カウントシープ
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2005年07月29日(金) お人形遊び ユノア・クルス8

またもや人形話。




ユノアを組み上げては見たものの、ユノアサイズの服や靴が無い。MSDの服なら着れるときいて2着程は購入してみたものの、胸周りがブカブカになってしまう。ユノアの服を作っている個人サイトさんをめぐってみても、軒並みSOLDOUTで手に入らない。

手近にある型紙も、MSDのものが多くて、ユノアサイズのものはなかなか無いか、裁縫経験の浅いボクには解読が少々難解なものが多くて、自作するのも気合が要りそう。そのうち時間を見つけて製作しようと思う。作るのは好きだし、デザインするのも好きだし、あとは時間を捻出するだけだ。

服が合わないのは、ユノアが既存の球体関節人形のボディラインを逸脱しているからなのだが、確かにそのスタイルは類まれに美しい。スラリと細い腕や脚に、大き目の手足、折れそうに細いウエスト…ボディラインがこれほど美しく異様な、滑らかなる人形を、ボクは今までに見たことがない。


2005年07月28日(木) 山小屋

山登りをする人が話してくれた話。

山に登るとき、それは綿密に計画を立てたことを実行することである。適当にぶらぶらと歩いていいほど山は易しくない。一歩間違えば返ってこれなくなるような危険を背中にしょって、クライマー達は歩いているのだ。

山を、目的の地点までひたすら歩いていき、そして目的地に着くと、そこで初めて緊張の荷を降ろす。趣味で登る山登りならば、ここでは目的地は山小屋だ。山小屋には、別のパーティもいる。どのルートを通ってきたか、もうすでに山を降りてきた人ならば、この先の様子はどうか?同じ山を登ってきたものたちは、他人ではない。

山小屋に辿り着いて、次の出発までに時間があれば、その辺りを散策できる。それは、順調に辿り着いたときの楽しみであり、鳥や小動物を探して歩いたり、植物を見たりする。

天候に邪魔されて先に進めなくても致し方ない。ここは山であり、今自分達は大きな自然の中にいて、その大きな力を前に、いかに人間は無力であり、抗うような相手ではないと、身をもって知っている連中ばかりだ。

今までにも山の話をちょくちょく聞いていたけれど、ボクのイメージは、美しい山の景色に誘われるように歩く、もっと無防備な世界だった。しかし、それでは魂が還ってこれない。山に登る時には、意識をしっかりと保っていかねばならないのだと知った。

この話をするとき、いつも苦しそうなその人に僅かな間笑顔が戻ってくる。その人は、「山小屋に行きたい」と言う。もちろん、人生という山の「山小屋」だ。山小屋とは何か、よく解らないボクは、その人の瞳の先にある山小屋を想像するしかないけれど、

きちんと辿り着けるようにルートを歩き、そしてそこで疲れを取り戻し、また歩いていけるならば、人生も安心できるものになるだろうな、と思い、実際の人生は時には安全ではなく、山小屋にあたる場所も見つけられないかもしれない、人生もまた山登り的なのかもしれない、と思った。


2005年07月27日(水) レンガの家は壊れない?

先日会っていた3歳の子供は、壊れるのをとても嫌がった。

一緒にブロックで遊んでいても、さっき作ったものが壊れると大騒ぎ。また作ろうね、と直しても、また壊れると騒ぐ、の繰り返し。お陰で5回くらいレゴで出来たお家のドアの修理(乗せるだけ)をした。

ブロックなら壊れても組み上げれば元に戻るのだけれど、こうやって元に戻るって解っているから、ボク達大人は安心していて、また直せばいいと暢気にしていられる。
ボクの手を借りて出来たブロックの家は、ボクの力に依存しているから、この3歳の子供からしたら、一人では守りきれない家なのだ。

小さな子供の頃はもっと無力で、壊れてしまった色々なものはもう戻ってこなかったし、一度使ってしまったらもう元に戻らないものも沢山あった。お気に入りの消しゴム、ノート、花火、金色と銀色の折り紙…まだお金を持っていない子供達は、また買いなおせばいいという知恵が付くまでは、それを失う覚悟で、お気に入りに手をつけたり、人に譲ったりしていたのだ。


それがなくてはならないもの、掛け替えの無いもの、そういったものは、生きていくうえで大切だ。けれど、掛け替えの無いものがあるからこそ、失う悲しみ苦しみ寂しさもまたひとしおで、どちらかひとつなんてことはない。それが命になったりすると、もうこの世に唯ひとつの魂なのだから、人を愛するということは、相当の覚悟が要るものだ。


ロビン