カウントシープ
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2005年05月18日(水) 絵画考察6 追求の果て

以前紀伊国屋で「胸」についての本を見かけたことがある。ボクは同じ棚にあったフーコーの犯罪心理学についての書物を購入したのだが、若干「胸」についての本にも興味があった。

胸といってもこの場合は間違いなく女性の胸のことだ。男性の胸ばかり集めた写真集がこの世にあるかどうかしらないが―あまり想像はできない。ロリを愛する人がまな板のようなまったいらな胸を好んだとしても、それはあくまでまだ発育していない身体、女になるまえの少女としての身体であろうし、止められない時間の中で、刹那的に一瞬を生きていく少女達の、その存在を愛するものにとっては、少女はいつか少女でなくなることを前提とした切ない存在でなくてはならない。

さて、サイズの話になるが、どうしてこの世に驚くほど大きな胸の絵がありふれているのか?ボールのように大きく突き出た胸は明らかに不自然だが、大きな瞳もまた不自然であるのだから、これはもう理想を追求した結果であるのだろう。
長い手足、まんまるの大きな瞳、長い睫、折れそうな高い位置のウエスト、これらは皆、東洋人のコンプレックスを満たすように導かれた願望の姿であるのか、それはあたらずとも遠からずであろう。
そして大きな胸は、主に男性が持つ理想を反映しているのだろう(巨乳フェチの女性も少しはいるだろうか?)男同士のゲイが、女の胸を嫌うとき、その柔らかさ、ふにゃふにゃとした感触が嫌だというが、胸とは柔らかいものだ。
先日出産を終えた妹が、赤ちゃんに母乳をあげる様子を見ていたら、それはもはやセクシャルな意味合いのパーツではない大きく張った乳房であり、その大きさや張り出た様子は見慣れなく奇妙に感じた。同時に、これがあの巨大な胸の正体なのか、大きな胸を求める根源はこのときの満たされた記憶にあるのか?と一瞬考えたが、
柔らかくて、幼い頃には空腹を満たしてくれた母性の象徴を求めているならば、大きな胸に傾倒する女性がもっといてもいいだろうが、そうならないのは何故だろう?
自分に無いものだからこそ、男性サイドから追求されていくのだろうか?フロイトは女性のペニスに対する願望について深く考察していたが、男性であるフロイトは、自分に欠けているものについての考察にはあまり及ばなかった。しかしこの考えもまた当てはまらないように思う。

というところで長くなったので、続きはそのうちに・・・ね。いちおう絵画考察シリーズは終了。


2005年05月17日(火) 絵画考察5 奇妙な絵

さて、何を描いて何を描かないか?さらには何を強調して何を排斥していくか、という考えから辿りつく先は、何処へ向かっていくのであろうか?

今日我が国で発展しているアニメーションや漫画は、まさしく強調と排斥の産物である。スタンダードなキャラデザでは、少女や少年の瞳は愛らしく大きく描かれ、手足はスラリと長い。鼻は簡略化され、時には描かれないこともある。口もしかり、だ。以前はアニメや漫画の中にのみ表現されてきたこの絵柄も、昨今ではいたるところで見かけるようになった。
子供の頃、アニメーションを見ていた世代が大人になってきたことがその背景にあるだろうが、それにしてもこの浸透ぶりには、アニメや漫画のサイドにいる人間にとっても戸惑いを隠せない。

子供の頃、そろばん塾の先生がボクの描いた絵を見て、「そんなに瞳が大きいのは不自然でおかしい」と言った。ボクだって眼が相対的に大きいことぐらいちゃんと解っていたけれど、大きく描いたほうが可愛いってことだってちゃんと解っていた。そのときは「可愛いほうがいいのに、先生は変なことをいうなぁ」と思ったけれど、先生にはディフォルメされた世界はきっと奇妙に映ったのだ。

今瞳の大きさを描いていながら急に思い出したけれど、同じように大きいければいいのか?と密かに疑問に思っているパーツがある。それは胸・・・ということで続きは明日の日記へ。


2005年05月16日(月) 絵画考察4 アンバランス

かのアングルが少女や女性を描いた時、そのデッサンの悪さに人々は悪態をついた。グランド・オダリスクに対する評価は散々だったが、現在までこの絵は名画として堂々と飾られている。アングルが求めたのは究極の美、一点の染みもない美しい肌、流れるような曲線であり、魂を内在させる隙のないような美しいものだった。

当時温かみにかけるだとか人間味がないといわれたが、必ずしも絵に、人間臭さがにじみ出ていなくてならないという法則はない。モナ・リザだって、あの何処までも不気味で不可解な雰囲気が何百年も人を惹き付けているけれど、モナ・リザが人間臭いかと言われたらNO!だろう。
アングルの絵にはそうした不気味さやミステリアスも存在しない。求めたのは美意識という1点張りで、いっそ清清しいくらいのポリシーを感じる。

さて、アングルのように、他を排斥してまで何かを貫いた世界、というのは実はとても魅力的である。バランスがいいことは心地よいが、多少の退屈を感じるものであり、アンバランスにはどこか不愉快さを感じながらも、その歪みに魅力を感じてしまうものだ。

多重人格者を扱った小説を読むとき、その極端な人格に憧れめいた気持ちさえ抱くだろう。子供の人格、他性の人格、真面目な人格、強迫的な人格、叫び続ける人格、暴れる人格、怖がる人格、賢い人格。ジキルとハイドのように2人いるなら、その悪人ぶりに惹き付けられるし、清楚な女性の中の悪女も魅力的といえるだろう。多重人格者の治療においては、全体を統合することであり、そうすることで神秘的な目の前の患者は、自分と同じ平凡な、1人のまとまった人間に戻っていくのだが、それにどこか寂しさを覚えてしまうのは何故か?

ある絵に色々なヒントが散りばめられていて、絵を読み解くことも魅力的だが、排斥され描かれなかったものを見つけることによって読み取れるメッセージもある。

どこかを特出して強調し、他を排斥することで追及されるものは何なのか、
そうまでして強調された表現の先にあるものは?ということで次の日記へ。


ロビン