あれはまだ、てめえが研修医1年目の時の出来事だった。
昔は医者になったら、自分の好きな科の勉強をすぐに始めていたものだが、今は昔と違い、はじめの2年間は各科をローテーションすることになっている。したがって(と言っていいものかどうかわからないが)昔の医師と今の医師は、平成16年卒業を境にして基礎的な素養がちょっと異なる。
医者になったばかりのてめえの医師人生は、小児科から始まった。なんちゃって小児科を2か月経験し、さんざん子供を泣かした後に救急の研修になった。救急は科に関係なくいろんな患者がやって来る。自分が経験したのは小児科だけだったので、子供の診察だけは自信があったが大人はさっぱりだった。
救急での研修をはじめてすぐの頃。腹痛を訴える大人の患者が救急を受診した。一通り話を聞いて、実際に診察も行ったが何の病気なのかさっぱり見当もつかなかった。そして何より、次に何の検査をしたらよいのかもわからない。
診察を終えて、患者さんがてめえの方をじっと見ている。腹痛の原因は何か、次に検査はあるのか、重症なのか軽症なのか、などを考えておられるのだろう、心配げにてめえの方をじっと見ていた。
診察を終えたてめえは、そんな患者さんと目が合った。「さっぱりわかりません」などと正直に言えるはずもなく、数秒の沈黙がその場を支配した。
「あのう…」 と、てめえはようやく絞り出すように言葉を出した。 「…はい」 患者さんは次に何を言うのだろうと構えている。さっぱりわかりません、とはやはり言えず。数秒間患者さんと見つめ合って、ようやくてめえは「ちょっと上の先生にも一緒に診てもらいます」とその場を誤魔化した。
いったん診察室から患者さんを出し、院内PHSで上級医に電話した。診察室に降りてきた上級医にカルテを見ながら一通りプレゼンテーションした後、上級医は「それで、お前の診断は?」と聞いてきた。「ええと、正直よくわかりません」と、上級医には素直に告白した。
てめえの拙いプレゼンテーションを聞きながら、汚い字で書かれたカルテ(当時は紙カルテだった)を眺めていた上級医は、カルテの最後に汚い字で「診断:腹痛」と書かれているのを見つけて、憚ることなく爆笑した。
「いいか、腹痛ってのは症状であって診断ではないぞ」
と、爆笑した後に真顔に戻った上級医にてめえはこってりと指導を受けた。
こってりと絞られまくった救急の後は麻酔科であった。ここで2ヶ月の間、朝から晩までひたすら麻酔をかけた。研修医はてめえ一人だったので、麻酔の準備から導入、麻酔中の管理などをすべて一人でやらされた。もちろん後ろには指導医が控えているのだが、ここでやりたい放題させていただいたのはとても貴重な体験だった。
他の病院では横で見ているだけの指導が多いと聞くが、てめえは毎日少なくとも3例以上の麻酔をさせられたおかげで、多分今でも緊急手術になれば、簡単な麻酔であればかけることが出来るだろう。全身麻酔も脊髄麻酔も山盛りしたし、最後の方では硬膜外もさせていただいた。
夜中も緊急手術があればすぐに呼ばれた。結局この2ヶ月は、ほぼ手術室で寝泊まりした。
麻酔科の次は産婦人科だった。産婦人科もたった一人の研修医だったので、全てのお産に呼ばれた。夜中であろうとも。帝王切開にも第二助手として全て参加させられた。しかも麻酔科の直後だったので、すべての帝王切開の麻酔までかけさせられた。麻酔を自分でかけて、その後手洗いして助手として手術に参加する。なんと濃い研修だったのだろうか。
おかげで2ヶ月の産婦人科研修の中で経腟出産は20例以上とり上げた。残念なことに死産にも立ち会った。最後の方は、産後の縫合も一人で行っていた。そんなわけで、今でも目の前で産婦が産気づいても怖がらずに最低限の対応は出来るだろう。
その後は内科。もともと希望していた科でもあり、楽しく勉強させてもらった。半年以上経ち、他の科も経験して、ようやく自信がつき始めていた。
そんなある夜の当直。この日も忙しく働いていたのだ。17時に当直を引き継いだ後は、ほぼ食事も休憩も取れない状態で仕事をしていた。
その患者が来院したのは、確か23時頃だったと記憶している。「胃が張って痛いんです」と書かれた問診表を手に、てめえは患者を呼び入れた。
若い女性だった。ご主人と診察室に入ってきたその女性のお腹は大きく張っていた。産婦人科を経た自分なので瞬時に理解したが、このお腹はほぼ臨月の大きさだ。妊婦なんて聞いてないぞ、と思いながら診察を始めた。
どこが痛みますか? とのてめえの質問に、その女性は「胃が痛いんです、昔から胃が弱くて」と疲れた様子で言った。こういった場合は、患者本人の訴えを信じてはいけない。本人が言う「胃痛」は、胃由来ではないことが多いからだ。
その後妊娠9ヶ月であること、当院ではないかかりつけの産婦人科医にかかっていることなどを聞き出した。
てめえは問診を急いでいた。なぜかというと、その患者にはどことない重症感が漂っていたからだ。胃の問題ならば、単なる胃炎ではなく胃潰瘍など、あるいは他の内臓疾患か。「本物の患者」は、どことない重症感を漂わせているものだ。それを理解できるかどうかが、医者の適性があるかどうかだとてめえは思っている。したがって、クモ膜下出血を見逃したというニュースを聞くたびに、あり得ないだろうと思うのだ。クモ膜下出血の患者さんは、すげえ重症感があるからだ。
「では、診察しましょうね」と、最低限の問診を終えたてめえは患者をベッドに寝かせた。腹部の診察は、通常聴診から始まり打診、触診に移る。学生でも知っている常識である。しかしてめえはその時、常識を守らずに聴診も省いて躊躇わずエコーのプローベを患者のお腹に当てた。そう、まず否定したいのは産科の病気。
躊躇わずに胎児の頭に当たる部分にエコーを当てた瞬間、見たことのない画像が見えた。あ、これ、ヤバい奴や…。たちまちてめえの顔は蒼白になったはずだ。
ここまで、患者を呼び入れてから3分もかかっていないはず。てめえはすぐに産婦人科当直に電話をかけた。
「はい産婦人科当直」 と、その日産婦人科の当直をしていた医師は、あからさまに眠そうな声で電話に出た。てめえは寝ていたのを起こされて不機嫌かも知らんが、忙しい内科は一睡もしてないのだぜ、という心の声をぐっと抑えた。
「すみません、他院にかかられている妊婦なのですが、腹痛で来院されて…」 そこまで聞いて、産婦人科医はてめえの言葉を遮った。 「だからって産婦人科呼ぶの? 内科の病気は否定したの? それで寝ているところ起こされるのっすかあ?」 と、産婦人科医は子供のように怒鳴った。だから人の話は最後まで聞けよ。じゃあこっちもプレゼンテーションの中身すっ飛ばして結論言おか。 「ええ、エコー当ててみたら胎盤に血腫があって、おそらく常位胎盤早期剥離と思われます」 「な、なんだってー! それほんまか? お前、間違いないんやろな。すぐに行くわ」 てめえも産婦人科をわずか2ヶ月とはいえ経ている自信はそれなりにあるぜ。なめんなよ。
すぐに飛び起きてきた産婦人科医は、自分でもエコーを確認して「間違いないな。すぐに手術や!」と早速手術の手配を始めた。
その後、無事赤ちゃんは帝王切開で生まれたことを聞いた。
久しぶりに購入した漫画「コウノドリ」を読んで、そんな日々があったことを思い出した今日この頃。
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