カウントシープ
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2005年06月26日(日) |
お人形遊び ユノア・クルス7 |
さて、一体人形とは何なのだろう。 単純に、所有者の心の対象、というわけではなさそうだ。心の対象ならば、人形はたったの一体でいいはずで、子供の頃にずっと離さず持ち歩いていた何か(ライナスの毛布を含む)は、もう1人の自分だった。
大人は人形を持ち歩かない。いや、持ち歩いている人もいるだろうけれど、大抵は自分の部屋の中に、大切に飾ったりしまったりしてある。渋澤龍彦氏の部屋にあった少女人形のように、常に空気を供にする対象もいれば、着飾ることを目的にした対象もあり、中には自分の好きなものに似せて飾るものもいるかもしれない。
いずれにしても、人形はもはや心の一部の対象になっており、「私達の全て」ではなくなっている。1人の人間の人格を多重構造に捕らえるならばその一部分が映し出されているといえばそうだろうし、そういう対象として、人形は限りなく空の媒体であり、いつでも魂を内包し、また放出して人形に戻りえる。
姿があり魂がある一方で、魂をなくしても居られる存在。
それに安心の全てを求めるような世界があるならば、それは人間社会、ひいては他者を相手にしない世界に落ち込んでいくことになるのだろうか。自分だけを愛して満たされる、ひとつの意志だけが存在する世界。
それが保ち続けられるならばそれもまたひとつなのかもしれない。大抵のものは、心に触れたくなってまた生きている対象を求め始めるだろう。人形と人間を行き来するなかで安定を保つような精神を、一度はみんな通り抜けてきたのだ。 成長が中途半端に止まったままで生きているならば、この先にまた時間は流れるのであって、その先に不変の姿で待っていてくれる人形が、やはり存在するのだ。
2005年06月25日(土) |
お人形遊び ユノア・クルス6 |
子供の頃に買うような人形、例えばリカちゃんやジェニーは人前に出られるような状態、つまり衣服を身につけた状態で売られている。最近はレオタードだけのものもあるようだが、昔はちゃんと服をきていて、どの服を着ているかで人形を選んでいたように思い出される。
さて、ユノア達(未塗装版)はバラバラのパーツでやってくる。当然顔も未塗装で、目玉も入っていない。その状態では流石に目の前の対象が「人」らしきものとは認識しにくいものだ。 組み上げ、塗装をしていっても、顔がないとやはりモノというニュアンスに満ちているのに、顔を取り付け、とりわけ目玉を入れた状態になると、とたんに命がそこに吹き込まれるように思える。「目」とは実に象徴的なパーツなのだ、と改めて思う瞬間だ。
荒木氏の茶目っ気で、ユノアはバーを押すことによって目玉が動く仕組みになっている。コメカミを押すことで、視線が此方に移動してくるのだが、人形がこんな表情を見せてくれたことは今までに無く気分は高揚した。と同時に、されるがままのはずの人形に、何だか欺かれるような錯覚を覚えたのだ。
2005年06月24日(金) |
お人形遊び ユノア・クルス5 |
絵画考察の回でも述べたが、対象を、できるだけ近づけて表現することと、ディフォルメしていくことの差はなんだろう。 殆ど必ず人形は美しく作られ、ストイックさを感じさせる存在であり、無駄なものをそぎ落とされた、もしくは存在しないものを付け加えられたとしても、それは理想のカタチのひとつなのだ。
ユノア・クルスは、見ての通り大変アンバランスな美しい少女達だ。女性的な柔らかいラインをもち、少年のようにスレンダーな手足を持ち、頭身は高く、手足は大きい。表情も、あどけない子供のようであり、大人びたようにもみえる。ユニセックスで年齢不詳、掴みどころのないような姿をしているのだ。
これを不気味ととるか、美しいととるか、それは見たもの感じ方に一存するだろう。
ボクは、文章でも絵でも人形でも、もっというなら曲だって、その作り手の生写しみたいなものだと思っている。荒木元太郎氏は、だから、ある部分ではユノア的なのだ、と思う。 ユノア的であるということは、一歩間違えば恐ろしい、危うい存在だ。そうあり続けることは、何者にも囚われない、捕らえてもらえない、認識されがたい、正体不明の、そしてやっと触れることのできた僅かな実感に満足を得て、また心を生めるような何かを捜し求めていくような、終わりの無い状態を意味する。
ロビン
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