カウントシープ
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2006年03月14日(火) |
チョコレート・チョコレート |
相方の務めている会社には、ヴァレンタインデーというものがちゃんと存在していて、そしてちゃんとホワイトデーなるものも存在している。 そのどちらもよく意味合いは解らないけれど、一月ほど前東京をうろついているとき、ちょうどヴァレンタインの直前だったせいもあって、デパートはどこもかしこもチョコだらけだった。まるで町全体がチョコレートジャックにあったみたいで、もしそのとき衛星写真で、チョコレート分布図を撮影できたなら、きっと都市部に限局していることがわかっただろう。
この習慣は日本だけのものなのか、よく解らないが、欧米だって、イースターにはチョコエッグを食べるし、チョコレートはお祝いにはうってつけの特別な食べ物なのだろう。こんなに甘い食べ物なんて、そうそう思いつかないもの。赤ちゃんだって、チョコの味をしったら忘れられないだろうし、そのくらいインパクトがある特別な甘さなのだ。
写真はヴァレンタインに、コンランショップで買ったマリアージュのチョコ。美味しかった。
お正月にアップルパイを作って以来、パイを作ってはいない。
けれどパイの作り方の基礎がなんとなく解ってから、パイ系の食べ物を食べるときになんとなく作り方を想像してみたりする。これはこうやって重ねているんだな、とか・・・考えるようになってみると、逆に今まで特に考えずに食べてきたということがわかって、こうやってよく解らないまま受け入れているものがこの世には沢山あるのだなと思う。
随分昔、椎名誠が仲間達とともに語った「発作的座談会」(とても面白い)という本の中で、日常の様々なものについて話し合うという企画があったが、電話とは?FAXとは?という話になって、みんな解らないのだけれど、ボクだって解らない。
どうして紙に書いたものが電話線を伝わっていくのか?とか 考えるとちっとも知らないままにいろいろ利用しているのだ。
発作的座談会の中でも、最初はFAXはよく解らないが、電話ならわかる!とか豪語していて結局みんな解らなくて、その会話がおかしかった。これを読んでいた頃の自分はまだ大学生で、本をむさぼるように読んでいた頃だったけれど、本が教えてくれるのはどちらかと言うと心の仕組みの表層だった。
村上春樹の「約束された場所で」という本は、オウム真理教に傾倒していた人々への、教祖逮捕後のインタビューを綴ったものだが(これもまた一読の価値がある)、オウム心理教の(手が滑って王、無と変換したよ)施設に集まった人たちはみんななんでも手作りで作っていく。パンを作るために麦を巻き、空調を整えるためにエアコンのシステムを作る。
オウムに入るとまず何をしてきたか何ができるかを聞かれ、それにしたがって配属されて、集団で生活を送っていくのだ。この段階ではみなそこを楽園だと感じ、その根底には、自分の存在価値をいともたやすく手に入れられたことがあるだろう。
と、脱線してきたけれど、こうして何でも自分達で作れるものなんだと驚いたが、同じ人間が作ってきたものだから、見よう見まねで何とかなるものも案外あるのかもしれない。
ここのところ雨が多い。
一度は暖かくなった気温もぐっとさがり、また冬が戻ってきたみたい。せっかく出てきた小さな木々の芽も、ビックリして引っ込んじゃったりしないかしら、と心配しながら小さな若緑の粒つぶを励ましている。 木香薔薇にいたっては、沢山の葉がつき始め、一足先に茂り始めている。その新芽は赤い色をしていて、これがやがて緑に変化していくのだが、先っぽだけ赤く染まっている様子は、遠めにはまるで赤い花が咲いているように見える。美しい、とは思わないけれど、そうと知っていればそれはそれで可愛らしい。(そうと知らないときには、正直少し不気味に見えたものだ)
赤い葉に染まる季節や、白い薔薇が散る季節があるならと思うと、とても楽しみだ。
こうして、庭にまた幾つかの花が咲き始め、まだ貧相な木の枝にも、新しい芽が膨らんできて、春が近いのだと感じられる。こんなとき、ささやかながら庭があって良かったと思う。春の雨が庭の植物に命を吹き込むならば、雨もまた歓迎の気持ちで迎えられる。
植物が心に与える恩恵に、人は報いることなどできないけれど、そうしてなお側に咲き乱れるその存在こそは、神様に近いものなのだろう。
ロビン
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