カウントシープ
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2006年03月05日(日) 永遠らしきもの

心を安全な場所においておくことなど誰にもできない。
永遠に続く場所も、永遠に側にいてくれるものも、形あるものの世界では存在しない。

だからもし、永遠に続くものがあるとしたら、それは、物質の形を取らないものだ。

形の無いもの、それは心の中にあり、蓄積されていくようなものだ。毎日生きているうちに培った、思い出や、成し遂げた喜び、見つけたばらばらの真実の破片、そういったものがみな、形無き存在だ。

存在とは存じ在ることをいうのだから、知って(存じて)いることは、もはや在るのだ。野に咲く小さな花も、認識するまでは、其処に在るのに知らないことになる。目に入って、意識野にあがってきてはじめて、花はただの形あるものでなく、花となるのだ。

だから、形があるものもまた、それだけでは存在したことにならないのだ。
形あるものに意味が無いわけじゃなく、形の先に付きまとう思いが、それに意味を与えるのだ。

人は少しずつ、形あるもので周囲を固め、其処に思い出をうっすらとのせて生きている。人が生きていくためには、そうしたものが必要で、永遠不変の思いもまた、たやすいものではない。

薄れゆくことを覚悟しながら深く愛し、かけがえの無いものを胸に持ったとき、人は何よりも強くなり、同時に脆くもなる。

その脆さを超える深く強い愛など、幻想なのだろうか。


2006年03月04日(土) さようなら

シェリーが死んだ。

彼のことをとても愛していたけれど、やっぱりボクは涙が出なかった。代わりに相方が沢山泣いていた。

ボクは、愛するものを失ったときに、本当に泣くことができるのだろうか、少し考えてしまう。ボクだって泣かないわけじゃないのに、本当に大切なものの時には涙がでないなんて、
まるで本当に大切なものを大切な位置において置けないみたいだ。





どうか魂がいと高きところまで運ばれ
光り輝く世界において
あらゆる祝福を受けますよう
再び愛するものの所にたどり着けますように

さようなら シェリー


2006年03月03日(金) イノセンス

物にしがみ付いて生きているだけじゃ、確かなものは何も掴み取れない。けれど、何も触れるものがなしでは、とても不安定な世界になってしまう。

ボク達は霞を食べて生きていけるほどに仙人ではなく、ただの人間であり、人間でありたいと思っている存在なのだから、そんなことを最初から願っているわけじゃないのだけれど・・・子供の頃ならば少し願ってみたけれど・・・でも、その形あるものと形無いものとの間でバランスを取って生きている。

攻殻起動隊の映画、イノセンスの中では、草薙素子はもはやネットの中に生きている意識であり、いつでも側にいて、いつでも側にいない存在だ。いのっセンスの中では、人形に入り込んでバトーに接触するけれど、最後にはまたネットの中に戻っていく。後には、カランと崩れ落ちる人形だけで、其処にはもう素子はいない。

そのことがバトーを通して我々にとって、とても切なくて悲しい。イノセンスのテーマとはまさに其処にあるにも関わらず、どこか不快感を残し、そして、こうならざるを得ないこともまた了解せざるを得ない。

これは真実を表しているからだろう。

愛するものがこの世から肉体を失っても、それでも人は生きていけるだろうか?思い出だけで、もらった愛だけでこの先もずっと、生きていけるだろうか?
いなくなった悲しみのあまりすべてから遠ざかって生きることを失ってしまってはならないだろう。悲しみを超えてまた生きていく強さとは、いったいどこから培われていくのだろうかと問えば、それは毎日を、きちんと生きていることによって育つのだと答えられる。

だけれど、今この日々をきちんと生きているという保障なんてどこにもない。保障と言う形を求めて、形ないそのジレンマを抱えて、ただ生きていくことを、続けていく力が持続するなら、それはこの世界に対する肯定感であり、自分自身に対する肯定感であり、

自分が愛されていると感じることこそが、明日を紡ぐ力となる。


ロビン