++ワタシノココロ++
indexコレマデコレカラ


2003年04月14日(月) あふれ出すまで


昔、こんな話を聞いたことがある。
言葉が話せない子を持つ、お母さんの話。


+++++++++++++++++++++++++++++++

彼は、見た目は普通なのに
成長が普通の子よりちょっと遅いらしく
幼稚園を卒業する頃になっても、何も話すことができなかった。
それどころか、周りが彼にかける言葉も全く理解できなかった。
彼は、周りの人間がまるで見えないかのように
自分一人の世界にくらしているようだった。
聞こえてないわけじゃない、見えないわけじゃないのに
彼はずっとそうだった。


彼のお母さんは、それでも
彼に良く声をかけた。
ときに大きな声で。
ときに小さな声で。
2人で散歩をしているとき、
彼は全然違う方を見ていたとしても
見えるもの、聞こえるもの、感じたことなどを優しく話しかけた。
彼は、何の反応もしなかった。

反応しないことに気づかなかったわけではないけど
それでも、お母さんは彼に話しかけることをやめなかった。
遠くにいる彼を呼ぼうと
大きな声で名前を呼ぶこともあった。
絵本は絵しか興味がなかったようだけど
ささやくようにお話を聞かせることもあった。
それでも彼は、言葉を発しなかった。
結局彼は、小学校にいる間、一言も話さず
一度も周りに興味を示さなかった。
それでも、お母さんは彼に話しかけるのをやめなかった。

まもなく中学校に入ると言う春のある日
台所で昼食の後かたづけをしているお母さんの背中を
誰かがポンポンとたたいた。
振り返ると、庭に咲いていたタンポポを1輪手に持った彼が
「きれいね」と
満面の笑みでお母さんに話しかけた。


言葉はひとりでに身に付く物ではない。


人はそれぞれ言葉の入れ物を持っている。
生まれたとき、その入れ物の中は空っぽだけれど
周りがその赤ちゃんにかけた言葉が
少しずつ、その入れ物に貯まっていく。
水滴がしたたり落ちるように、少しずつ、少しずつ。
その入れ物に言葉が貯まっていっぱいになって
いよいよ溢れ出すというとき
人は言葉を発することができるようになる。

彼の場合
その入れ物が人より大きかったのかもしれない
言葉の滴が、人より小さかったのかもしれない
もしかしたら、
入れ物のどこかに小さな穴があいていたのかもしれない

けれどお母さんが絶えずそそぎ込む言葉の滴を
彼は確実に受け止めていたのだ。
時に大きな声を、時に小さな声を
時に叫び声を、時にささやきを
お母さんの優しい気持ちと一緒に受け止めていたのだ。




++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

たった1度聞いただけの話なのに
なぜか忘れることができない。


ただ一つ言えることは、
これは私たちにも当てはまるということ。

やすくんにいつも「気持ちを伝えて」と言っている。
自分でもできるだけ自分の気持ちを伝えようとしている。
だけど、不意にやすくんがドキドキするようなことを言うことがあっても
天邪鬼な私はそれをちゃんと受け止められないコトが多い。
本当に伝えたいときは、照れて何も言えなかったりするコトもある。

私たちは、お互いそれぞれの入れ物に
何かを注ぎあってるのだろう。
そして、
私たちのココロの入れ物は
まだいっぱいにはなっていないのだろう。
お互いの想いが溢れるばかりになったとき
きっと今とは違う何かがあるのだと思う。


あきらめることなく
照れることなく
毎日少しずつ、伝えあえたらいいな。


きき MAIL

投票ボタンです。↓

日記才人の投票ボタンです。↓

++優しいココロの おすそわけ++