カウントシープ
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ある人から絵本をプレゼントされた。 それは、その人が物心ついた時からずっと、幼年期片時も手を離さなかった「お気に入り」の絵本の復刻版で、もちろんボクにくれたのは新品だった。その人は、子供の頃はあんなにいつも一緒にいたのに、大人になってからその本を読んでみたら何故好きだったのか解らなかったんです、と言いながらその本を手渡してくれた。
本を読んだ感想はいずれまたにしておいて。
普段本を薦めたりプレゼントするときには、(過去の自分もだけれど)現在の自分が良いと思ったものを選ぶように思うし、今まで貰ってきたものもたいていそうだ。そうして、読み終わった後に感想を言い合ったりして、共感したりして満足感を得たりする。本にしろなんにしろ、プレゼントというのは気に入ってもらえることを期待して贈られるものだろう。
だが、今回の場合、この本を良いと思ったのは子供時代の相手で、大人になった今現在にはどうして好きだったのか解らない良さなのだ。同じ大人になったボクが読んで良いと思ったとしても、現在の相手とは共有できない思いであり、仮につまらないと思ったとしても、お互いつまらない本を2人手に取ることが目的でこの本は贈られたわけじゃないと思う。
この本を読むべきは、子供時代のボクだろう−が、その時間は巻き戻らない。
相手にさえ解らない部分、それは無意識と言い換えてもいいと思うけれど、その部分を共感して欲しいと思う気持ちがそこにはあって、それは友達の域を少し超えた範囲なのかな、と思いながら−何処かで孤独だから、人は人を求めるのだと思ったりする。
最近仕事から帰ってくると眠ってばかり。
健康の為にご飯を食べなくてはいけないと思うから這ってでもご飯を作るけれど、それで力尽きて終わり。眠ってしまって起きるともう夜中になっていて、散歩はどうしたという犬達の視線が大変にイタイ。
人間やっぱり回復するには眠るに限るのかな。 気持ちがすっかり疲れてしまうと頭が痛くなったりぼーっとしてきて、もう脳がオーバーフロー状態。
学生の頃は毎日地下鉄を降りて直ぐの本屋に寄るのが日課だったけれど、今は週に1,2回本屋を覗く程度で、これは学生の頃からは考えられないくらいだ。 1つは今はネットがあるからで、家の中で日々何かしら情報が得られるということは便利ではある。ゴミとなって積み上げられていく束を見るのが嫌で、新聞も摂らないし、テレビのニュースも、スイッチを入れようと思うともう11時を回っていたりしてタイミングが合わないし、毎日世の中で何が起きているのかは殆どネットから得た情報のみで生活している。
もしネットが嘘ばかり流していたとしてもボクは気がつかないし、案外現実の情報なんて嘘が沢山でやっぱり気がつかないことばっかりなんだろうな、とも思ってみたりして、普段信じているものなど、実は何の根拠もないんだって知っているはずなのに忘れて過ごしている。
結局真実なんて多面的でどうにでもなっちゃうし、自分の中に確かなものを作り上げていくことのほうが今のボクにはしっくりくるけれど、自分が揺らぐと崩れ去るような危険もめいいっぱい持ち合わせているのだ。
ロビン
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