カウントシープ
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2006年02月27日(月) |
無いことにしてしまえば |
昨日の日記を書いてみてから思い出したこと。
ボクや父に酷く当たった後、母親はよく吐いていた。トイレに顔を突っ込んで、おそらくは10分くらいはそうしてこもって出てこなかった。心配になって背中をさすりに行ってみたりもしたけれど、母親はもう遠いところにいて、ボクの手の届くところにはいなかった。
また、母親はあまり食事を取らなかった。ご飯茶碗にほんの少しだけよそって、「ママはこれでいいの」と言った。ボクは子供心に、こんなに少しで大丈夫だろうか、と心配になったものだが、食べ過ぎると戻してしまうから、と母親は言って、殆どご飯を食べなかった。
そのとき、母親が苦しんでいるのに、成長期のボクはがつがつとご飯を食べていて、そんな自分は悪いような、醜いような気持ちになって、なんとも後味が悪くて、ご飯が好きじゃない気持ちになった。 それでも一方でおなかが空くと、食事を楽しみにしている自分がいて、そのアンビバレントな感覚は、現在のボクの心にも受け継がれている。
「私食欲ってものがないのよ」と話した女性がいるけれど、食欲などというどちらにも転がりかねない制御不可能なものを抱えて生きるよりは、無いことにしてしまったほうが幾分楽なように思える。
同じように、人が嫌いとか、興味ないとか、無いことにしてしまえば、苦しむことがないのだから。
そうして、無いはずのものが無性に欲しくなって、時々爆発的にむさぼってしまう・・・
闇に隠れて食べ物を抱え込んで食べたり、 肉欲の関係に溺れたり、 沢山の買い物に囲まれてみたり、 悪意をばら撒いてしまったり
そうして放出したあと、再び無いことにしてある日常にまでリセットする。その行為の矛盾に気がついてしまったら、もうできない見せ掛けの日常に。
時々無性に、食べ物を食べたくなくなる。
食べたくなるの逆で、そういうときの心境はやはり病んでいるのだろう。人は、食べたり眠ったりを肯定できないときは、おそらくネガティブなものに引きずられていくときだ。
それは生きていることを否定するようなもので、生きることから逃げようとする弱さや、今すぐに何かしらを示したいという器の小ささの現われのようなもので、もう子供どころか十分にいい大人の自分がまだこんな表現で持ってうだうだしていること自体がまったくもう!・・・という感じだ。
そういう時はやたら自罰的なときで、こんなボクには食べる資格なんかないと本気で感じちゃっているのだけれど、もう一方では、食べないでいることでやってくる空腹に耐える自分という行為でもって、苦しみを受けているから許してもらえるのではないかというメカニズムが潜んでいる。
子供の頃に親に受けた罰則の1つはご飯抜きだったけれど、そのときに出来上がった心理構造がそのまま今日まで生きているのだ。
人は思い出だけで生きていけるか?
あまりに早く先立たれてしまうと、まだ思い出は蓄積されず、むしろ長く生きられなかった同胞への思いが強いだろうし、しばらくをともにしたものならば、其処には寂しさがこみ上げてくるだろう。 長くをともしたならば、それはもう人生の共有者であり、それを失うことは半身を捥がれるようなものだろう。
半身を捥がれてしまっては、もう生きていくことは困難で、そうなってしまってからはもう誰も長くは生きていない。それほど深く愛したものならば、もう心も半分受け渡してしまっているからだ。
しかし、ここには、もう半分、相手が残していった心が残る。自分の心を半分与えたのと引き換えに、ここにかつては他者であったはずの心が残っていて、もう一度生気を与えてくれるのだ。
この、心を半分交換するという行為は、本当に愛していなければ成立しない。真実の愛でもって、初めて心は等分に行き渡るのであり、愛の模倣でしかないならば、心は動かないままだろう。
其処には、ただの喪失しかない。対象は自分の延長でしかあらず、きちんと他者として存在しておらず、半分どころがすべてを取り込んでいたために、死んでしまったものが何かもわからないまま、失った穴だけをなぞり生きていく羽目になる。 そうなればもう、悲しみは永遠のものとなり、癒してくれるものもないと感じる。
違うのだ、深い愛の果てには、悲しみを癒すだけのものがちゃんと心に備わっているのだ。深い嘆きのあとに、再び人が生きていくことを取り戻す。それは、もう一度愛するためであり、何を愛するかといえば、自分を取り巻く様々なものを、受け止めていくことなのだ。
だが、それが再びたった人の姿になりえるのかどうか、今のボクにはわからない。
ロビン
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