カウントシープ
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2006年03月02日(木) |
サンドイッチマヨネーズ抜き |
相方が病院食は不味いと悲しんでいるので、夕食にマックを持ってお見舞いに行った。 でも、病院にマックなどもって行ったら、看護婦さんに叱られそうだから、相方を呼び出して病院内の別の場所で一緒に食べて、後で病院食も2人でつついた。
確かに不味かった。
この不味さは嫌がらせかしらと思うのだけれど、こうして不味いものを食べたくなけりゃ早く家に帰れるぐらいに元気になってね、という脅しなのかもしれない。大きな病院だからなのかな、小さな病院だったらもう少し美味しいものを提供できるかもしれないのに。
時々もしもごっこをする。(ドラえもんのもしもボックスみたいに、もしも・・・だったら、という空想) ボク達が食べ物屋さんを開くなら、間違いなくサンドイッチ屋さんだ。ボクはマヨネーズが嫌いで、どこにいってもサンドイッチを食べられない。だから、ボク達が作るサンドイッチ屋さんには、マヨネーズが食べられない人用のメニューを豊富にするつもりだとか・・・(凄くマイナーだ)
けれど、本当に、誰かに食べ物を提供する仕事についたら、きっと大変だろうなと思う。みんな好みが違う中で、どうやってなるべく多くの人に満足してもらえるか。病院食にいたっては、決められたコストとカロリーが付きまとうから、それはもうメニューを決めるだけでノイローゼになりそうだ。
愛していることと、憎たらしいことは、同時に存在しうるだろうか。
多分、愛していることと、取り込んでいることを混同しているとき、あたかも愛しているような錯覚でもってして、其処にしがみ付くような気持ちと切り捨てるような気持ちの両方を投げ込んでいることを、人は時に「愛」だと錯覚しているのだろう。
本当の愛には、憎しみは付属しない。
なぜなら、愛するということは、完全に自分からは別個の、自分に属していない独立したものを、何かしらの関わりでもって、別個でありながら繋がり、つながり続けていくという行為に他ならないのだから、
時に切り捨ててしまい、その後に再び慌てて拾い寄せるようでは、それはもはや愛ではないのだ。
切り捨てたのは自分に属するものであり、それは本来相手の中にはなかったはずのものだ。 だから、切り捨てたりしているうちは、本当には他者を見ていない。他者の中に映し出された自分を見ているにすぎず、それはやはり、愛とは呼べない。
明後日から、治療のために相方は入院する。といっても一泊の短いものだ。
癌の治療は終わって、これからは再発に気をつけながらも普通に生活できると思っていたのに、まだまだ道のりは長いようだ。
癌は増殖の早い最も悪いタイプで、おそらくこの2年以内に再発するだろうと宣告を先日受けた時、半分は覚悟しているつもりだったけれど、実際に言葉できちんと言われてみると、言葉は重くて、笑うに笑えない状況だった。
これからの治療は、癌の増殖を抑えるもので、本来は再発してから使うものだ。だが、現在どこで再発しているかわからず、おそらく再発が見つかったときには手遅れになりそうだから、今もう再発しているものと予測をつけての治療になる。
それでも、治療することがまだあることを喜ぶべきなのだ。
ほんの数年前にはこの薬は開発されておらず、同じ癌にかかった人はみんな再発を繰り返して死んでいったのだから、この時期に罹ったことを感謝して、そして今までに癌で苦しんだ人たちからもらった医学の進歩に感謝しなくてばならない。
抗がん剤のムンテラを受けているとき、「あなたの治療をこれから先に同じ癌に罹る人のために役立ててください」といわれて、まだ今癌を克服したわけでもないのに、なんだか不思議な感じがしたけれど、医学の進歩とは、医者や製薬会社が導いたわけではなくて、病気になった人たち、患者さん達が導いたものなのだ。
ロビン
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