カウントシープ
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2006年02月15日(水) 空想の子供達 1

夢を見てから、どこか血なまぐさい気持ちが漂っている。それは不愉快だとかそういうのではなくて、何かが自分と皮一枚隔てたような感じで、ボクの腕の中に何かがいるようなイメージだ。

それがどんな意味を持つのか、ボクは少し、知っている。

多分、ボクは子供を生んだのだ。

勿論それは空想上の子供で、もう1つ言うなら、相手は小さな子供じゃない。




ボクと相方は、同性同士で一緒に暮らしている。それは、寄り添うような関係であり、ともにあるものであり、異性同士のようにかみ合うようなものではない。お互い補っていても、同性同士ならではのシンパシィと、半身なる遺伝子の不在がここにはある。

ボクは、ありのままのボクを愛してもらえなかった子供だった。ママの気に入るように振る舞い、ママの選んだ職業についた。どんなに心に言い訳を並べたって、ボクが女々しく親に愛されようとし続けていることに変わりはない。

相方は、何でも思い通りにさせようとする親から逃げてきた子供だった。洋服も髪型も食べ物も職業も何でも全部決められて、自由は1つもなかった。神様さえも決められて、家族全員金の鎖をしていた。毎日飲み歩いて、友達とつるんでばかりいて、帰ると親はヒステリーだ。
父親は何も言わず、助けてもくれない。

ボク達は最初、ちっとも気が合わなかった。
ボクは本の虫で絵を描いてた。
相方は飲んだり遊んだりが好きで、遊びのテリトリーが違った。

ボク達は犬が寄り添うように一緒に眠った。
本当にぐるぐる巻きにまきついて、ピッタリくっついて眠った。
それは友達でもないし、今思えば恋人でもない関係だった。

ボク達はそのうち、お互いの親を知るようになった。一緒に過ごすうちに喧嘩をしたりもしたけれど、たいした喧嘩をしないぐらいには十分大人になっていた。

ボクはもう随分前に、大分親の問題は片付けていた。自立して、自分で稼いだお金で飯を食えるようになってから、振り返ってみた親はただの人間だったことに気が付いたのだ。
ボクと会った当時の相方は、まだ、親から逃げてきたばかりだった。逃げてきたくせに『家は仲良し家族なんだ』と言った。そりゃいいね、と思ったけれど、その割には辛そうで、そのうちボクは辛らつになって、相方を苦しめた。相方が自分で気が付く前に、ボクは“真実らしきもの”を暴いたのだ。それは本当に暴力的で、相方はますますボクにしがみつた。

それはボクの中のエゴだったけれど、どうしても言わずにはいられなかった。

“ボクは不幸だったってことを認めている!
お前のその見せ掛けの仲良しなんて反吐がでるぜ!”

20年近く自分をだまし続けて、ボクはもう真実から目を背けることにうんざりだった。


2006年02月14日(火) 神様の分

愛とは何か?という問いには人の数の分の答えがあるだろうし、愛を知らないものには答えようが無い。

愛するものがいたとして、そのものが本当に喜ぶものは何か、というのはなかなか難しいことでもある。欲しいものは何か?それを、他者から贈られたら嬉しいか?それをどんな風に扱うだろう?
そんな風に相手に思いを寄せながら、ああでもないこうでもないと何かを贈ろうとする行為自体に、もうすでに愛は発生しているだろう。


愛とは、相手を気にし続けることだ。こちらの充足とともに消え去るものではなく、いつもいつ何時も、この心の中に相手を浮かべていることだ。それは自分と錯覚するのではなく、あくまで自分と違う他者であり、それでもなお、関わり続けていくような存在。それは人生の最初には母親によって提供される関係であり、願わくば子供達はそうしていつも母親の意識にすんでいられたらと思う。


しかし、母親だって、けろりと子供のことを捨ててしまっている時がある。恋人みたいに振舞っていたって、いざというときに自分の心にはいないことだってある。人をいつも心に住まわせておくことは、時には重荷となりえるのだ。自分が精一杯のときにも、ずっと自分以外の何かを置いておく、

それを般化し普遍的に仕立て上げたものが、多分神様なのだ。神様はいつもあなたの心にいるというのはそういうことなのだ。ボク達は、何処かにもう1人分くらいの余地を残しておくべきであり、その目的は愛するためであり、愛することによってまた自分をも愛せる。


2006年02月13日(月) 魂は二度生まれる

子供達は、愛されなくては人に成長しないから、今生きているものは皆、誰かしらに愛されてきたことになる。
両親が酷くっても、毎日が酷いわけじゃなくて、ほんの少しはいいことだってある。彼らは気まぐれになら小さきものを愛するだろうし、部分的には愛してくれているときだってあるからだ。誰かが食べ物を与えてくれなければ、もう死んでこの世に居ない。

本当なら、連続する確かな愛が、人を育てるのに必要不可欠なのだが、無いものは仕方が無い。ボロボロと穴の開いた土壌であっても、根を張れる場所を探して、土台を求めていくしかないし、そうやってでも、何とか人は生きながらえていくものだ。

だが、成長となると違う。きちんとした土台が無ければ、成長することはできず、あるいは部分的にしか伸びることができずに、ある部分は幼いままで、もっとも外側の部分、殻だけが大きくなっていく。そうして、心は子供のままで停止し、成長することのできなかった寂しいかつての子供が、大人として生きていくのだ。

大人になってからでも、愛されるチャンスはある。友達から、恋人から、老いていく両親から、関わるすべての人から、そして自分自身の変化によって、世界にもう一度、生まれなおすことが、できるかも知れない。


ロビン