カウントシープ
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仕事が忙しいのと仕事の内容が濃かったのとで、疲れてフラフラになった。こういうときのフラフラは、足に力が入らなくなって座り込んでしまうような感じで、案の定夜になったらすごい頭痛がしてきた。
頭痛といっても痛いのは左目の奥で、多分左目の神経を含めた顔面神経の領域が痛いのだと思う。目の奥と頬が少し、唇の近くまでが痺れて、視力も一時的に低下してしまう。左目を手で覆いながらのたうち回る。普通の頭痛だったら効く鎮痛剤もこの痛みにはあまり効果なし。とにかく休むしかないな、と思いながら痛みに耐えた。
子供の頃から、精神的に嫌なことがあるとおなかが痛くなるタイプなんだけれど、どうもこの左目の(左しか痛くならない)痛みは、疲れた時に出てくるみたい。どう表現したらいいかわからないけれど、「歯にしみる」ような痛みで、これは多分神経を直接刺激した時の痛みなんだろうな。
左目から起こるこの痛みを、今は内側からくるメッセージだと思っている。ここが痛くなったらドクターストップで、自分の力量を超えたことをしようとしているんだ、と解釈しているのだが、理屈を超えたメッセージをも、ボクは左から受け取るようだ。
ボクは、同じようなものが2つ、どちらを選んでもいいような場面で二者択一する時、必ず左から選ぶようにしている。特に理由はないけれど、選ぶ時迷うのが嫌なので、左と決めているのだ。 必ず左だけ選んでいれば、あの時右を選んでおけば・・・という考えは浮かばない。左を選ぶことは最初から決まっているので、その結果自分が選んだものも、最初から自分のところにくる運命だったと、そういうことにしておけるのだ。
そもそもこの法則は食事の場面から発生した。同じ模様の皿に同じ内容のものが2つ並んでいる。作ったのは相方。さあどっち?という場面で、相方に選ばせると、相方は少なく見えるほうをとる。ボクに食べて欲しいから−という理由だ。 ボクが選ぶ時は、ボクが好きな食べ物はボクが多く見えるほうをとって、相方が好きな食べ物の時は相方に多く見えるほうを相方の席に置く。 でも、大抵はどちらも同じくらい好きだからそうすると相方がいつも少ないほうをとっていくことになってしまう。いつも「どちら?」といわれて「どちらでもいいよ」と答えると不満そうな顔をするので、考え出したのがこの左の法則。子供の頃、左足から歩き始めるというルールがあったので、それを応用したのだ。 待てよそれじゃあ左を多く盛り付けてしまえば相方の思惑通りじゃん、と思うが、よそうときそこまで優劣をつけているわけではない。もともと公平に見えるようによそっておいて、その上での選択なので、本当はどっちが多いかなんて判らないんだけれど、気持ちの問題なのだ。
そうしてできた左の法則は、施行してみると案外便利だったというわけ。癖って知らないうちにできる気がするけれど、これは作為的に作られた癖になるのかな。
昨日呟いていたマグノリア、映画のタイトルだと教えてもらった。どんな映画かはまだ調べていないが、DVDのジャケットは木蓮を上から見たショット。プレビューを見る限り、あまり『木蓮』に関係なさそうな雰囲気だ。木蓮の合言葉を調べてみたら「自然への愛 持続性 気高さ 壮麗」などなど。ちょっと検索しただけなのでその根底にある流れはわからないが、映画を見たらなるほどと思うのかしらん。
奥田民生が『マシマロ』という曲を作って、歌の最後に「マシマロは関係ない」っていうの、一発芸みたいなんだけれどちょっと笑っちゃう。別にマシマロって何だよ?って考え込んで寝れないほど気になるわけでもないけれど、そういわれると何だよ、、見たいな感じ。
謎って不思議なもので、あまり謎だらけにするともう謎が当たり前で解く気もうせるんだけれど、ちょっとは解るけれど、完全には読めない、みたいなのはどうしようもなく知りたくなったりする。エンターテイナー側は、そこらへんを上手くクスグルのが大切だよね、とか思ったり。
ロビン
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