カウントシープ
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先日尊敬する絵描きさんのHPを見てから、すっかり魂は持っていかれてしまって、現在惚け中・・・
もう凄くお上手で、その上世界観も好きで、変な言い方だけれど、プロになって日が浅いせいかまだとんがってて、そこが堪らなくいい!どうかこのイノセントを失わないでいて欲しいと勝手なことを思いながら、すっかりその人の絵に夢中だ。
絵という対象がこんなに人の心を掴んでしまう。その向こうにある描き手の心に触れたと思うそのことが、恋のように心を引き寄せる引力になりうると思うのだけれど、いったい、人はどうしてこんなに人を求めてしまうのだろう。
そして、ダイレクトに人を求めるやり方でなく、こうして絵や音楽を通して、非ヒトなるものから人を求めるという回りくどいやり方に、どうして行き着いてしまったのだろう。 抱きしめる感触ほどダイレクトに人を感じることはないのに、そして抱きしめてさえも解らない感覚がこの世にはあるというのに、人は目の前にある本質を前にしてかくも不慣れなものなのだ。
そうして気分が高揚しているところに、仕事の上で画家に会った。この人はもちろんボクが絵を描くことが好きだということなど知らなく、絵とはなんの関係もない場所で遭遇したのだけれど、彼がいうには「描いて描いて描いて、描かないと何にもないですよ」と。
これには本当にその通りだと思う。もうずっと描いていない自分をふりかえってみて、どんな言い訳をしようともその先にあるのは、自分の不完全さに少し失望していたのではないだろうか? 時間を注いで描いても、自分の絵はそれほど素晴らしくもない、その凡庸さに傷つき、絵から逃避しているに過ぎないのじゃないかしら?
絵を描かないでも生きていけるけれど、絵を描くことで賦活する精神もきっと其処にあるだろう。ボクは絵を描くことが好きで、人形を弄ることが好きで、そしてヴァイオリンを弾けるようになりたい。そのどれもを捨てられないし、どれかを落としていったらずっと不全感が拭い去れない。
今日は休暇を申請して、一日だらだらとヴァイオリンを弄っていた。
朝から雨が降り続き、散歩も絶望的で、犬達に雨を見せて諦めてもらう始末。今年に入って始めての休暇で、こんな風に何かしなくてはならないことなしで過ごすのも大変悪くない。
そうはいってもヴァイオリンの練習はしなければならないが、こちらは今自分の中では、ご飯を食べることと同じくらいすることになっているので、レッスンすること自体特に抵抗ない。考えてみるとどうしてこんなにヴァイオリンが生活に入り込んできたのかな、と考えることがあるけれど、きっと複合的な理由によるものだろう。
自分で作り上げた理由として1番上にくるものは、ヴァイオリンを一生懸命にやれば癌が治る、と定義したことだ。何の根拠もないお呪いだが、癌が治る保障など何一つない中で、何かにすがって生きるならば、それは健康食品でも新興宗教でもなく、ただ魂を研ぎ澄まし真実に近づくことが、生きていく上での目標だと信じているから、 そして音楽という媒体こそは、その高みに行く肯定を他者ともっとも共有しやすいと考えているからだ。
相方がヴァイオリンをやりたいといったとき、そのときは癌とは無縁で生活していたのだけれど、ボクは「じゃあボクが絵を描いている側で弾いておくれ」と言った。未来ってどうなるものか解らない。いつかボクがバロックダンスを踊る日だって、ありえるかもしれない。
昨日はちょっとショックなことがあって、ものすごく凹んで今も凹み中。具体的には妹と妹の子供との間に、恐ろしいほど関係性がないことにショックを受けたのだけれど、妹だってあれはあれで一生懸命なのだ。
本当に、知らないということは恐ろしい。
ボク達は母親に抱っこしてもらえなくて寂しかったはずなのに、妹は赤ちゃんを抱っこすることにあまり興味を示さず、泣いている背景の気持ちを見ようとしない。これがボク達の知らないという咎なのかと思うと胸が苦しいし、この先ボクも妹も、何かしら少しずつ取り戻していけたらと願うばかりだ。
ロビン
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