カウントシープ
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2006年04月09日(日) 林檎の楽園




桜が散ってしまう前にと、せっせと散歩に出かけては、花が増えていくのを見ていたけれど、ここに来て満開になっている。

少し近いところにお墓を主体とした公園があって、ここらではお花見のメッカなのだけれど、夕方に近くを通ったら、肉の焼ける匂いがした。あんまり沢山の人があちこちでBBQをやっているからなのだが、道を車で走っていて(車はオープンカーだった)肉の匂いがするって、ありそうでない。車道からは綺麗なピンク色しか見えないけれど、その下ではきっと楽しい宴会が開かれているのだろう。

桜の匂いってあるのかしら?
梅の花の香りとは聞くけれど、あまり桜の香りって聞いたこと無いし、あれだけ沢山咲いている下を通っているわりに、特に匂いに気がついたこともない。

昔、読んだ本の中で―
『やがて窓から甘酸っぱい香りがしてきました。外を見ると、林檎畑が広がっていて、匂いは其処からでした。林檎の甘い香りが立ち込めてー』
というようなフレーズがあった。
ボクは林檎畑を見たことがないけれど、子供心に想像しては、甘い楽園を思い描いたものだ。本当に林檎畑が甘い匂いなのかどうか、知らないけれど・・・
できれば、甘酸っぱい匂いの畑であって欲しいな。


2006年04月08日(土) 立食形式

今日はヴァイオリンコンサートの後にティーパーティに出席した。欧米人が主催とあって、立食形式のスタイルはとても気軽でフランクな感じ。山盛りにつんでるスコーンや、種類が沢山の紅茶、クッキー、ケーキと、大雑把な感じも異文化の雰囲気。

立食スタイルはホテルではお馴染みだけれど、日本人的ではないような気がする。立食のメリットは、あちこち動いていって、いろんな人とおしゃべりできることにあるだろうけれど、こうして広く浅く交流を持つことって、我々の気質ではないように思うのだ。

我々は家に誰かを呼ぶとき、その人数に見合うだけの椅子を準備するだろうが、そうすると呼べる人間に限りがでてしまう。以前アメリカ人の友人の家に遊びにいったら、普通の2DKに20人くらい?がうろうろしていて、こんなに沢山一緒に過ごせるんだ、と妙に関心したりしたものだ。


それはそれとして、異文化として楽しめば、それはそれで悪くない。あちこちぎこちなくたたずんでいて、知らないもの同志は話しかけないという不自然さも微笑ましく(?)、お互いが話さない気まずさを共有しあっているのも面白いことだ、と非日本人ならからかうだろう。

途中で仲介してもらって話に加わってからは結構楽しくおしゃべりしてきた。みんな本当は話したいのであって、もちろんボク達だって、そうした日本人的な日本人の一組だった。


2006年04月07日(金) 猫の首に鈴とは言うが

時々鈴を身につけて歩いている人がいて、その人が廊下をあるいていくときとか、こちらからは誰がとおって言ったかすぐに解るのだけれど、そうして自分がそこにいることが周囲に知られてしまうのってどうなんだろう?って思うときがある。

同様に、車のマフラーを弄っている人も、近所からすれば「ああ今日もあそこの息子さん出て行ったわ」とか、自分の行動が把握されてしまうような気がする。
けれどこれは、周囲に自分のことを知られなくないからこそ出てくる発想で、知られてもべつにかまわないなら何の問題もない。

マフラーを弄っている若者に関して言うならば、むしろ周囲に知らしめてやりたいというニュアンスもあるかも知れない。その騒音と取られる音を聞く自分が心地よいとしても、それが周囲に響き渡っていることを意識しないではいられないだろうから、この場合はとんがっている心の表現の一つなんじゃないかしら?

冒頭に戻って、鈴をつけて歩いている人をよく観察してみると、その鈴はお守りやらなんやらに付属しているものであり、鈴は付属品であるようだ。そして、そのお守りやらアクセサリーは、他者からもらったものであることが多いように思う。
つまり鈴は、自分の意志でもってつけているのではなく、他者からもらった鈴以外のものに、鈴がおまけとしてついていたのである。

鈴をつける意味は、小さな音のする可愛らしさ、という付加的な装飾であろう。チリンチリンと小さく響く音は可愛らしいし、小さな子供はそうしたものを好むだろう。そうして、意識しないままに鈴の音をさせて、我々は時に廊下を歩いているというわけだ。

何を隠そう、ボクのポケットにも、ヒトからもらった手作りのキーホルダーは入っていて、それには小さな鈴がちゃんと付いているのだから。


ロビン