つの形に出来たら(出来た分だけ)「いつか一人に」限りなく近づく予感がしています。もしも私の予想が当たったら…いろいろなことが浮かんできます。
 


2009年03月08日(日) トンネルからの脱出

 どの方法で引き出しを選べばいいのか分からなくて、帰国してからずっとモグラのように生きていました。
 ベトナムに居る頃、日本の父が私の文章に投資金を出して下さいましたが、今日はとうとう「お金を返して」と言われてしまいました。私はきっと、的の外れたことをしていたのでしょう。仕方がないのでお返しするという方向で少し使った分を頭で計算して伝えました。それから「こんなことってあるんだ…」と思いました。でも、もともと私のお金ではないのです。今あるお金で生きていけばいいのだから、それでもかまわないと思いました。
 ところがその後、引き出しを選ぶ方法を見つけたのです。それは「そんな方法でいいの?!」というようなものでした。私は「本を作る!」と構えすぎていたのです。もっと楽に構えていたらすぐにも分かりそうなことだったのに…。マイナスパワーは強力ですから、Mamõ ちゃんはいつも能力のリストが自分の次に大切になりました。
 帰国後13日目にして、私はやっとトンネルの中から抜け出すことが出来たのです。これからは順調に運びそう。よかったよかった。本当によかったです。


2009年03月07日(土) 不思議なこと

 少し前の話になりますが、帰国した翌朝郵便物の整理をしていたら、子どもからファシリテイターに当てた手紙があってびっくりしました。
 事情は、子どもが私宛に私の日本の住所に届いた手紙に、ファシリテイターが「今はここには居ませんよ。手紙はどうしますか?」と手紙を出して、その返事が来たということでした。私は子ども達にはベトナムの住所を知らせると約束していましたし、越南した後に日本に手紙が届いていたことも、ファシリテイターが手紙を出していたことも知りませんでしたから本当に驚いて「私宛の手紙なのに、なぜ尋ねてもらえなかったのかしら?」と不思議に思ったり「そのようにしたことを何故知らせてもらえなかったのかしら?」と怒りが湧いたりして埋もれました。
 でも数日を経て、何事もプラスに考えた方がお得だと思うようになりました。何故なら、私は子ども達と離れた頃よりも楽になっているのですから、何があってもあの頃よりも悪くなることはないと思えるからです。ということで、前向きな考えを持っている自分を感じてうれしく思った出来事でした。


2009年03月03日(火) 生活する楽しみ

 寒い朝。4時に目が覚めて眠れない。「どうせ起きるのだから」と5時ごろ布団から脱出した。「新聞屋さんはもう起きているかしら?」と上着を羽織って外に出たら、外はまだ暗いのに新聞は投函されていた。こんな朝は新聞屋さんに「ありがとう」。外は曇り模様で寒そう。少し遠くの百円ショップまで買出しに行く予定だったけれど延期にした。
 帰国して初めて一日中まとめ。時々外を眺めて吐く息の白さを楽しむ。昼過ぎにはあられが、庭の落ち葉の上にタチタチ音を立てて落ちた。
 することをしているとあっという間に時間が過ぎた。夕方5時半、作業を終わりにしてもう一度外を眺めた。日中のあられは雨に変わっていた。思案しているのはお風呂屋さん。雨だから自転車ではいけない。「温まりたいけれど帰りに体が冷えるのもなぁ〜」ということでお風呂屋さんも延期にした。おなべにお湯を沸かしてたらいに注いだ。お風呂の変わりに“足浴”。足が喜んだ。
 今日の外出はトイレだけ。と言いたいところだけど、漬物が食べたくなって買い物に行った。ローソンで買ったパックの白ご飯と漬物とゆで卵を食べる。3回に1回くらいワカメのスープをすする。お腹は7割ぐらいで満たされた。残ったご飯にラップを貼りながら、コンビニの白ご飯を食べることがあるなんてと、その場所とは無縁だった過去を思い出して笑えた。
 パジャマに着替えて布団を敷いてその上に寝転んだ。部屋をぐるりと見渡す。昨日寒さ対策に買ったマットを眺めて「かわいい柄だなぁ」と自己満足。マットだけにとどまらず、天井もすりガラスも部屋の中全部が面白い。楽しいなぁ一人暮らし。気楽だなぁ一人暮らし。どうしてこんなに楽しくなってしまうんだろうと不思議な気持ちがする。明日もいい日だといいな。きっといい日だろう。明日は天気になったらマイチャリで散歩に出よう。


2009年02月26日(木) 新しい一歩

 帰国の朝、6時半頃目が覚めました。ご飯を食べて荷物をまとめ、8時に部屋を出てフロントへ。後半のホテル代は11日分で121ドルと洗濯代30000ドンでした。
その後、長く住んだ分いろんな話をしたオーナーの娘さんとタクシーが通る道まで歩きました。娘さんはもうすぐ離婚されるので「新しい人生を楽しみましょうね」と話をしてお別れしました。
 通勤時間のために、道路はバイクでいっぱい。空港に着いたのは通常より20分遅れの1時間後のことでした。
 持ち込み荷物の検査で引っかかってリュックの中身を全部出して検査になりました。こんなことは初めての上、心当たりがありません。リュックには乾きたての下着をそのまま押し込んでいましたから机の上に下着が並びました。でも気にしている余裕がありません。散らばった下着を見ながら(これも衣類の一種に過ぎないなぁ)と思いなおしました。
 定刻の11時5分。ホーチミン発タイペイ行きの飛行機が飛び立ちました。(長く住んだ土地よ、又ね)という思いが自然に浮かびます。機内のテレビ画面の地図からベトナムという国が消えたとき、ベトナムが遠くなったようで寂しくなりました。そしてすぐに、一年間暮らせたということがうれしくなりました。
 タイペイで、乗り換えのために飛行機を降りました。今度はセントレア域の飛行機に乗るのです。そのタラップを歩き名古屋へ向かう飛行機に足を一歩踏み入れたとき 「ここから又始まる」 と思いました。つまりベトナムの生活は私の人生の途中の一こまであるということです。
 タイペイの空は曇っていました。(今日は町が見えないなぁ)と思っていたら、飛行機が雲の中を通過して上空に出た途端にまぶしい太陽の光が差し込んで、窓枠いっぱいに雲のじゅうたんが広がりました。そのきれいなこと。(あの上を歩いてみたいなぁ)とは、いつの時代も思うことです。
 午後8時、飛行機はセントレアに到着。迎えに来ていたファシリテイターと数ヶ月ぶりに再開しました。外に出ると冷たい空気に一瞬身が引き締まりました。暑いところから寒いところへ帰ってきたことを意識に入れなおしました。
 車が道を走り始め、道路に出て日本語の看板が並んでいるのを見ていたら又寂しくなって、とうとう涙が出ました。こういうのを「逆ホームシック」と言うそうです。私はベトナムに心のふるさとが出来たのだと思います。一年間楽しい出来事がたくさんあって、又行きたい・住みたいを持って日本に帰ってきたのです。
 新しい家に帰ってきたのは夜10時過ぎでした。日本の父が家の掃除などをして暖房器具も揃ってあったので、私は「自分の家に帰ってきた」という気持ちになりました。私の新しい生活が始まったのです。


2009年02月25日(水) Why

 朝起きて何をしようかと吟味して、午前中はまとめをして午後から荷物の再点検をすることにしました。それから、今日は一日一人で過ごすこと。最後の日に「ベトナム」を感じたいからです。
 散歩に出たら、顔の皮膚が、やけどをしたあとのように引きつって、恐怖映画に出てくる人々と同じに見える人が物乞いをしていました。私は傍を通るとき怖くて目を逸らしました。 しばらく歩いてもその映像が離れませんでした。
 自分はどうして「怖い」と感じるのかなぁを自分に問うているうちに、それは子どもの頃に恐怖映画を見たり、周囲の人々にそのような写真を見せられて脅かされていたからだと思いました。例えば「ゾンビ」という言葉がありますが、そのような言葉だって、いつかの時代に恐怖映画を作った人が考え出した言葉だと思うのです。それなら、その映画を見なければ、今の自分は平気なのか、それは分かりません。けれどこのことを探求した私が今「怖い」という感情が自分の心の傷から来ていることが分かって安心した、ということは私の感じたものは私にとっては正しいと思いました。それから今度はその人と話が出来るような気がしました。

 時々「日本に帰る」ということを寂しいなぁと思います。私は日本に居てもベトナムに居ても楽しい自分が居ます。することがあってそれを進めることも楽しんでいます。そして「寂しい気持ち」が湧いてくるのは何故か、不思議です。
 友人と会えなくなるから?違うのです。今はコンピューターというものがあって、私は世界のどこに居ても話したいとおもう人と連絡を取ることが出来るからです。それなら「ベトナムで生きたいと思っているから?」これも違うのです。私はどこの国でも自分を試して生きていけるし、いろんな国に行ってどこに居ても生きられる自分を感じたい気持ちすらしているのです。
 それなら、寂しいという気持ちは何故?。分からないけれど、Whyを探しているうちにその気持ちは何処かへ行ってしまいました。


2009年02月24日(火) あっという間の一年間

 最近は友人に会うと「一年は早いねぇ」と話します。私は一年間何をしたかなぁ。
 最初の3ヶ月は言葉を勉強しました。日本に居るときは、通学は3ヶ月を目安にしてていたけれど成長する自分がうれしくて時期が過ぎても通いました。「優先順位は?!まだ行ってるの?!」の導きがあっても通いました。ある日、学校に行くということが精神史を変える作業になっていると気付きました。楽しみの延長が自然に心の作業につながっていたことを知ってうれしくなりました。
 テコンドウも習いました。再び「優先順位は?!」の導きがあったけれど、どうしても通いたかったので内緒で通いました。試験も受けました。その後すぐに引越しをしたので帯はもらえませんでしたが、覚えた技がその後に意外なところで効果を発揮しました。練習していてよかったなぁと思いました。4ヶ月目頃、来た当初よりも楽に動いている自分を感じました。その頃、長期滞在し帰国間近の日本の友人が「慣れた頃に帰るなんて寂しい」と言いました。私は自分の動きを振り返りました。自分は3ヶ月情報収集をして、今はその先を知りたいと思っていると実感。友人と私は「新しいことをするには、そのことを知るのに3ヶ月くらい掛かるんだね。それから、あそこに行ってみよう・あれをしてみようと行動範囲が広がってくるんだね」という意見で一致しました。
 しばらくのち、本格的にまとめに入りました。ある時の2日間、没頭しすぎて頭が痛くなりました。それから、自分に耳を澄ませるように意識しました。してみると「なんまること」ができるようになりました。「出来た分が出来た分だよね」ということで、散歩と称して遠出もしました。
 10カ月目頃、帰国が目に見えたとき焦って「真面目にしておけばよかった」と反省しました。けれども、目の前に広がるクチの自然とニャチャンの海と周囲の人々との触れ合いも楽しかったので、遊びに行くために早起きしてまとめをしました。

 そして明後日帰国。今日は夕方から日本女性の友人と会いました。意気投合したのは「一人で生きるって気楽で楽しいよね」。友人の生き方はタンポポの綿毛のように自由に生きている私と似ているのです。意見が分かれたのは「体罰は少しくらいあったほうがいい」と言う友人と「体罰反対。自分にやさしくすることを知っていたら、他者にも自然にやさしくなれる」と言う私。私は「意見が分かれたね」と言って終了しました。友人が「今の若い人は自分の意見がない」と言いました。私は「私も同じだったよ。過去は、病院の中で先生の指示することが出来ればそれでいいと思っていたんだよ。それが出来ていれば大丈夫だと思ってたんだよ」と言いました。「本が出来たら、その本を持って、自分が生きた町の駅に立って売るの」と公表しました。私は、自分の本がどのような形になっても、行商はして歩こうと思っています。自分の作ったものを自分で売るというのが面白そうだからです。


2009年02月23日(月) ありがとうベトナム

 あと3日で帰国です。一年という月日は過ぎてみればあっという間。楽しいこと事がたくさんありました。そして、病気をしたときには日本に 帰りたいと思いました。住む場所は、今の場所も入れると全部で5箇所でした。その中で最も親しんだのは、ベトナムの人々と家族のように暮らしたクチの生活です。 広い自然とその中で生きる生き物に囲まれて暮らしたその場所は、私の心のふるさとのような気がしています。自分は、その場所にいつでも帰ることが出来るような気がします。私がこのように思うのは、その空間を「過去の精神史を変える」という作業として利用したからだと思います。そして、ニャチャンもダラットもその他の場所でも、行く先々で楽しいことがありました。
 私は帰国したら、日本の人々や自分の子ども達にベトナムの話をするでしょう。そのとき、クチに出来た新しい家族や他の場所で出会った心の友の話もします。いつかまた、ベトナムに来ることがあるかもしれません。そのときは又、Mamo と遊んでください。私は日本に帰っても、自分の心を大切にして人生を楽しみます。
では、皆さん又ねぇ。
 と、ベトナム語で書きたいなぁと思う私の頭に、一年間私の通訳をしてくれた女性が数人浮かびました。 心から、ありがとうございました。この文章はYen Emさんが手伝ってくださいました。

Chào các bạn
3 ngày nữa Mamo sẽ trở về Nhật Bản.
Những ngày tháng trong một năm qua Mamo đã có rất nhiều niềm vui.Đã có lúc vì bệnh, Mamo chỉ muốn quay trở về Nhật Bản liền.Nơi cư trú tất cả đã là 5 nơi. Nhưng vui Nhất Mamo đó là thời gian sống ơ Củchi đã sinh sống với người Việt Nam giống như với gia đình. Đó là nơi mà thiên nhiên bao quanh và động vật sống xung quanh, đã làm cho Mamo cảm giác đó là quê hương của mình.Nơi đó đã làm cho Mamo cảm giác lúc nào mình cũng có thể quay lại như ngôi nhà của mình.và Nơi nào cũng vui lắm.
Khi trở về Nhật chắc chắn tôi sẽ kể với những người Nhật, những người bạn và những đứa con của tôi về Nhật Bản.Lúc đó,Mamo cũng sẽ nói với họ "Mamo đã có một gia đình mới tại Củ Chi và có những người bạn mới đã gặp tại Việt Nam"
Có lẽ một lúc nào đó Mamo sẽ quay lại Việt Nam, lúc đó hãy đi chơi, nói chuyện với Mamo nữa nhé.
Các bạn hãy giữ gìn sức khỏe nhé.Mặc dù trở về nước nhưng Mamo sẽ sống vui vẻ, lúc nào cũng quan niệm Tấm Lòng là quan trọng nhất.Mamo luôn luôn coi trong tấm long.
Cám ơn những cô gái đã giúp đỡ Mamo dịch những điều Mamo muốn nói sang tiếng Việt trong suốt một năm qua.Mamo thành thật cám ơn các bạn.
Tạm biệt các bạn!!Hẹn một ngày gặp lại.
Đoạn văn này Em Lê Thị Hoàng Yến đã giúp tôi dịch sang tiếng Việt.Cám ơn Yến em gái của Mamo.


Mamo |MAILHomePage

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