カウントシープ
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2006年02月03日(金) 心ここにあらず

『食べちゃいたいほど可愛い』とは言ったもので、人は人を食う。最近それを深く感じている。ただしこの場合、食うのは血肉ではなくて魂だ。

食うものの前に食われるものがいる。そこには一方的な関係もあれば相補的な関係もある。相補的な関係としてはやはり血のつながり、母親と子供との関係がもっとも多くあるだろう。
一方的な関係は、食うか食われるかの関係にまでは陥らない。そこには明確な他者としてのラインが存在するため、摂り食われる前に逃げ出せるからだ。

それでも魂を分け与えていると感じるときがある。魂が食われて失った部分を、どうやって回復したら良いのかわからないときがある。音楽を聴いたら良いのか、食事を取ればいいのか、どうしたらいいのかわからないまま時間をぼうっと過ごして、眠って、また元に戻っていくのだけれど、これは果たして元に戻れたのだろうか?もう魂は無くなってしまったのではないだろうか?

どんどんそぎ落とされて、最後に残るものが何なのかわからないような心もとなさが恐ろしい。ボクは、急に死んでいなくなってしまう人は、こんな心境を抱えているのじゃないかしらと時に思う。

当たり前だけれど、ボクの腕は1人分なのだ。


2006年02月02日(木) ケーキ

相方の検査は無事終わって、結果は来週になる。検査は相当辛かったようで(痛いという点で)帰ってきた相方はすっかり疲労していた。
代わってあげることもできないけれど、聞くからに恐ろしい検査で、とても受ける勇気がないけれど、そうしなくてはならない状況になれば仕方ないということだ。命がかかわってくるのだから、相方も受け入れざるを得ない。

がんばったご褒美に、ショートケーキを買った。単純だけれど、ボク達はイチゴの載ったショートケーキが1番好きなのだ。紅茶とケーキを前にして、お疲れ様の乾杯を(紅茶で)した。

ケーキには特別な効果があると思う。特別なときに食べるものであり、お祝いのためのものであり、普段は贅沢なもの。毎日ケーキを食べていたらきっとこんなにうきうきしないだろうから、やっぱりケーキは時々食べるのがいいと思う。昔からの風習でも、ケーキは同じような意味合いを持っていたんじゃないかしら。

貧しい農民達が、年に数回だけ、沢山のご馳走を盛って祭りをする。その日ばかりは美味しいものをほおばり、ダンスを踊る。それは毎日がんばって地道に働いたご褒美なのだ。ご褒美があるから、また明日頑張れる。大人だって子供だって、報われると信じているから明日に向かって生きているのだ。

相方の頑張りが無駄にならないように、検査の結果がよいものでありますように!


2006年02月01日(水) 1年

明日は相方は病院に行く。手術後初めての大きな検査をしにいくため、つまりは再発していないかの検査をするためだ。

多分大丈夫だろうと思いながらもやっぱり不安は付きまとう。癌が発見されるときだって、多分大丈夫だろうと思っていたのに、結果は悪性だったのだから。
あとからあとから悪い情報が追加されて、希望の変わりに不安と諦めが追加されていったのだけれど、いざそれが現実ならば仕方ない。諦めて受け入れるしかなく、また心とは流動的で、時間を追うごとに、それがそうなることであったように感じていったのだ。

しかしそれは表面上のことで、病気はひそやかにボク達の心を蝕んでいった。冬から初夏にかけて、ボクは仕事と生活に最低限必要なこと以外、何もする気持ちに慣れなかった。絵も描けないし、本も読めないし、犬の散歩も怠りがちになっていった。

その中で唯一手にしたのはヴァイオリンだった。何しろ先生が出した課題が背後から追ってくるのだから、やらざるを得ない。そのことも考えた上でのレッスンだったが、そうしてよかったと思う。暗い家に、週に一度ヴァイオリンを背負った先生がやってくる。先生のヴァイオリンはボク達の憧れであり夢となった。先生のために選んだ紅茶、お菓子、そうしたモノたちが、死にゆくボク達の心を外に引っ張り出してくれた。

先生にこの気持ちを言葉で伝えたことはないし、これからも伝えるつもりはない。いつか音に載せて先生のために演奏ができたらと思う。


ロビン