カウントシープ
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2006年01月31日(火)

飛行機の模型が好きだけれど、ひとつも所有したことはない。船も大好きだけれど、やはり翼があるものがいい。

昔の二枚羽の飛行機も好きだし、名前は知らないがレトロなものが好きだ。本当はそうした飛行機に乗る者の話を書いてみたいけれど、ちょっと想像が付かない。

以前東急ハンズで、古くなった飛行機を解体する過程そのものを展示し、ばらしたものを売るという企画があった。其処には古びた部品が並んで高値で売られていたが、やはりハイライトアイテムはプロペラと操縦席ではなかろうか?

しかし、飛行機といえば翼であって、プロペラだけで飛ぶのはヘリコプターだ。まさか翼を部屋に持ち帰るわけにはいかないし、機体から切り離された翼など、もはや翼とはいえないのかもしれない。
鳥の翼だって、鳥の背に負われているからこそ美しいのであって、切り離された鳥の翼など屍骸の一部でしかないだろう。


2006年01月30日(月) 相補的であることと平等の矛盾

男女平等に扱うべきか、という件に関しては、様々な観点から述べられるだろう。ヒト以外の生き物が社会生活を営む際は、雄と雌では役割を分担して生活している。かつてはヒトも同じように役割分担をしていた。社会における女性の位置、男性の位置があり、相補的に生活してきた。

力を持つものが強いという大前提があり、物理的な力と連続性に長けた知性でもって、男性は女性の上に立ち守る側となった。その背景をもってして、男女は平等の権利を主張しなくてもやれるはずだった。

しかし、共産主義が理念通りに機能しないように、力の不均衡は弱者の犠牲を生み出す。思想を生み出した人間の知性と、その社会で生きている人間達の知性とは必ずしも一致しない。
IQ=100を平均として知能検査を行えば、当然其処には分布があり、ヒトはまったく平等に作られていない。そのため導くものが必要となるわけだが、権力を持ったものが知性が高いとは限らず、知性が高いものが道徳的であるとは限らない。

話は逸れたが、結局男女は平等であるといえば、男女はどちらかが劣る存在ではなく、相補的に合わさって生きていくのであり、違う役割を持つものが同等の権利を主張すること事態に不自然があるのだ。

さて、本当は女性の天皇について考察するつもりだったが、考えがまだまとまらない。


2006年01月29日(日) リストカットという行為

手首を切る行為にはどんな意味があるのだろう。

死を感じさせながらも、実際には死に遠い行為。おそらく死にたいという意思を示す行為であり、死にたいという気持ちを形に表す確認の行為でもあるのだろう。

死にたいと思いながら死なない行為を続ける。そこにあるのは、死にたいまでの自罰的な思いだろうか。かまって欲しいだけで切るほど、そして手首を切ればかまってもらえるなどと思えるほど、人は簡単にはできていないだろう。

自分の中でもてあました扱いきれないものをどうにかしたくて、自分を自分の一部を壊してしまいたい衝動が、切り刻む行為に繋がっていく。それは良い方法とはいえないかも知れないけれど、切らずにはいられない心がそこで苦しんで立ち往生しているのだ。

どうしようもない自分を抱え続ける力をこの胸に培え、保ち続ける術を探しているうちに、明日がまた来るだろう。


ロビン