当地方紙の現論コーナーに養老孟司先生がシンガポールから投稿されていた 「環境破壊を見抜く鋭い目を」 「上澄みの生活を許すな」 と題し書いておられた。 僕なりに勝ってに書いてみれば、現代の環境破壊は足尾銅山の鉱毒事件のように誰の目にも明らかな禿山の形では現れない、それを見るには、よく訓練された鋭い目が必要である。根本問題はなにか。自然に対する我々の無知であろう。兵庫県豊岡市コウノトリで有名 保護されたコウノトリが百羽を超え来年一部を野生に戻す計画だという 餌となる魚、小動物も増えているようだ 田畑には農薬を用いず雑木林は当分放っておく、そうするだけで虫が増える、私が子供だった頃はそれがあたりまえだった普通の人はその変化に気づかないだけのことである。 私はよく昆虫採集をする だから山間地に行くが山間に田畑があるとふつう採集をあきらめる。虫がいないからである。むろん農薬や化学肥料がまかれているためである。田畑がない山間ならはるかにマシである。 水は「元気か」明治初期モース博士は日光中禅寺湖を訪問したとき「顔にトンボがぶつかる こんなにトンボの多いところを見たことがない」と日記に書いている それでこそアキツシマだが、いまや日本中でさまざまなトンボが絶滅状態である しかしトンボは禿山ほどには目立たない 毎年しだいに減ってもふつうの人は気づかない。 今年の早春福井の山間地に行った。熱心な農家が冬季湛水している。田の水を落とさず張ったままにしているだけのことである。それで農薬を使わなければさまざな生き物が発生するバクテリア藻シジミ小魚の類まで豊かな生態系が生じる。それが自然の肥料となる。その生態系の大部分は「目に見えない」のである 滋賀県琵琶湖博物館に行ったら琵琶湖の水のプランクトンの展示があった。湖から汲んできた水をただ顕微鏡で拡大して見せている。わずかな水の中に複数のプランクトンが元気に泳ぎまわっている。そうした観察を継続していけば日本の水がいかに「元気か」あるいは逆に「死んで行くか」それがはっきり目に見えるはずである。 両者の無知 私が環境問題で政治的対立を好まないのは、長年の基礎調査がどちらの側にもしばしば欠けているからである。その意味では両者が「協力すべき」なのである。私が住んでいる鎌倉市でも以前から緑が問題になっている。緑は目に見える。でもその下にどれだけの根が広がっているか、想像したことがあるだろうか。その根の間にはどれだけの生き物が住んでいるだろうか。開発側は「そんなことを考えたら何もできない」という。それはウソである。やる気がない、方法を学びたくない、そんなことは金にならない等々であろう。反対側はひたすらダメだという。だから最終的には見舞金で片がついたりする。そこに露呈してくるのは、いいたくはないが 両者の無知である。 私はシンガポールでこれを書いている この小さな国はこの国だけでは成り立たない。四百万以上の人口を養う田畑がない。それならこの国のエゴイズムは明白だろう。自分だけでは生きられない世界で、いわば上澄みをとって「快適な生活」を楽しんでいるからである。日本がそうなることを許してはならない。私はそう思う それを環境原理主義というなら、私は環境原理主義者なのである。 先生の本は多くの人に読まれているようだ。 名前を知り思いに触れたことよかったと思う。 虫が嫌いであったり虫がいないことがどういうことなのか 虫を知り共に生きるには精神的指導者と手を出さず放っておく覚悟がいるようだ ありがたいお話だ。
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