カウントシープ
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2006年03月11日(土) すでに血だらけのナイフ

子供の頃は、アトムのようなロボットに憧れたし、みんなそのような超人的な存在に憧れただろう。誰だって特別になりたかったし、特別と感じるためには、超能力のような特別な力が必要だったのだ。(そういう意味で、超能力とは言いえて妙な表現だ)

長じるにつれ、ボク達は、人を超える力というものはないと知るし、それに近いものを得るためには、沢山の努力が必要だと知る。逆に言えば、積み重ねた先には、平均を大きく上回るような力をも手に入れうるという希望も知るわけだが、そうした特別を装わなければ生きていけなかった子供たちも、
もうその特別を装わなくても生きていけるようになっていく。

それは、テレビで見るような素晴らしい魅力ではないけれど、確かに自分に備わっているものに満たされていくからであり、それを満たしてくれる元といえば、やはり親や親に当たる他者からの支持だろう。
誰かに認められたことや、誉められたこと、単純だけれど、人はそれらをかき集めて生きていけるのだ。

だから、誉められることのない子供や、認められない子供は、辛い。其処にあるはずの自己肯定感がない、生きている実感と言うものがないのだ。
自分で自分を感じられず、感じさせてくれる他者も不在であり、世界はやがて閉じていき、苦しみを抱えきれなくなっていくとき、自己破壊や世界への攻撃が始まっていく。

振るわれたナイフを振るう手にはそれなりの理由が其処にあり、其処にいたるまでの沢山の出来事がそこには含まれているのに、目に見えるのはそのナイフを振ったことだけになってしまう。

そうして扱われないままの心が死に損なってあちこちで彷徨っているなら、この世はすでにゴーストだらけだ。


2006年03月10日(金) 懐かしい断片

子供達は皆、大人には解らないような、非現実的な話をする。

しかし、それは子供の世界の現実なのであって、むしろ子供達の話す世界ほど、真実に近いものはない。
ただ、それを解釈する力を、大人たちのほうが忘れてしまったにすぎないのだ。

いったい、どの大人もみんな、かつては子供であったのに、そうしてみんな忘れてしまって、今はもう断片的に記憶が残っているだけになってしまった。

どうしても手放せなかった本やタオル、怖くて仕方なかった絵や音、そういったものをどうしてそう感じたのか、我々は普段は思い出すことができない。

ここで考えているのは、どうしてそうしたものを忘れていくか、ということだ。
忘れるというプロセスもまた必然だとするならば、記憶は忘れるべくして忘れていく。むしろ、忘れなければ先に進めないのではと思うくらい、皆忘れていく。

ボクは、ここでは、意識的に捨てるのではなく、もう必要がなくなったのだと推測している。今までの世界に必要であり、やがてなくてもやりくりできるようになっていくとき、人はそれを忘れて新しい物事に向かっていくのではないか。そうして向かっていく先に様々なものが待ち受けているため、忙しい子供達はもう過去の遺物をそこにおいてきてしまい、

大人になったボクたちの心に、不思議な感覚を呼び起こす断片となって、語りかけてくるのだ。


2006年03月09日(木) ダンスのために弾く

フィギィアスケートとバレエとヴァイオリンと、その複合的な影響で、最近はダンスというものに興味深々。何か1つステップなど覚えられたと思うのだけれど、見ているだけではよく解らない。

バレエはもちろんトゥ・シューズが無くてはなんともならないし、フィギィアスケートだって氷の上だし、見ていてもちっとも真似できない。社交ダンスの映像なんて持っていないし、人生で踊ったもので今でも覚えているのって・・・フォークダンスをうろ覚えくらい。

大体ボクは運動は苦手なので、ダンスのステップひとつも上手くいかないかもしれないけれど、それはそれ、ダンスは西洋では歌と同じくらいポピュラーな楽しみだったのだから、そう運動能力は必要ないかもしれない。

でも、今ダンスを習う余裕はない。時間は作るものとはいえ、今は毎日の時間を切り詰めて生活している。エンデの『モモ』の時間銀行の黒服たちが来たって、預ける時間は一分もないくらいだ。

とりあえずいつか踊ることを空想しながら、ダンスのための曲をヴァイオリンで弾いてくらしている。毎日、ワルツにメヌエットにガボット・・・いったいどんな踊りなのかしら?


ロビン