カウントシープ
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2005年05月15日(日) |
絵画考察3 一瞬の光景 |
目に見えるものを、ありのままに描くこと(厳密にはそのこと自体は不可能だ)。写真といえど、そこにあるものをそのまま写し取ることは不可能である。写真になると目の前の光景はよりコントラストをもって映し出され闇が深くなるのだ。 つまり、目の前の光景はその一瞬のみにあり、2度と同じものを見ることはできない。映像を使って再現してもそれはそれそのものではなく、同じ場所に立っている人間達も、その視力や立つ位置や注目する対象によって、光景は違って感じられていく。睡蓮を眺めたモネがその水に落ちていく光の様をどれだけの時間でも眺め続けたように、全ては変化して後に戻ることなどない―というのが、今未来へ向かう一方向の時間軸で生きている我々の世界だ。
フェルメールの「青いターバンの少女」という絵がある。異国風のターバンを揺らし振り向く少女の絵は、その青が美しい色だと賛美されている。だが、これを白人が見た時と、われわれ黄色人が見た時では色合いが違って見えると聞いたことがある。もちろん、青系の色に見えているには違いないだろうが、同じ人間でも違う風に見えるのならば、他の生き物にはもっと違う色に見えているかもしれない。
2005年05月14日(土) |
絵画考察 ナスカの地上絵 |
さて、人間の描いた絵というものについて考察してきたが、ここで閑話(いやそもそもすべてが閑話だが)を挿もうと思う。
小学生の頃には誰もが一度は夢中になるものが○○の七不思議という話題だ。それは学校の七不思議だったり、世界の七不思議だったり、七という数字ではなかったかもしれないがそうした不可思議現象、オカルトチックな話に子供達、とくに男子達はすっかり夢中になってしまう。 ボクもまたそうした子供の1人であり、バビロンの空中庭園、ピラミッド、イースター島のモアイ、ムー大陸、ストーンヘンジ、そういったものに思いを馳せ、いつか大人になったらあちこち行って見てみたいと思ったものだ。
そうした古代の遺物というのの魅力はなんといっても謎だろう。存在したのか否か?存在するものに関しては、誰がどうやって何の目的のために作られたのか?そういう謎なものに対する情熱、好奇心があるからこそ人間はまた未知を既知に変えようとするのだが、いくら解明しようとしても答えが見つからないからこそ7不思議の名を有しているそれらの遺跡のひとつの絵画、 ナスカの地上絵について取り上げよう。
宇宙人の描いた絵だとか、先史人の滑走路だとか色んな説が飛び出す謎の一品として名高いナスカの地上絵は、沢山の考古学者によってすでにかなり解明されている。この巨大な絵は星の位置を示しており、暦であったというのが現在の説らしい。当時のナスカ人の所有する土地の中で、最も暦を置くのに相応しい場所を選んで描かれたのだ。
暦を知るのにこのような巨大な絵が必要だったのかどうか解らないが、かつてアステカの人々は(※ナスカ文明はアステカ文明よりも昔)、冬の次に春が来るという保障を求めて生贄を太陽の神に捧げたというから、明日の次に何が来るか解らなかった時代に、この先に何が来るか予測したものを作ることは、未来を操作する大切なアイテムだったのだろう。
ナスカの地上絵は星々に対応していた。もしナスカの地上絵が星の位置を利用した巨大な暦だったならば、そこに描かれた鳥や蜘蛛や猿は、単なる茶目っ気ではなく、同時に空に浮かぶ星座に対応していたのかもしれない。空に散りばめられた星の光を繋いで絵に見立てるという行為は、我々はギリシャ神話のものを最もよく知っているが、世界各地に星座とそれにまつわる話はおそらくあるだろう。 形に捕らえにくいものをすでに知っているものに見立てることで認識しやすくするために星座は作られた。古代人が夜空をじっと眺めていたのは、ロマンチストであるだけでなく、生きていくために必要な情報を得ていた。星に導かれる、という概念はここからきたのだろう。
ナスカの地上絵について考えているうちにすっかり絵画の概念から外れてしまった。ボクは本当はナスカの地上絵は果たして宇宙人が描いたものだとしたら?という話をするつもりだったのに、上記ですでに否定されてしまった。
ボクが考えていたのは、絵を描くという行為は人間が自分の中の抽象概念を実体に顕そうとする行為であり、同じ人間同士だからこそ理解されるものだと考えていて、ナスカの地上絵が一応、ハチドリやらサルやら、不完全にしろ我々が普段絵に描きそうな題材で描かれていて、まさに視覚的情報を主体とする我々にはおあつらえ向きの表現方法であることだ。
もし、何より匂いによる情報を主体とする宇宙人がやってきたなら、宇宙人は匂いによる情報を残していっただろうし、こうもりのように超音波を頼りにする宇宙人なら音による情報だったかもしれない。もし、我々の目が進化しないで、ミミズのような生き物だったら、地上絵は永遠に発見されないかもしれないのだ。だから、絵を描いていったということは、宇宙人も視覚を重要視していて、なおかつ地球の生物も視覚を大切にしていると判断したからだ。
だとしたら、ナスカの地上絵を残していった宇宙人達は、彼らも絵を描くことになる。そのとき、宇宙人の描いた絵に、人間はどれだけシンパシィを感じるのだろうか?ということがいいたくてこの話題に及んだのだがいつものごとく回りくどくなってしまった。
2005年05月13日(金) |
絵画考察2 絵の向こう側 |
さて、絵画とは人が描いた物であるからには当然作者が存在するだろう。ある作品を好きになったとすれば、この絵を描いたのはどんな人物か?と思うのはワリと自然な流れに思われる。
絵をそれ単体のものとして心に留めておくこともまた魅力的に思えるし、敢えて作品そのものだけを味わいために作者のことなど関心を寄せないという部類の人もいるだろうが、(ボクもかつてはその部類にいたのだが)ここでは絵の背景の作者について考えることにする。
一枚の絵を見て、あるいは複数の同作者の絵に感銘を受けた時、その作者がどんなメッセージを込めて描いたのかはもちろんのこと、1人の人間としてどんな人生を送った人なのかまでも知りたくなるのは何故なのか。ひとりの人間が自分の魂を分けるようにして生み出した作品、その魂の欠片に触れたものが、欠片では飽き足らずその人間まで近づきたくなるという気持ちは何処から湧いてくるのだろう。(これは別に絵に限らない。作曲家を、歌い手を、演じている俳優の私生活をも人は知りたがる) 一方的にその作品によって心の線を弾かれた者が、もっとその作品を、作品の源である作者を知りたいと思うから?
少なくとも作品を作る側は作品を通して自分を晒している。自分を表現したとして、そこにはギャラリーが必ずいるのであり、それを受け止めて欲しいという願望を込めて、筆は持たれるのだ。知りたいものと知られたいもののニードは合わさっているのだから、そこにはある種の一体感のようなものが流れてくるようにさえ感じる。
見られたいからといって、全てを見て欲しいわけではない。全てを見られては人は狂ってしまうし生きていけない。見る側もそれを承知していなければならない。絵画の前に立つとき、作者と観客とが、それはひいては人が他者と一体感を味わうことができるかもしれない可能性が提示されるのだ。
ロビン
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