2003年09月24日(水) |
親子・私・存在・メビウスの輪 |
私にはトラウマがあると思っていた。 先日先生にも言われたし、 親にもそれとなく言われていた。 コンプレックスだと思っていたし、 克服したいと思っていた。 けして、浸っていたわけでも、 トラウマのある自分に、 酔っているだなんてことはないつもりだった。 でも、親からしてみれば トラウマに酔っている。 悲劇のヒロインである自分に酔っているとのこと。 いつもそう。 そんなのヤダと思っていても、 そう思われる私が悪いのだろうか? 記憶がないというのも、 過去を振り返ると泣きたくなるのも すべて、自分の「気のせい」なのだろうか。
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私は親と自分の意見、意志の 妥協の末の結論だと思っていたこと。 暗黙の了解であると思っていたこと。 それは親してみれば 私の一方的な意見・意志を貫きであり、 自分が自分を縛っていたことであり、 親の意見は反映されていないと思われていたらしい。 そして、そのことに対して 私が不満を持っていたこと、 諦めや仕方ないという気持ちで 実行していたことに対して、 親が残念だとか悲しいだとか思い、 束縛などしなければよかった、などと いまさらながら思ったことに対して。
では、私のしていたことは無駄だったということ? 自分の思いのまま、 好き勝手やっていたと思われていたのだから、 もっと徹底してやって好き勝手やっていればよかったということ?
親を大切に思う気持ちも、 感謝の気持ちも、 なければよかった。 持っていても、 表現できないし、したって無駄だ。 したって理解されなければ、ただの押し付け。 独り善がり。
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親にならない選択。 子どもを生まない選択。 それに対して親は 親が私に対する気持ちを一生知らないまま 生きていくことに 不満?悲しみ?よくわからないが、嘆き?
今まで子どもをやってきて 今まで親を見てきて、 今まで親子を見てきて、 今まで育てられて、 親って? 子って? 何? 子どもの存在自体が 親の都合で、 親の希望で存在する存在。
そんなに思い通りに育たないことが そんなに悲しいと思うならば 子どもなんて育たなければいい。
大学を卒業して、 就職して、 一人立ちして、 一人前として認められることが 親孝行の一つになると思っていた。 けれど、 家を出て行かせるのは 経験不足を解消させるため。 本当は家にいて欲しいらしい。
育たなければよかった。 時が止まればよかったじゃないか。 大きくなんてならなければ、 子どものままでいれば、 立派な大人になんてなる必要がなかったような気がする。 エゴのためだけにいる存在など。 私でなくてもよかったじゃないか。 人間じゃなくてよかったじゃないか。 いつまでも小中学生。 大きくても高校生くらいの子どもだったら
そうしたら親は幸せだったのではないか? 反抗期で大変ながらも、 必要とされつづけるじゃないか。
生きることを選択したことの理由に 自分の勇気のなさ、弱さもあるが、 自分への期待、希望もある。
いっそのこと 存在ごとなくなればよかった。 生きる選択などしなければよかった。
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自分を反面教師に子どもを育てればいいと言う母。 子どもに対する思いが 子どもの安全を思う気持ちや気遣いが 親のエゴであると立派に認めている母。 それらがすべて束縛として捉えられるならば そうしない育て方をして育てればいいと言う母。 そして子どもを産まない選択をする私。
エゴだって認めてるじゃないか。 そして、私は 今まで生きてきて、 今まで育ててもらって 今まで育ってきて、 今まで親子を見てきて、 子どもが親のエゴの産物でしかないならば 親の希望だけで存在するものならば それ以上にも、それ以下にもならない。
だから、自分のエゴのために、 自分の満足のために、 存在する存在なら
いらない。
種族の保存なんて気持ちはない。 そうでなくても人は増えている。
私の存在は無駄だったのだろうか。 私の親への意志の妥協は無駄だったのだろうか? 私の良かれと思っていた親への様々な思いは すべて無駄な行動であり、 無駄な思いだったのだろうか?
誰もが妥協し、 誰もが相手の好き勝手を許していると思っており、 誰もが救われないなら、 本当にすべてが無駄。 メビウスの輪のように 答えも結論も出ず、グルグルぐるぐる。
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