「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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よく行く銭湯の洗い場には小さな椅子があります。今日は椅子に座って身体を洗っていたら、椅子が滑って身体が斜めに転んでしまいました。スローな転びだったのでおかしくて「転んだ」と一人で笑いました。隣に居た女性も一緒に笑いました。 湯船は私が大の字で横たわれるくらいの広さで小さな噴水があります。噴水のお湯は真ん中から外側に向かってふわ〜んと落ちてくるので、全体はリンゴのような形をしています。外側は水の壁みたい。その中に手を入れたり水の壁に指を入れて、ふわ〜んの形を壊してみたり面白いので、いつもしばらく遊んでから上がります。 いろんなことを楽しんでいる自分を見ていると「もっと楽しめる」という発想が浮かびます。今満たされているように感じていることもその奥にもう一段上の楽しみがあるような気がするから。
昼に、印刷したファイルを持って通りがかりの公園へ行きました。その公園は、ベンチの塗装は剥げて辺りは雑草がいっぱい。人々から忘れられたような姿なのに、なぜか心が落ち着きました。空を見上げたら、伸びっぱなしの木の枝が空を覆うように広がっていました。私の安心はその緑に守られた感覚からやってきたみたい。 乱れた文章を読んで頭をひねった後、心の父と話をしました。父は「出来るところからするのが基本だよ」と言いました。そうですよねぇ。私は時々、小さなことを大きな問題にしてしまうことがあります。 そして、こんな私も一昨日から、さらに楽しさが増しているのです。本当にワクワクしています。どうしてかなぁ?解らないけれど楽しいのだからそれでいいのです。 夕方遊びに行きたくなったので自転車にまたがってブラブラ散歩。風の噂に聞きましたが、名古屋では自転車のことを「ケッタ」と言うのですよねぇ。 私の「蹴ったマシーン」は白くて折りたたみ式です。いつかは折りたたんで持ってみようっと。
この頃父親に見捨てられたチャイルドを癒やせるようになりました。今日癒やしの作業に利用した能力は「ベトナムで一年間暮らしてきたこと」でした。今まで見えなかった部分なので「一つ楽になる感覚」を楽しんでいます。 本のほうは「子ども引き出し」の「私を表現する時の主語」は「お母さん」としていましたが、それを「私」に変更しました。実は子ども達から最初の手紙が来た時、私はその返事に「私」を使いたかったのですが、その時は辛抱したので今回の変更は喜びです。これは、私が子どもと自分との間に境界線を保てる私を意識することにつながっているのです。 私は、本には「ありのままの私」を書きたい。行きつ戻りつし6年でやっとここまで来た私をそのまま書きたい。「等身大の私」を書いた本は私にやさしい本なのです。
楽しんでいる自分を見て「心の成長」という言葉が浮かびました。 私達人間はいつも成長しながら生きています。今日出来なかったことも次の日か幾日かを経て出来るようになります。 心の成長も同じ。今日感じられなかった自分も明日かその幾日か後には気付きます。ある自分に気付くまでの時間は、すぐの時もあり長くかかる時もあるけれど、もっと見たいと感じた分だけ見えるような気がします。自分への「?」の好奇心は新しい自分への始まり。全ては自分を肯定する頃から始まっています。 それにしても例えば料理や運動は、出来るようになったことは出来た自分として持続できるのに、心のことに関しては時々後ずさりになります。傷ついたチャイルドのなせる術ですが、もったいないことをしています。今の自分を認めると、それが出来るようになる青写真が浮かびます。 夜、本『IC』を読んでいたらワクワクしてきました。 私には人生で起きるいろいろなことに対する回復力があります。それは私を作る小さな細胞の力でもあるのでしょう。私の身体は60兆個の細胞で作られていて、身体の中の心臓という器官も60兆個のうちのいくつかの細胞で出来ています。心にも細胞はあるのかな?そもそも心って本当はどこにあるの?心が見えたらいいのにな。 細胞という言葉から、この頃社会の話題になっている「脳死」の話になりますが、(臓器移植のための捉え方であるという前提ですが)私は心臓は全身に血液を送って命を続けるポンプの役割だと感じています。私が心臓というポンプを使って人間として生きられるのは、人として感じたり思考したりする脳を持っているから。このように捉えると、私は臓器移植が前提にある場合の「脳死は人の死」と感じます。子どもの臓器提供の年齢が議論の一つに上がっています。私は自分の命に対する捉え方を浮かべると子どもの場合は・・・も自然に決まってきます。けれど私に決められるのは私に関することのみです。そしてどんなに小さな子どもさんにもその子自身の気持ちがあるのだから、私は自分の子どもが小さい時には出来なかったけれど、大人が日常の会話にこれらのことを入れて語り合っていると、大人も子どもも自然に考えがまとまるように感じます。
今週は母からの虐待の傷を癒やせるきっかけを多く掴みました。私はいつも私の好奇心を基準にすることが出来ると素朴に生きる自分を育てることができます。 私は新しい自分になるための練習を続けています。私はチャイルドを癒やした分だけ自分を見守ることが出来ます。私は自分の太陽になっています。
夕方心友と電話で話をして切った後に「もう一つ聞きたいことがあった」と思い出して、今度はメールにしてみようとボードを打ちました。丁寧でわかりやすい文章が出来ました(このように感じるのは、日中に頭をひねるファイルを見ていたからでしょう)。 書いたものを読んでみたら、読む為の言葉は口で伝えようとするとぎこちないのです。それで(会話する時はどんなふうかなぁ?)と実際に話しかけるように語ってみました。すると「えっとね」とか「それで」とかいろいろ付属が付いてきました。 「なるほど、私の言葉はこんなふうに飾りが付いてしまうのだ」と改めて実感。「えっと」を付けないで語ろうとすると書いた文章が浮かんできて一人で笑えました。遊び感覚で出来た自分が面白かった。私は、出来るようになりたいことは今までと違うことをしようと意識することで出来るようになると信じています。 日中は今日も〈書き書き細胞〉を育てました。
今日は自分をありのまま語る練習が出来ました。私はその時、理想の女性のイメージを頭に置きました。語る自分を見て「あっ、出来てる出来てる…。してみようとしたら出来るんだなぁ」と喜びました。 私は自分の為に自分にやさしい言葉を聞こえてくるように動きたい。出来た自分を思い出したらこの次も出来そうです。喜びを心に沁み込ませました。 夜、本『インナーチャイルド』を読み、自分の本の事を自分に問いかけました。私は今「自分にいい本」を作ろうとしている。よさを求めるために動いていて感じるいろいろなこと。どれも心の成長につながっているけれど、時々大変になる。その自分をどうすればいいのかな? いい文章が出来ても作業中の出来事にトラウマが残ったら2冊目が浮かばなくなるでしょう。私にとっての「いい本」は私自身が自由な心で作った本です。それが出来れば2冊目を作ってみたくなるでしょう。 私は何をすればいいのかな?私はもっと自分の心に寄り添って自分のプラスを大切にして動くのがいいです。それから他者との境界線を意識して丁寧にする自分を意識しましょう。 それに私は1ヶ月前にあることを決めて新しい細胞を育てているところなのです。その中でプラスの変化を感じるとき「面白いことをしている」と実感します。私は自分の未来を楽しみにしましょう。きっと自分の何かが見えるはず。
今朝は雨上がりで土が濡れていたので家の周辺を散歩しました。家から5分くらい歩いた高台に名古屋市立工芸高等学校がありました。「工芸というのは何を勉強するところなのかしら?」と敷地の中を覗くように眺めてみると、まだ新しいモダンな校舎と広い敷地。私は名古屋の街を見ていつも「この町はお金があるのだなぁ」と感じます。 日中は浮かんでくるまま軽い心でまとめをして、気付いたらページ数が8ページも少なくなっていて感心しました。文章も少し離れたところから眺めるのがいいみたい。
今朝は家の近くの公園で運動しました。名城公園のジョギングコースに行っても1周で満たされるのですから家の近くの公園を走っても十分なのです。走った後壁投げを。いいえ…球拾いをしました…。 日中は雨。休憩の時は料理をしたり部屋の中を歩いたり、こまめに腰を浮かせていたなぁ〜。夕方雨が小降りになってから、残り少なくなった灯油を買いに歩きました。しかし都会の過疎地のガソリンスタンドは18時で閉店していました。 作業では別々のファイルの文章に Link を貼る方法を見つけて喜んでいます。この機能がほしかったのですョ〜。
今朝は早起きをして名城公園まで走りに行きました。初日なので公園内のジョギングコースを徒歩を交えて一周。疲れたら散歩にしようと思っていましたが一周した時に足が「初日はこれくらいで…」と知らせてくれたので帰り支度をしました。 公園内には朝の運動に来ている人がいました。ため池の柵を使って腹筋をしている人もいてベトナムの朝の風景を思い出しました。ひんやりした空気と左右に広がる緑が気持ちよかったので又走りたいです。
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