日記でもなく、手紙でもなく
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今回頂いたメールで、野菜をコアにしたテーマを探されているという、その意味や雰囲気が何か見えてきたように思います。ただ、グリーン・ツーリズムを生産者側の視点で見ること、自然環境と子供の情操教育という視点、消費者が求める野菜とその情報、あるいは、国産野菜と輸入野菜.....等々のテーマというのは、恐らく辿っていくと同じような根をもつ問題と関連しているようにも思いました。 私自身がこれらのテーマの中で、特に関心を持って見ることができるのは、<国産野菜と輸入野菜>でしょうか。このへんのことから少し書き始めようか、などとも考えました。
今のような時代、特に問題になるのが、中国などからの輸入野菜の安さに(国産野菜が)負けてしまうということでしょう。 しかしその前に、これとは全く正反対のことがあったりもするのですね。
現在東京で人気のある、イタリア料理店のシェフは、全てではないにしても、かなり野菜に関心を持っている人が多いようです。有機野菜を使うというのもその初歩的な例ではあるのですが、やはりイタリア料理ということで、日本にない野菜を使わないといけない料理も多いし、それを使うとなると高価な輸入野菜を使わざるを得ない...... かといって高いのに鮮度は落ちるわ、それで不味いわ、ということになると、我慢できないわけです。
で、生産地を尋ねて、日本でそのようなイタリアの野菜を作って行くことになります。徐々にこの辺が効を奏し始めて、新しい野菜を作り始め、日本の土壌・気候にあったイタリア野菜の種類も増えつつあるようです。
もう一つ。日本で特に野菜の種類が多いのは京都です。 京野菜というのが、ちょっとしたブランドにもなってきています。これも、一時期死にかかっていたところもあります。 京都とその近辺の気候・土壌でとれるから、京野菜なわけで、そこに多様な品種の作物がとれていたわけですが、それらが西洋野菜に押され、作る人も少なくなっていき、どんどん減ってしまっていくことになりました。 これも、やはり京都の調理人たちが、いろいろ見直し始め、生産者と一緒に、一部そのような昔の野菜を見直していることもあるようです。典型的には、京都・菊乃井の板長を務める村田吉弘さんとか。
このへんが、高付加価値型の野菜栽培ということで、全般的に、若い生産者の人が、本当に力を注ぎ始めているわけです。生産者の人も、その野菜がどのように調理されて、客に提供されているのか、それを知ることで、その野菜がもっている力、美味しさみたいなものを、新たに実感するそうです。 ところで、基本的に、<食>という領域では、外食メニューの家庭の中への取り込みというのが、戦後の食マーケティングでは、何しろ大きなうねりだったと思います。 野菜をもっと食べてもらうためには、当たり前のことなのですが、美味しく野菜を食べられる、という人が増える、ことです。この意味は、毎日食べても本当に美味しい、と感じる素材と、それを調理できる腕と、そのような野菜料理を美味しいと感じる食べ手が同時に増えていかない限り、決して消費は伸びません。
美味しい和食の店に行くと、調理された煮物の野菜などが本当に美味しく、食べたときに、ああ、自分はこんなものが食べたかったのだ、という気にさせてくれます。 それは、美味しい中華料理を食べに行ったり、凝りに凝ったフランス料理を食べに行ったりする時などとは全く異なる感覚です。 サラダというのは、野菜の中でも最も便利な食べ方ではあるのですが、私などは、これだけでは貧しい感じがしてしまうのです。野菜料理というのは、結構手間がかかる、その手間をかけないと美味しくないのですね。 ここが、なかなか難しいところではないかと思っています。
以前、某食品事業部で、メニュー開発をしたことがあり、そのテーマが実は蛋白源と併せた野菜煮物料理メニューの開発だったのですね。そのことを、思い出しながら以上のことを書いてみました。
野菜は必要だ、というのは、誰にも頭の中では本当に良く分かっていることなのですが、それが、なぜちゃんと摂取できないのか、それを阻害しているのはどこなのか、都市生活の中では、その阻害要因が山ほどあったりするのです。 同時に、それを美味しく食べる技術が失われている、そのことも大きな課題だろうとも思います。 あるいは、スーパーで買うトマトの不味いこと。これ一つとっても、生産だけの問題ではなくて、また流通にその責任全てをなすりつけることでもないのですね。そのようなトマトを買ってしまう人がまだまだ多いから、その不味いトマトが流れる仕組みが残ってしまう、なんてこともあります。
野菜ということだけではなく、もっと<食>そのものの全般的な問題が、食のある分野を探っていくと、すぐそこらへんに行き着いたりもします。つまり、野菜を例えば<魚>に変えても、同じようなことが出てきたりしますね。 昔、食というのは、厚生省や農林省が扱う課題だったのです。それで十分事足りました。今、食をもっと真剣に扱わないといけないのは、文部省や文化庁だという人もいました。
経済のグローバル化とは、今後もっと多くの安い野菜が日本に流れ込むということです。検疫のチェックの問題だけで、それを押しとどめるということにはなりません。 日本人が、今の調理力だけで野菜を使っているのなら、そのような調理力に合わせた野菜しか売れませんし、外国からも、それが売れるのですから、そのような野菜が流れ込んでくるということになります。
イタリアに端を発したヨーロッパなどのスロー・フード運動というのは、やはり、なかなか含蓄のある運動なのではないか、というようなことも感じています。
あまりまとまりがつきませんでしたけれど、食の問題というのは結構根深いものがあるからだと思っています。
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