カウントシープ
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さる1月4日の未明、ボク達はしぶんぎ流星群を見ようと空を見上げていた。だが夜の街は明るく、加えてボクの居住区には薄く雲が掛かってしまって、空を広く見ることはできなかった。
年が明けてから毎晩夜、同じくらいの時間に散歩に出かけていたのだが、すると必ず、出かけた頃には空は晴れていて、家路につく頃には薄い雲が出ていたので、この夜もそうなるかな、と思ったら案の定だった。
観測時間が夜中の2時から3時と、かなり遅めだったけれど、この時間にもっとどこか小高い丘にでも出かけたら、星が流れるのが見えたのかもしれない。
ボクは今までに流れ星を1,2個は見たことがあるけれど、キラキラッと流れて、すぐに見えなくなるほんのわずかの瞬きだった。だから、誰かが隣にいても共有することができない、その瞬間の幻のような喜びなのだ。それが、流星群ならば見た星は別々でも、一緒にその喜びが見られると思うと、また来年に期待しようと思う。
相方は子供みたいな玩具が好きなのだけれど、先日は家庭用プラネタリウムを買ってきた。それを天井に映したら、沢山の星がキラキラとまたたいて、ちゃんと流れ星が流れて消えた。
最近「リトル・ダンサー」というイギリス映画を見た。これはもう数年前、発売当初から所有していて、見ていなかったCD(ボクはそんなのを沢山持っている)のひとつで、正月だし、何か新しい映画でも見よう、ということになり、ようやく手をつけたというわけだ。
映画の中で、ビリー少年が踊るのだけれど、その踊りがとても自由で、楽しそうだったり苦しそうだったり、怒っていたり、いらいらしていたりと、踊りの中にさまざまな感情が表現されている。踊りってこんなに心を表すものなんだ、と改めて実感した。
ボクは踊ったことはないし、多分あまり得意じゃないと思うけれど、あんなふうに踊れたらきっと気持ちいいだろうし、それに変わるものは、これから先は音楽になっていくのだと思う。
気持ちを乗せて、体で表現するということにかけて、楽器を演奏することは非常に長けていると思う。奏でた蕎麦から音が流れ、直に体験できるということは、素晴らしい。今までボクの中でこうした手段は絵でしかなかったけれど、絵はもっと地道な作業だ。
もちろん絵には絵のよさがある。相方の病気が発覚したのが、ちょうど一年前の水曜日で、ボクが絵を描かなくなってそろそろ一年になろうとしている。ヴァイオリンを始めたのが5月の頭で、今は絵よりもヴァイオリンに時間を割いてしまっていて、そのことがとても気がかりなのだけれど、あまり沢山のことを一度にはできないと思って、今は音楽に注いでいる。
絵を描かないのにこうしてサイトを残しているのも良くないように思うけれど、いつでも絵は描きたいと思っていて、今は冒頭にふった、バレエダンサーを描いてみたい。筋肉や、動きや、指先の緊張感や、そういったものを描いてみたいと思う、人の体は美しいのだから。
ボクは大変落ち着きない性質を持っていて、例えばエレベータの前でじっと待っているよりは、自分の足で階段を登ったり降りたりするほうが気がすむし、会議中に話をちゃんと聞いていても、指先は何かの活動を求めて、落書きをしていたり、手慰みに紙を折ってみたりしている。
これは子供の頃からまったく変わらないし、おそらくはもっと子供時代の方が酷かったのだろうけれど、大人になってもこの多動気味は少々目立つだろうな、と思う。 卒業式とか、二時間を椅子に座り続けることが大変に苦痛で、ただ、途中で歌ったりするのが唯一の救いだったくらいだ。ボクからすれば、じっとおとなしく座っていることのほうが異常な気がするけれど、みんなそんな忍耐をどこで身につけたのだろう?
あまりに落ち着きがないからか、単に信仰心が篤い人だったのか、遊びに行った友達の家のおばあさんに、写経をさせられたことがある。ボクん家はキキリシタンです、と習った単語を披露しても、こういうおばあさんには敵わないものだし、子供らしくごほうびのお菓子に吊られて(何たること!)せっせと正座をして写経した。 このときも、左から右にやるのは退屈だからと、最初の一行を書いたら最後の一行を書いて、次は3つ飛びで・・・と虫食い写経をやってはおばあさんをビックリさせていたのだけれど、今もその頃と大差ない。
ロビン
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