カウントシープ
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ボク達には絶対音感はない。ヴァイオリンの弦は全部で4本、低いほうからG線・D線・A線・E線と並んでいて、指で押さえつけずに引く開放された音は、それぞれソ・レ・ラ・ミだ。これを、何の力も借りないで正確に音を合わすことは困難なので、チューナーを使う。
でやっと開放弦の音が合っても、指で押さえて出す音は、当たり前だけれど抑え具合によってずれてくる。そんな時、先生は「ピアノさんに聞いてみましょう」と言う(おそらく先生は普段はもっと子供をメインに教えているのじゃないかな?)
ピアノさんなんてお家にいたっけ?と我が家に遊びに来てくれた人はみんな思うだろう。もちろん居ない、いや、居なかった。つい最近、ピアノを購入したのだ・・・というわけで、やってきたのはこのロールピアノ。相方の愛読書日経トレンディにも紹介されていたこれが、例によってビレッジ・ヴァンガードに並んでいたので、思わず購入してしまった。
いかにもいんちき臭いピアノだが、これがなかなか優秀で、少なくともヴァイオリンの音合わせには不足しない。音色も色々変えられるという優れものなのだ。 ピアノを弾けないボクたちの家で、不完全燃焼なこのピアノさんを、誰か弾きにきてやってください。
手塚治虫氏の「火の鳥」の中の、宇宙が舞台の話がとても印象に残っている。その中に出てくる鳥人、というのか、鳥が擬人化したような種族が出てくるのだが、その足が鶏のような鳥の足で妙に生々しかった。
今思うと、その鳥人はダチョウに似ていると思う。見比べていないのでわからないけれど、決め手はその長い足だ。
長い足を持つ鳥は、ダチョウのほかにもいる。ボクの好きなフラミンゴや、ツルなど、皆折れそうな長い足の持ち主だ。けれど、細すぎてあんまり真近で観察することができなくて、遠めにはどちらかというとまるでストローみたいなツルツルの素材でできているような感じがする。
それに比べて、ダチョウの足は、鳥の足の模様がはっきりと見て取れて妙に生々しい。確か、火の鳥の物語の中の主人公も、その足が気持ち悪いといいながら彼らを虐殺していたように思うのだが、どうして鳥の足が気持ち悪いのだろう、と考えると、少なくともダチョウの足のシルエットは、まるで人間の足を彷彿とさせるからじゃないだろうか。そう思うのは、家に居る犬達―ボルゾイの足を見ているからだ。彼らの足は長くて、足を組んでいるところはまるで人間みたいだ。よくボルゾイを気持ち悪いとか犬じゃないよあれはという人がいるが、ボクもそう思う。気持ち悪くはないけれど、犬って感じはしないもの。
ところで、ダチョウについて調べていたら、なんとダチョウの平均寿命は70〜80年らしい。人間と同じくらい生きるなんて、うっかりダチョウを飼ったりしたら、残していくとき大変だ。遺書にダチョウは誰々に譲ります、とか書いても、2メートルを越す巨体を貰っても、ちょっと困るよね。
物事はいつだって、突き詰めていけばキリがない。 ヴァイオリンを弾いているととてもそう思うのだけれど、一体どうしたら先生に少しでも近づけるのかしら?とため息が出てしまう。
弓を持つ手も、腕の角度も、弦を押さえる指の形も手首も、あちこち直して身につけなくてはならないし、もっと問題なのは音を聞き分ける耳で、今自分の引いている音がきちんとレの音そのものだ、と確信を持てるようになるには相当トレーニングが必要な気がする・・・
と泣き言を言っても始まらない。先生は3歳からヴァイオリンとお友達なのだ。「沢山(ヴァイオリンと)喧嘩したほうが仲良くなれるよ」と先生は言うけれど、きっとその通りなのだ。
耳はともかく、姿勢なら修正することは可能だ。何のことはない、姿見の前に立って引いていれば、自分の悪いところが明白になって、否が応でも直していくからだ。今のボクの姿ときたら、注意点が目白押し・・・
例えば ・弓が駒と平行になっていない どころか、かなり角度が付いている ・竿を持つ手首が曲がっている ・弓幅が少ない
この上に、音程の狂いが被さってくる。弾き始めた頃は音程が多少ずれていても楽しかったのに、今でははずした音が耳障りでしかたない。それだけ音を聞き分ける耳が成長したと思えば嬉しいけれど、とにかく今は早く上手になりたい気持ちで一杯なのだ。
ついでにいうと、先生に誉めてもらえるととても嬉しくて、最近じゃ誉めてもらう機会なんてなかったな、なんて思ってみたり。失敗したり正されたりする代わりに、誉められる状況に辿りつくのだから、苦労しないと誉められないもの。好きなことを適当にやってる自画自賛の世界じゃ味わえない。
子供の頃は色んな課題があって困難だったけれど、案外やりがいある時間だったのかもしれない。これって、大人になって忘れることのひとつかもしれないね。
ロビン
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