カウントシープ
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生きていたものが死して、冷たく硬くなってしまうと、もう其処に魂はないように思える。死んだものは到底生きているようには見えないし、其処に於いておけばさらに死の匂いは強くなってくるからだ。
死んだときに漂う匂い、あれは一度嗅いだら忘れられない。体内からそういうガスでも発生するのか、みな一様に同じような匂いがしてきて、その匂いがするものが倒れていたら、それはもう死へ旅立っていくものだろう。
死者になりきってしまった骸など、もう同質のものとして触れることなどできないだろう。それが身内や愛するものならばそこにまた特別な感情が流れるだろうが、もしそれが他者であったとしても、畏怖と先に死んでいくものへの哀れみのような感覚と、どうか安らかにと願うだろう。
この骸から抜け出た魂がまだこの側にいて、死体とともにその辺りにいるのだろうと思うと、そして無念のために成仏できないかも知れないと思うと、思わず背筋もぞっとするのだけれど、そうして目の前に横たわる死んだばかりの人を前に、冷たい手を、光を移さなくなった瞳を、ひとつひとつのかつて生きていたものを前に、冒涜してはならないという思いは強く感じた。
だから、人を食べるつもりならば、殺してすぐにばらさなくてはならないと思う。まだ柔らかいうちに血抜きをして肉片にしてしまわなければ、それは冷たく硬いものと成り果ててしまうのだから(我々は普段そうやって肉を食べている)。
愛するものを食べて永続的に取り込もうという習慣がもしあるとするならば、愛するものを切り刻まなくてはならない。その覚悟をもってしても食らうならば、そこには宗教的な意味合いが深く潜んでいるのだろう。宗教と関係ない倒錯的な行為としても行われるかもしれないが、そうして取り入れたと感じ続けることは果たしてできるだろうか?
ヒトはヒトを食べてはいけないのか?
という問いには誰も答えられないだろう。 ヒトと知らずに食べてしまえば罪にならないのか、其処に餓死するしかない運命が提示されている場合なら、共食いも正当化されるのだろうか?
倫理的な問題はともかくとして、ここで話題として取り上げたいのは狂牛病のことである。 ご存知狂牛病はプリオンとよばれる蛋白の一種が原因とされている。蛋白で構成されるこの物質は本来無生物だが、これが体内に入り込み、脊髄に蓄積されると、正常な蛋白が異常な蛋白に作り変えられてしまう。そうして中枢神経系は犯され、脳がスポンジ状に変化して死に至るのだ。
肉骨粉とは、牛や豚をばらしたあとに残る骨や脳や脊髄などを砕いて細かくしたもので、飼料やペットフードとして与えていた。牛の餌に、牛の一部を砕いたものを食べさせたという点で、知らずのうちに牛は共食いをさせられた。 結果発生したのが異常プリオンであり、狂牛病騒動が広がったわけだが、ここで問題となるのは、なぜ、牛に牛を食べさせたときこのプリオンが発生したのか、ということだ。
興味深い報告として、ヒトがヒトを食べる風習を持つ土地(ニューギニアのクールーと呼ばれる人々)に、この狂牛病にきわめてよく似た症状を呈する病気が存在したという。もしそれが本当なら、異常プリオンは同種を食らうときに発生することになる。
同種を食べてはならぬと、まるで神が知らしめるかのような流れだが、このような行為は昆虫類ではもっと頻繁に起こっている。とりあえず医学的な観点からは、ヒトはヒトを食べてはならないといえるだろう。
2006年01月23日(月) |
それでも世界は存在する |
時々独り言を言う。大抵はいじけているときや、ナルシスティックに一人ぼっちごっこをしているときで(愚かにもそのときは真剣そのもの!)、そういうときに呟く言葉は昔から変わっていない。
『世界が壊れちゃった』
ボクはちっとも進歩していなぁと、これを書きながらがっかりする。この次の段階では『心も死んじゃった』だから、この台詞たちの文脈は『世界が壊れたから心も死んだ』となる。
世界が壊れてしまえばもう生きていられないから、心も死ぬだろう。 逆に、ひとつの心が死んだからといって世界は壊れないで明日も存続するだろう。
ボクの信じているものが、幻だったと感じたときに世界は壊れ、繋がりを失った心は死ぬということなのだが、この背景には、自分の信じる世界を自分好みに保っておきたいというエゴが存在すると見て良いだろう。 自分の好みの世界で、自分に浸って生きるそれは一人ぼっちの世界で、結局他者との関わりを(一時とはいえ)信じられずに、鏡に映った自分だけを見て悦に浸っているだけだ。
一人ぼっちだと信じるほうが楽な世界はもう消え去った。
ロビン
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