カウントシープ
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2005年04月15日(金) 死期

『もうこの世界にはいない』

そういう対象がボクにはまだ居ない。死してまた再開したい相手がいない。父方母方両方の祖父母は、顔も殆ど思い出せないし、両親は幸いまだ生きている。ボクが選んだ動物達は誰もまだ死んでいないし、家で飼っていた小動物たちが死んだときは、涙を流すほど悲しいと感じなかった。

きっと家族(と感じる相手)が死んだとき泣くんじゃないかな、そう思うし思っていたいのだろう。

もう居ない相手を探して彷徨う心を知っている。死んでしまって何年も何十年も経っても、会えることを期待して生きている。対象が死んだことを受け取ったらもうその心は生きる目的を失ってしまう。それは死ぬ時期なのか。

あるいは次なる目的を探せるなら、それは幸いなことなのだろうか。人が生きている時間が長ければ長いほどいいなんて、誰にも測れないことだけれど、追い求めるものが手に入らないジレンマにほとほと疲れた頃に、人の死期が近づいてくる。そのタイミングを逃してしまったら、そこには狂気が残るだけかもしれない。


2005年04月14日(木) 月の裏側

人間は、嫌なことを見たくないくせに知りたがる。自分の闇の中に気がついてからずっと、見ないふりをしたり、わかったふりをしたり、コントロールしようとしたりしている。

いくらかは見えるし、いくらかはコントロールすることができるだろう、光に照らされれば、闇は面積を減らすだろうから。ただ、光源の背面に新しい影ができるだけだ。

結局絶対に手に入らないものを追い続けているのであって、そういう意味では人生は常に渇望の日々だけれど、追い求めているものが手に入らないと知ってちょっとほっとする気持ちになるのは、手に入れたら終わりだという確信があるからだろう。


2005年04月13日(水) 鍵の開かない日記帳

ボクは子供の頃に一冊だけ日記帳を自分で買ったことがある。その日記帳は鍵がついていて、買ってきたのはいいけれど、ボクはその日記をひらくことができなかった。

困ったボクは両親にそれを診てもらった。鍵は無事開いたけれど、それでその日記帳の存在が親にばれてしまった。

ボクはしょっちゅう失敗ばかりするドジな子供だった。それほど悪意はなかったけれど、“ついうっかり”沢山失敗した。夕方が過ぎて暗くなるころまでに窓を閉める言いつけを忘れたし、遊びに夢中になって決められた時間内に帰ってこれなかった。宿題を忘れたし、勉強も親の望むレベルには上手くできなかった。

そういうとき、その日記帳が活躍した。

「私は悪いコです」

沢山そう書いて許しを請うた。涙でしわができて見るのも嫌になった日記帳は、ベッドの下にしまいこんだけれど、ここぞというときにはいつもそれを持ちだされて書かされた。買った時からずっと鍵が開かないままだったらよかったのに、と思ったけれど、鍵を開けてもらったのも自分で、こんなつもりで日記帳を買ったわけじゃなかったけれど、今思い出すことは、もうそんなに辛くない。


ロビン