カウントシープ
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ずっと絵を描いていないが、球体間接人形のフェイスにペイントしていたりして、絵に近いことはしている。別に絵が嫌いになったわけじゃない。いつだって、会議中だって絵は落書きしているし、頭の中ではいろいろ構図を考えているし、上手い絵に出合うと簡単と尊敬と嫉妬もする。だけれど、今はまだ描けない。
描けない理由は・・・単純にほかのこと(ヴァイオリンや人形)に忙しいからと言い訳もできるけれど、今は描こうと思えないからだろうか。自分の限界などとっくにわかっているつもりだし、限界に左右されないで自分の書きたい絵を描いたらいいということも知っているつもりだ。 でもでもでもでも、描くより先に人形に手が伸びてしまうのは・・・
自在するものが欲しいのか?手に触れる対象が欲しいのか?
相方が癌になって、一人ぼっちになるかもしれないと思ったころから、ボクはどこか弱っているように思う。ゲイのボク達の関係など、世間的にはただの他人であり、病気を理由にしてボクから相方を奪っていくように思えた。「今はあなたに預けておく」という向こうのママの言葉は宣戦布告にも思えた。ボク達を引き離さないで欲しいと思うのに、ボク達をつなぐものは、世間的にはただの友情、なのだ。紙切れ一枚といえど、結婚の証明書もなく、残してあげられる相続物もない。
ボクは遺言を作ってあって、ボクが今までに稼いだお金は全部、相方にいくようにしてあるけれど、それだってたいしたお金じゃない。逆に相方が先に死んだって、遺体はボクから引き剥がされて沖縄に持ちされれてしまう。ずっと一緒にいられないのだと思うと、今、目に見えて触っていられる間に確かなものを沢山作っておきたいと思うのだけれど、 確かなものを得ようとして、得られるものなどまたひとつもないのだ。
夕方の窓の外の景色がとても美しい季節になった。 澄み切った青空に日没が訪れ、端から鮮やかな茜色に染まり、やがて紫色がさして夜の闇を導いてくる。その怖いくらいに鮮やかなオレンジ色や、雲の切れ目や、もう日が落ちるときの寂しいような気分が入り混じって、何度も窓にとらわれながら仕事をする。
ボクの職場は半地下か9階の二箇所なのだが、半地下には暗い帳が、9回には去っていくオレンジ色が、どちらももう戻りえない今日への別離を感じさせる。それは寂しいと同時に今日一日を乗り切った安堵でもある。
日に日に日没が早くなるこの季節はとても寂しいし、毎日冷たくなっていく空気や、黄色くなっていく街路樹、そういったすべてのものが、どうにも寂しいと感じていた例年にくらべて、今年はなんだかいつもと違う。
長い(相方の)治療という冬のような時間が終わったからなのか、それとも、別の要素なのか?ボクは最近は寂しさよりは何か生き生きとしたものを求め、それを感じようと行動し、多少の手ごたえも得ているように思う。 思うに、病気になってもたらされたもののひとつに、今の、少ない自分のン赤でできることを、指先の届くところから少しずつはじめる、ということがあるのじゃないかしら? 思うようにできなくたって、動き出さなかったら、そこから少しも動けないのだから。
以前から好きだったけれど、最近めちゃくちゃ好きになったのがTWIGGY。 大きな瞳も長い睫も細い手足もファッションもみんな好きで堪らないけれど、1番魅力的に感じるのは口元なのかな。 きゅっと引き締めた口元は、かえって彼女の愛らしさを表現していて堪らなく好き。
今日は職場に行くときカバンの中にTWIGGYの本を忍ばせていった(ボクは読まなくたって何かしらいつも本を忍ばせている)。そうしたら、朝一番に会った老夫婦が、小枝チョコレートを差し入れにくれた。
小枝(TWIGGY=小枝)繋がりだなーと妙に感動して、改めて手元の本をめくってみたら、小枝チョコレートは、1967年のTWIGGY来日にちなんで誕生したチョコだと出てきて、まるでその老夫婦がボクの手元にこの本があることを見透かしているみたいだと感じた。
その老夫婦から何かを貰ったのは初めてだし、今日はまだヴァレンタイン・デーじゃない。後で考えれば考えるほど不思議な話。
ロビン
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