「生きていくのに大切なこと」こころの日記
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午前中にある方から紹介して頂いた講演会会場へチラシを届けに行きました。多くの方に手に取ってほしいなぁと思いました。 夕方は久しぶりにベトナム研修生さんのお宅へお邪魔しました。二つの素朴なお目目。その瞳に惹かれた当初の頃を思い出して、そのように感じられて自分を嬉しく思いました。「いつベトナムへ来ますか?」と尋ねられて(又行けたらいいなぁ)と思いました。それから次の世界を見ている事も感じました。プラスの好奇心はさらなる次の好奇心へ移るということだと思います。 私はもっと心の自立した女性になりたい。過去「手が届かない」と思っていた事はその意識さえあればすぐに手が届く所にありました。私の世界は私が知っているよりも計り知れないものと思います。小さな世界に巻き込まれていたら、新しい世界が小さくなると分かります。私は広い世界を泳ぐように生き、まだ見ぬ世界を知りたいです。 私はいつもこんなことを言っています。一般の女性の考え方と違います。そしてそれでいいです。夢みたいなことかもしれないけれど、(それが出来たらどんなかな?)と、未来をプラスに思い描いて生きることが健康な心で長く生きるコツだと思っています。 子どもの一人からは名古屋へ来る場合の交通費を尋ねられました。私は、私の世界に子ども達が遊びに来るのは歓迎ですし、母の行く先々をあちこち探検してもらってもいいと思っています。 もしも一人以上の子どもが一度に来ることになったら?アルバイトを始めたので布団も買えるかもしれません。でも布団を保管するところが…。やっぱり引越しをした方がいいのかな?ホームステイ先を探す?安く泊まれるところがあるかも? プラスのアイデアが浮かんで選択範囲が増えるように行動しておきましょう。その状況になった時に練りましょう。
心を語り合う空間「有志会」に参加しました。 私はこの数日思考が飛んで大変な自分を生き延びている毎日。会では、その自分を言葉に出来なくて動けているところを語りました。 よく考えてみると、まとまっていないところは語りたくても語れないのですが、語れた部分は動けているし出来ているということなのですよね。そしてその部分を日記に書いている。反対にまだ動けないところがある。そこはこれから動けるようになるところです。 語り合い練りあうという作業は新しい気付きを得たり考えを深めたりすることが出来るので好きです。会の中では「自分をそのまま伝えると楽だよ」という声も聞きました。私はもっとありのままを語れる女性になりたい。どなたと語り合う時も言葉を大切にし私メッセージを使って語れるようになりたい。なろう。
ある女性に本をお届けに行きました。その方の子どもさんは中学生活の終わり頃「私服でなら学校に行きたい」と言い母である女性はその子どもさんを手伝い、子どもさんは私服で通学されたそうです。女性は「子どもが必要とする時に手伝えればそれでいいかなあと思ってる」と仰いました。私は共感を覚え、子どもがしたい事を手伝えるのは素敵なことだと思いました。 人は子どもを生んだら親になります。しばらく楽しんでいると、それは子どものころに夢見たもの以上に価値のある仕事だと知ることが出来ると思います。私は一度その仕事から離れましたが、今回再び恵まれたこの機会を利用して成長出来るようでありたいです。 そんな私は先日興味深い経験をしました。前置きとして過去の話からさせて下さい。 私は悲しみを感じた時にはその悲しみが終わるまで悲しんでいいと知らなかった頃、子どもが転ぶと最初はやさしく「大丈夫だった?」と語りかけているけれど、子どもは私の思うように立ち上がらないと分かると怒りが湧いてきて「いつまで泣いてるの?」とか「まだ泣いてるの?」と言い、さっさと起きなさいと子ども達を頑張らせました。 今では、当時子どもの方は私に、ある時はやさしい言葉をかけられ、ある時は感情をぶつけられ、子どもの悲しみを増やされていたと分かります。今、私の子どもがいろいろなことを頑張らなければいけないと思っているのは私のせいなのです。 ところが先日、悲しんでいる私自身に「まだ悲しいんだねぇ」と自分で声をかけた時、心からホッとして(あ〜これでいいんだ)と分かりました。体から力が抜けて行くのが解りました。(泣きやまなくちゃ)とか(そんなんじゃダメ)と急がせず、そのままを肯定しているうちに(悲しいよ。だからどうする?)と次のアイデアを探すことが、ごく自然に出来ていました。大人は、そして私はいつも、私を見守っていると私の成長の瞬間を見ることが出来ると思いました。子どもを親の意に添わせようとする事は子どもの成長を見せてもらえるせっかくの機会を逃すことになっていたのですね。私は自分の成長を見ることが出来てよかったです。 私は私のありのままを大切にし自分の成長を見て楽しみながら生きます。感じたままを感じることは次の行動への原動力です。 と書いても、私はまだ不安定。心は行きつ戻りつしますが、エネルギーのたまったところから動きます。
就職活動。求人募集の中に医療関係の仕事を探します。でも、本当にしたい事は何かなぁ?と問うと書くことを仕事にしたい私がいるのが分かります。世の中に仕事はいろいろあるというのに准看護師という免許がある為にその範囲で選ぼうとして選択範囲が小さくなっているような気までしてきます。でも今日は不思議なことが起きました。書くことをしたい自分に「もう少し待っててね」と伝えた少し後、その事を感じていたのは「書くことを止められたチャイルド」という感覚になったのです。それから、広い視野を持った大人のような気持ちになりました。私はしたいことはたくさんありますし、これからもいくつも浮かんでくるのでしょう。そして、目先の事にとらわれず優先順位を大切にしていると、したい事も少しずつ出来るようになると思えています。 帰りにチラシを置かせてもらっている本屋さんへ寄ってみました。自分で作ったものだけど、本屋に来たお客さんが手に取るような気分で新鮮に映りました。チラシは10枚なくなっていました。それを見たらしき方からの連絡はまだありません。でもどなたか持ち帰って下さる方が居るということが嬉しかった。 夜、働き方をもう一度練りました。やはり生活費を得るために仕事をしつつ、したいことが出来るように動きたい。その為に今することを大切にして、将来その事が出来ていくように動きます。
仕事を始めた方がいいかなぁ〜ということで午前中は就職活動。そういえば、ベトナムへ行く前の最後の職場はパワーハラスメントを受けて3カ月弱で辞めたのでした。職安の記入欄にその理由を書きながら(採用率が下がるかな?)と思いました。けれど、これは私の事実。私は私をありのまま雇用してもらえる場所で働けばいいと思っています。もう一つ感じた事は、以前よりも楽に職場探しをしているという事です。過去よりも心に余裕を持って生きているみたい。うれしいです。 夜、 Mamo本を利用して下さっている方から電話を頂きました。その方は本の感想として「これからも人格が優合していくんだね」。それからご自身の事として「人生を楽しまなくちゃ。仕事も嫌々しているならつまらないけど、楽しんでるからいつも楽しいよ」とおっしゃいました。 私も自分の人生を自由に楽しもう。全ては楽しみの延長で私を生きる知恵になります。
名古屋に戻って2日経ちましたが、時々子ども達の事を思い出して話をしたくなります。そんな時、私は過去から目標にしていた事、つまり本を作りそれを持って謝罪しに行った。今のところ、私に出来ることは出来たのだョ。そして今、ひとつの区切りが付いて次の段階に入ったのだョ…と伝えて切り替えます。朝よりも昼より切り替えが出来るようになっているから大丈夫なのです。これからも、どこに居ても子ども達を手伝えるように生きよう。私に必要なことは傷ついた心を癒やす作業を続けること。これが出来て初めて楽な私が広がるのです。 それにしても、子ども達のことを思う時の気持ちは何でしょう?こんな好奇心を持ち始めたのは今年2009年2月にベトナムから帰国して間もなくのことでした。人が自分よりも小さな生き物にやさしさを引き出されるのは自然なことだと思うけれど、赤ちゃんはそこに居るだけ愛らしいのだけれど、我が子はその中でも特別な感覚になる。それはなぜ?現代にあるものでは説明できないような温かい感覚になるのです。 こんなことを考え始めて半年目くらいに「子どもは私自身の遺伝子の一部を持っているから、私の遺伝子が同じ遺伝子を持つ者に惹かれるのかな?」というところまでたどり着きました。このことは自己満足の推論なのですが、どこかのホームページでも同じようなことが書かれてありましたので既に科学の世界で何かしらの証明がされていることなのかもしれないのですが、その自然な反応のようなものは社会では「親子の愛情」と呼ばれていると思います。 午後は寒さ対策を兼ねて模様替え。と言っても1畳幅もないキッチンと6畳一間の小さな我が家。玄関から部屋の奥まで直行で歩いても9歩の我が家。チョチョイのチョイで移動する事が出来るので簡単です。 部屋は日照時間が少なくて冬は寒いのですが今のところ大丈夫ですし、この小ささと古さが気に入っています。仮に、子ども達が私の家に来る時は、見た目の問題上で引っ越さなくてはいけないのかな? 4人の子ども達の母は過去、お金がたくさんなければ生きていけないと思っていましたが、今では少しのお金と小さな部屋を楽しんで暮らす生活が出来るくらいに自由な心で生き、そんな私に自信を持っています。私は私の暮らしのありのままを子ども達に見てもらえたら…と思っています。それに自由に生きる母を見てもらえることは私の喜びにもなります。 人は雨風をしのぎ体温調節が出来れば星空の下で眠ることが出来ます。私もいつか、寝袋で外で寝てみたい。
東京へ行っている間に貯まった郵便物の中に本の料金を振り込んで下さったお知らせ封筒が2名分もありました。私のミスで確認が出来ないまま日にちが過ぎていたので遅れてしまった方には電話で連絡をしました。お二人とも「日記を読んでいたから…楽しみにして待っていました」と返事を下さいました。振り込み詐欺などが横行している世の中。遠方で初対面の方もいらしたので「楽しみにして」という言葉が心地よく響き、私もいつもやさしく生きようと思いました。 本について、郵送用の文章を作っている時に気付いたのですが、私の本はどの章から読んでも大丈夫だなぁと思いました。ちなみに、理想の父の一人でフランス人哲学者ルソーが『エミール』(上)の始めにご自身の本について同じようなことを書いているので、彼と同じ書棚になれべられる本のような気がして嬉しくなりました。と言っても私のものは、ここをこうするともっと読みやすかったかなぁという反省の中で浮かんだ発想なのです。あらっ?ルソーも同じだったのかしら?
昨晩23時前、名古屋へ向かうバスに乗りました。一晩過ごした夜行バスの旅は乗車前に梅酒を飲んでおいたせいか初回よりも楽に過ごせました。前回の経験を生かして寝る体制にもコツをつかめたことも大きかったのでしょう。小さい体を座席の足元辺りまで下げてひじ掛けを枕にして入眠。休憩でサービスエリアに着くと明かりが付くのでトイレに行き、今度は反対の方に曲がって入眠。腰を痛めずに済む体勢です。子どもの頃から小さい体にコンプレックスを持たされていましたが最近は便利で嬉しいと度々思います。 早朝5時に名古屋へ到着。少し荷物が増えて重くなったスーツケースをゴロゴロ引いて夜明け前の名古屋の道を歩きました。初回に帰ってきた時とは違う感覚。「帰って来たんだなぁ。2回目の景色なんだなぁ。2回も子どもに会いに行けたんだなぁ」と思いました。そのとき、東京で目覚まし時刻にセットしていた音楽が鳴りました。私は毎朝子ども達の朝起きを、前の晩に頼まれた分だけ手伝いましたが、その寝顔にそっと声をかける時、過去とは違う・やさしい気持でそこにいる私を確認しました。(ただし子どもには「お母さんの起こし方は、もっと眠くなっちゃう・まだ寝てていいよという起こし方だよ」と言われて笑い話になりました…。) 出来たことを挙げてみると、頼んでもらえたことをすぐにするとそのことさえも私の自信になると学びました。その理由は『インナーチャイルド』(P301)に「子どもは直感的に、ある人が時間をかけて構うものは、その人が愛しているものであることを知っています」と書いてあるのですが、私は「子どもは親が何を大切にしているかを感じている」と思うからです。反対に「行ってらっしゃい」や「おはよう」の声かけは相手に返事を要求する言葉なのだと改めて気付かされました。その気付きをきっかけに次への階段を上る私を確認する事も出来ました。 それからこんな事もありました。私が荷物整理をしていた時、トランクから短くて縮れた毛が一本出てきたのです。私はそれを拾って「これは誰のかなぁ?」と傍に居た娘に尋ねました。娘は最初、(えっ?)という表情をしました。その私達の傍に別の娘が「何?」と寄ってきました。私は「これなんだけど、私のかなぁ?」と冗談を交えて言い、最初の娘は「それは私のじゃない。お母さんのだよ。だって…」と言い、後から来た娘は少し恥ずかしそうに笑い、その私達から少し離れた場所ではもう一人の娘がクスッと笑っていました。 私はかねてから子ども達と、大人になることや性について語り合いたいと思っていたので、自然な形でそのように出来たことを嬉しく思いました。楽に生きていると傍に落ちている小さなものもそのことを語るきっかけに利用出来るようです。 私自身は子どもの頃に、このような機会はありませんでしたが、「性」は家族や親子で語り合ってもいいこと・語りあう必要があることだと思っています。そして、母の私が女性の体を語ることは娘達が女性の自分を知る原点のような気持ちもしています。 ということで2週間の旅は出来たことが重なって終了しました。又、新しい未来が待っています。
今日は名古屋へ帰る日ですが、日中は2番目の子どもと高校見学へ行きました。今回の約束の一つでした。 現地に早目に着いたので傍の公園で野球練習の様子を眺めました。子どもはテニスを楽しんでいるのですが「投げてみたい。やらせて〜」と何度か言いました。見たもの聞いたことに興味が湧くのは自然なことなのです。そして私も「高校見学に来るのにグローブが要るとは思いもしなかったねぇ」と言いました。 見学の時間になって高校へ入りました。授業見学がありました。耳に残ったのは生徒さんを「おまえ」と呼ぶ教師の言葉でした。生徒さん達は笑っていましたし街中では子どもさん同士で「おれ」「お前」と呼びあっているのを見かけることもあるので呼ばれる生徒さんにも違和感はないのかもしれません。けれども…世界共通の英語ではどんな人と語り合う時も「私」と「あなた」だなぁと思うと…私は将来世界に羽ばたくかもしれない日本の子ども達のことを世界共通の言葉で丁寧に呼んでもらえたら…と思いました。 体育館で説明会がありました。保護者からの質疑応答の時間になり、私も質問してみたいことが浮かびました。けれども、その学校に通うのは子どもなので私が質問をすることは子どもの境界線を越えることかなあ?と思い、質問をしませんでした。 学校長のスピーチでは子どもさんたちに「茶髪の人は居ませんから安心して下さい」と語っていらっしゃいました。私は(こちらの学校では、茶髪はいけないという基準を持っているのだなぁ)と思いました。ちなみに私自身は髪の毛もファッションも、すべてその人・その子どもさんの個人の問題だと捉えています。 帰りに、子どもと2つの事を語り合いました。1つは茶髪のこと。一般社会に否定されている「茶髪」というものを子ども自身はどう感じているのかなぁ?と興味が湧いたのです。私は子どもに「茶髪をどう思うか聞いてもいい?」と尋ねました。子どもは「(茶髪の人は)居ないほうがいいけど、自分はしてみたい」と言いました。私は「そうなんだね」とだけ言い、心の中で(この子がしてみたいことが出来るように手伝いたい)と思いました。 もう1つは、質問を控えた自分がどうだったのか確認したくて湧いた質問でした。 「私ね、質疑応答の時に質問が浮かんだのだけど、この学校に通うのはあなたなのだから私が質問してはいけないと思って止めたの。もし私が質問していたらどう?嫌な気持がしたかなぁ?」。子どもはうなづきました。「そうだよね。あ〜私そうしなくてよかった…」。私は自分と他者との境界線を大切に出来たことを嬉しく思いました。 それからこう語りました。「親は子どもが可愛くて守りたい気持ちの中でついつい余計なことをしてしまうと思うの。でもそれは子どもにとっては迷惑かも知れない。だから私は、あなた達が伝えてくれた事のみを手伝うように意識しているの」。本当に、このように意識することが、子どもが自分を生きられる大人に育つのを手伝うことにつながっていると思います。 帰宅すると夕方。高校見学へ行った子どもを含めた2番目と3番目の子どもはこの晩お友達の家へ泊りに行くことになっていました。3番目の子どものは今朝「(外泊から)帰ってきたらお母さんがいないという悲しい現実」と言い、私は本当にそうだと思いました。そして「又会えるから大丈夫だよ」と伝えました。その子どもは既に出かけていました。もう一度話が出来ると思っていたので残念でしたが、又会えるのですからその時まで楽しみを先送りにすることにしようと切り替えました。 そして2番目の子どもも出かける時間になり、用事をしている私に「バイバイ」と言いに来ました。私が玄関まで見送りに行くと、子どもは私に背中を向けたまま「また来てね」と言いました。親から与えられた、受け入れるしかない現実を受け入れようと頑張っているのが私の心に伝わってきました。私は、帰らないでこのまま居るよ。もう頑張らなくてもいいよと言いたい気持ちに駆られましたが、それは対症療法に過ぎないと分かるから言えませんでした。子どもの言葉をその場で受け入れられる状況が出来るように意識して生活しようと思いました。 家に残っている1番目と4番目の子どもと元パートナーと4人で夕食をとりました。 元パートナーから「いつ戻る予定?」と尋ねられました。私は元パートナーと、最初の頃よりも幅広い話が出来るようになっています。けれども、子ども達の親として一緒に暮らすために大切なことが語れていないのです。そんな自分を説明する事が出来ず「未定」と答えるのに精いっぱいでした。もしも将来、私と子ども達と子ども達の父親とで心を語り合えるようになったとき、私も再びその場所へ遊びに来ることができるのかもしれません。 夕食後、1番目の子どもと大学のパンフレットを見ました。私は「4人のうちの誰かと私の大学生活が一緒になるかもしれないよ」と話をしました。子ども達は4人とも大学へ行きたいと思っているようなので本当にそうなりそうな予感。既に私の中の青写真としてあるのです。 4番目の子どもが「これ縫って」と繕いものを持ってきました。私はそのとき別の用事をしていたので「時間に間にあったらね」と伝えさせてもらいました。そして間に合うように動きました。(どの子どもに対しても同じですが)5歳の時に離れたその子の中にプラスの思い出が増えるように意識して楽しんだ2週間です。そのように意識する事は私にとっても精神史を変えてチャイルドを癒やすことにつながっていると思ったからです。私は最後にもう一度そのきっかけに恵まれたことを嬉しく思いました。縫い上がったものは子どもが気付いた時に持っていくことが出来ればいいことと思い、部屋まで運ばずにリビングに置いておきました。 夜21時半。家を出る時間になりました。 1番目の子どもには「いろんなことしてね。楽しんでね」と、4番目の子どもには「遊んでくれてありがとう。いつも楽しんでね」と伝えました。子どもは母のすることを受け入れるしかありません。私はまだ子どもにさみしい思いをさせています。十分分かっていて、それでも帰るという事をするのは、その方が先に広がるプラスが大きいと感じるからです。それなのに残ることが出来たらどんなにいいかと何度も思い、バスに乗ってもまだ「帰らずに済んだら、一緒に暮らせたら…」と思いました。元パートナーの言葉が浮かびました。例えばもしも私が今から過去の家庭に戻るとすれば、一般的には私の人生も子ども達の人生もうまく納まったように見えると思います。その後、私を含めた家族の中の誰かに辛いことがあっても、離れていた時の事と元に戻った奇跡を思えば取るに足らない事になると思います。人々は「そのうち慣れるよ」と言うかもしれません。けれども、私にはそれがいい方法とは思えない。心を痛めて会社を休んで元気になった人が会社に戻ると再び疲れて動けなくなるのと同じだと思うのです。そして、私が過去の方法の中で生きるという事は子ども達にも過去と同じ事を要求することになるように感じます。 夜の新宿は連なる飲み屋さんの電気で昼間のように明るく外国から来ている観光客らしい人々がたくさん歩いていました。その中をスーツケースをゴロゴロ押して歩く。その私の心はまだ2週間の生活の余韻の中に居ましたが、けれど、興味深く思ったのは前回のように疲れているのとは違うということでした。 しばらく歩くうちに、まずは車内でゆっくり寝れるようにしようと自然に切り替わっていました。私は心から安心出来して自分を生きられる時、自分も子ども達も大切にすることが出来ます。
昨晩子どもの一人が「お父さんが定年になる頃には、私は孤立しておかなければ…」と言いました。そのことで元パートナーと私の3人で「独立」と「孤立」の話になりました。元パートナーは「孤立にはさみしいイメージがある。社会の認識がそうだ」と語り、私は「そうだよね。漢字には本来の意味があるのに人々が勘違いして捉えている部分があるよねぇ」と返事をしました。元パートナーは私に「二つの違いを説明してみて」と言い、私は思いつくまま語りました。 私の語った事は、「独立」とは家族や会社など今まで所属していた集団から離れて一人で動けるようになることで、「孤立」とは個・人として生きていけること、です。語ったことがどうかはわからないですし、語りの途中で(もっと掘り下げて語れるようになりたいなぁ)と思いましたが、このような空間を持てたことがいいと思いました。 ちなみに、私は新聞を読むのが好きなので滞在中は名古屋から東京へ配達先を変更しています。子どもの一人は新聞に興味を持っているので、私達はそれを材料にして語り合うこともあります。又、子どもの方は学校の授業で私の知らない事を吸収しているので、そちらを材料にして語り合う事もあります。「親子で社会を語り合うってこういうことなのだなぁ」と何度も思います。好奇心があるといつも成長出来ます。
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