「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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明日から再び東京へ行ってきます。心の中は、もうしばらく休みたい気持ち少しあり。けれども、私は前回帰る時に1つ約束をしてきたので、それを守りたい気持ちが大きい。私は大きい気持ちの方に向かって歩きます。それに「行ったら何かあるかも…(当然なのだけど)」とか「今回は前回の経験を踏んだ位置からスタートなので前回よりは楽だろう」とか、前向きでニュートラルな発想を持っていくのです。 と、ここまで書いて気付いたのですが、私の中の二つの気持ちが二つとも私の気持ちになっている…。私は二つの気持ちを持っている私を知って、考え込む作業をせずにプラスの方を選ぶことが出来ている。成長しているみたい。よかった…。 ということで、2回目の母の旅へ行ってきま〜す。
最近、「自分を主体」という言葉が心に浸透するようになりました。これまでにも自分を主体に動いていたのだと思いますが、今改めてその私を感じているみたい。 させられてしていることや嫌な気持ちのまましていることはマイナスになるか、その時は出来てもいずれは剥がれるメッキに過ぎないと、経験から思います。母になったばかりの頃、全てを楽しいと思えなかったのはそれまでの人生が全てマイナスの情報を埋め込まされ何かに動かされるように生かされている経過の中に居たからだと思います。 営業モードの私を見てみると、自分を主体にすると楽しく動けるのです。楽しいことは誰に言われなくてもしてみたくなり、アイデアはいくらも浮かんでくるのです。 そして、間違って過去の方法をしてしまった時にはそんな私に気付くことが出来るのです。気付きを楽しんでいるうちにそのこともいつか出来るようになる。今は知らない事もいつの日か気付き、いつの日か理解する。ということを、私は自分の経験を通してここに書くことが出来るようになっていることにも気付いて、あ〜うれしい。
母に育つ私をイメージする時、小学生の頃にテレビか何かで見た「北国の雪の中で子ギツネを生んだキタキツネ」を思い出します。穴の入口に立つ母ギツネの後ろから子ギツネが数匹顔を覗かせていました。母ギツネの目がまんまるくて印象的でした。 動物はその時期が来ると子どもを生みます。子どもを身ごもったその時から親になります。人間はそれを「子孫繁栄」と呼びます。動物は子が生まれた後はその子が独りで生きていけるよう・独り立ちできるように食べ物の捕り方を見せて知らせます。人間はそれを「子育て」と言います。人間が子どもを見る視線は動物のそれとは少し違い、自然から離れていると思います。それは、動物はまさに生きるということをするのみなのに対して、人間は何かが出来てこそ生きる価値があるかのような感覚を持っていて、子どもの自立の意味は集団生活が出来るようになることのように捉えられている部分があるからだと思います。 けれど、サル科の動物「ヒト」なら、キタキツネの母のように自然な生き方が・自然な母が出来ます。私はキタキツネの母のように子どもが独り立ちするのを手伝える母になりたい。子ギツネは好きなように遊び自分の世界を広げる。母ギツネは子ギツネの命が危ない時のみ手助けをする。今夜キタキツネの母は、私の理想の母に仲間入りしました。 ちなみに、キタキツネの親子を見た当時の私は「素朴」という言葉を知らなかったと思いますが、その瞳に共感するものが私の中にもあったと思います。私は私の内にある素朴さを大切にしたい。その為には、間違った愛の中で育てられた心の傷を癒やして新しい母に・生きていることそのものが愛を放っているといつも感じられる母に育つこと。私はこんな私を大切にします。
午後、本のチラシの最新版を持って栄へ行きました。本が出来た空間へ戻ってくるとする事はいくつも浮かんでくるのです。 合間に子ども達の家に居た時の私の様子が浮かびました。私はその場所へ何を目的に行ったのかなぁ?と改めて振り返ります。約束を守り自分を伝えに行った私。そこまで出来た私。そして、これからすることは何でしょう?例えばお皿洗いや洗濯をするだけなら私以外の誰にも出来るのです。私に出来ること・私のすることは何でしょうか?プラスの母をするというのは、することの一つなのです。それはわかっているのですが、その仕事は私にとっての何で、その私のしたいこと・出来ることは何なのかなぁ?と…。 私は私の人生を生きたいのです。母というのは私の人生の中で優先順位の上にあることのひとつ。その私は本のことや心のことなど他にもすること・したいことがあるのです。私のすること・したいことの殆どは楽しみです。回想をする私の頭には今が基準となって始まっている未来予想図が広がり続けるのです。 その私は今も成長途中。ありのままの私を生きることが今ある現実を楽しみゆったりの人生を進むことにつながります。つまり「いつもありのままでいいんだなぁ・そうであることが大切なのだなぁ」と…。
子ども達の家で過ごした1週間を振り返って分かった事は、家庭の中は現在も、私が家を出る6年半前からそうであったように男性社会が続いていて、子ども達は力によって従わされているということです。ある夜の息苦しさはその社会に入ることを要求されることへの息苦しさでもありました。これから幾度も感じることになるのでしょう。私が過去と同じなら、子ども達を巻き込むことも同じです。 私は子どもの防波堤になりたい。その為には感情と思考を切り離して動くことなのです。一度ごとに切り替えることを意識して練習します。 夕方には前向きな考えが浮かんできました。浮かんだことを1つずつ丁寧にしていけば、針の先ほどでもプラスに向かっていく。私は私の中のプラスの思考を信じています。
名古屋の自宅へ戻ってきました。新しい世界の1週間。約7年ぶりに子ども達と共に過ごした7日間。 家を出る時と同じだったのは社会の基準に合わせることを要求される世界が残っていること。その変わらなさに自分をなくしそうになりました。変わっていたのは子ども達が成長していたこと。本当に夢のようでした。 滞在中は子ども達の世界に乱入することをせずに済むよう意識しました。そして、子ども達の世界へ少しずつ参加させてもらえました。体を使った遊びをした時には、ランドセルがはみ出るくらい小さかった体が寄りかかった時ずっしりくるくらいに大きくなっていることを体感させられました。英語で質問された時には外国の言葉を使って世界を歩く準備が出来るようになっていることを知らされました。また、頻繁に聞こえる溜息には「ゆっくりでいいんだよ」と声をかけるきっかけを得ました。そして私もキッチンにあふれるお皿を洗いながら「ひとつずつでいいョ」と語りかけました。この時間をもっと長く過ごしたいと思いました。 けれども、心ない大人の力に疲れました。眠れない夜、暗闇で過去と同じ危機感を持ちました。寒波のための寒さが自宅へ戻る後押しになり、今朝東京を経ちました。 名古屋の地下鉄に乗り見慣れた風景が視界に入ったとき緊張の糸が切れて心から悲しくなりました。ひとまず私を大切にすることが出来てよかったと思いました。少しの間お休みです。休みながら次の動きをします。
子ども達へ 私をあなた達の世界へ入れてくれてありがとう。あなた達の心の成長を手伝える大人で居られるよう、人としての私を大切にして過ごします。又少しだけ待っていてください。
子どもや元パートナーと生活を共にして3日目。今日は皆がお休みなので家に居ます。私は昼前に子どもの自転車を借りて町探検の旅に出ました。寒くて寒くてまもなく引き返しましたが、知らないところを知るのは楽しかった。それに私が主体で動くと楽です。…と感じるということは、他者が主体になっていることがあるのですよね。明日も「私を主体に動くこと」を持続させて楽しみます。 午後は二人の娘と買い物へ行きました。再会してからの約束の1つでした。娘達はお店の中を歩きました。「おかあさん、これは?」「いい感じだね」「これ着てみる」「行ってらっしゃい」。一般社会の人々と同じように商戦の流れに乗った服を見て歩く娘たち。それは私の価値観とは違うけれど、今日は私を利用して買い物を楽しむ子ども達を手伝いました。それは、子ども達がしたかったことの1つのように感じたからです。
子ども達のトランプゲームの様子を見て(それでいいんだ…)と思うことがありました。負けぎみになっている子どもが持ちすぎたカードをふざけて皆の中に紛れ込ませたのですが、他の子ども達は「あ〜っ」というだけで笑って終わるのです。それから、隣の人が負けるように見え見えの方法で導いている人も居るのですが、皆がそれに気付いているのに笑って終わったり、便乗してふざけてお腹を抱えて笑ったりして楽しんでいるのです。その様子は、私が子どもの頃にした姉弟間での遊びの風景とは違っていました。トランプゲームがいいかどうかは別にして新鮮な不思議な風景でした。
午前6時。初めての新宿に到着しました。子ども達と待ち合わせの時間まで2時間近くあるのでチラシを配る予定も持っていたのですが、夜行バスに揺られて睡眠不足なのです。外で待つには寒いですし、近くのお店が開くまで山手線に乗ってグルグルまわって時間調整をしました。1時間近く乗っていましたが、前にも横にも私と同じように最後まで座っている方がいました。電車の中は低経費の休憩所です。 そして、子ども達と待ち合わせの駅へ行きました。改札を出て辺りを見回すと、懐かしい娘達のお顔が3つ並んでいました。いよいよ小さな旅の始まりなのです…。
今夜、私は夜行バスに乗り子ども達の居る東京へ向かいます。約7年ぶりの再会なのです。行きつ戻りつの7年間、何度思いだし何度切り替え、新しい母として再会できるよう軌道修正してきたことでしょうか。一時はあきらめの思考が湧いた事もあったのに、私はその子ども達に会いに行くことが出来るようになりました。 この現実をタイムトンネルをくぐるかのように感じたり、してきたことの延長としてあると実感出来たり、そうしていながらもするということが出来ている私を見て、くすぐったさも湧いてきます。 誰とも分からない誰かにありがとうと言いたい気持ちも湧いてきます。そして私は私に「私を導いてくれたことに、ありがとう」と言います。 この現実は新しい世界の始まり。小さなターニングポイント。何度も見上げて願い続けた向こうの空へ行ってきます。
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