カウントシープ
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2005年01月24日(月) 音潜

中学生の頃、音楽に逃避していた。
何も考えたくないときや、1人の空間が欲しい時、両耳にイヤホンを差し込んで好きな音楽をひたすら聴いたりした。これでウルサイ親ともキョウダイともオサラバ、このアルバム一枚分だけの逃避行。
多分、世界から逃避していた。何が嫌なのかも解らず、もやもやとした渦巻きを胸に抱えて転がっていた。みんなそんな頃だった。

今でも音楽に引き込まれる。引き込まれたい自分がいて、潜るような感じ。

世界を知覚するのに最も活躍するのは視覚のように思う。目で見て判断することこそ人間の得意とする情報処理だ。けれど世界を一時的に変化させる切り替えスイッチは、視覚よりも聴覚のほうが相応しいように思う−ボクにとっては。
物理的に、目の前にお気に入りの何かを繰り広げることは多少困難だ。晴れ渡った青空も花もお気に入りの絵だって直ぐには用意できないし(家族写真とかはその一種なのかな)、その点音は簡単に用意できる。音楽を携帯する機械が発達しているからだ。
目を閉じて好きな音楽を聴いている時、図らずも頭の中には何かしらのヴィジョンが浮かび、脳内のスクリーンに広がっていく。そうして聴覚と視覚の両方向からトリップしていくとき、少しだけ開放されたような感じがする。

人の作った音楽のいいところって曲が終わったら戻ってくるところで、終わらない音楽があったら大変。


2005年01月23日(日) 一対一

ボクは犬を3匹飼っている。猫もいるが犬は3匹だ。ボクが犬を飼ってから、まだ一匹も死んだことがないが、相方は子供の頃に飼い犬を失った経験がある。その犬が死んでから大人になるまで、次の犬を飼えないくらいに悲しんだらしい。

今いる犬が死んだらきっと悲しいだろう。それは他の2匹がいても悲しいだろうが、きっといなくなった犬を偲んで泣くとき、残った2匹を抱きしめたりして、犬がゼロよりは他の犬がいたほうが、悲しみは幾分和らぐような気がする。

では、人間は?
家族として人間が複数で集まって住んでいる場合もあるだろうが、ボクの文化圏では、伴侶としての愛する対象は1人に限定されている。
もし、特定の対象を選ぶことが無ければ、亡くした時の悲しみも、全てを失ったような感覚ではなくなるのではないだろうか。1人だけを愛した場合、二分の一の確率で残される側になるというのに、どうして1人だけを選び特別なものにしてしまうのだろう。

頭では解っている。
一対一の関係はおいておいて、失くすとき身を引き裂かれるような苦しみを味わうのは、それに値するくらい深く愛したからで、他者を深く愛することこそ生きている喜びであり、共に感じることこそ心を満たす行為なのだから、誰かを愛するということとそれを喪失する悲しみというものは常に一重だ。


2005年01月22日(土) 何を食べよう?

生きている者はみな、動くためのエネルギー補給を必要とする。ボクは人間で、およそ先人が試し食した物質−すなわち食物−を毎日摂取する。ボクが仕事をするのは、ボクが生きていくために必要な糧を得るためでもあり、仕事から帰ればまずは晩飯を作ることを考える。

一方、ボクの家には沢山の本がある。人形もいるし、犬も猫もいる。ステレオ、テレビ、カメラ・・・人間は広がりすぎて、生きることに直結しないものまで必要とする種族になったが、本来生き物にとって本質は生きながらえること、生きて自分を分かつこと−すなわち繁殖−を目的にしていたはずであり、食べることはあらゆる生きていくための手段の中でも、もっとも生に直結している。

食物は外から来る物である。人間の身体をも構成する分子を組み替えた代物、神の手によって生み出された有機物の集合体、それは人間のそれとも似通った分子の複合体、それを食物と呼んで外部から取り入れている。

1つの疑問は、免疫系が異物とみなせば直ちにアレルギー反応を起こし攻撃開始するのに対し、何故食物(と我々が呼ぶ物)はスルーすることができるのか。捕食する側が、本来の防壁−免疫力と呼べるような力を失いつつあれば、今まで侵襲なく取り入れていた異物に攻撃を受けうることもあるだろうが、それでは、全ての異物には多少の危険があり、その敷居は免疫力によって個人差があるのだろうか。

また、もう1つの疑問として、何故同属を食べてはいけないのか?
倫理的な観念はともかく、同じ分子の複合体なら、豚や牛の肉と人間の肉にどんな差が生み出されるのか?牛に牛の肉骨粉を食べさせたために狂牛病が起きたという説がある。人が人を食べる種族にも、同じように脳が海綿状に変化する現象が起きたという話を聞いたことがあるが、同種を食べると何故プリオンが発生するのだろうか。
同種を食べた結果脳にダメージを受けるという自戒的な現象を起こすのは、種の保存のための自然の法則なのかもしらないが、すでに自然の法則めいたものを破り続ける我々に、神の手はもう働かないのだろう。


ロビン