Sun Set Days
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2002年05月12日(日) 『誕生日の子どもたち』+夕方

『誕生日の子どもたち』読了。トルーマン・カポーティ、村上春樹訳。文藝春秋。
「訳者あとがき」によると、「ここに収められたトルーマン・カポーティの六編の短編小説は、それぞれに少年や少女の無垢さ=イノセンスをテーマにして書かれた物語である。」とのこと。
 収められているのは以下の六編。

 誕生日の子どもたち
 感謝祭の客
 クリスマスの思い出
 あるクリスマス
 無頭の鷹
 おじいさんの思い出

 好きな作家の好きな短編を、別の好きな作家が訳しているのだから、これはやっぱり嬉しい。たとえて言うなら、昔からずっと好きだった曲を、別の好きなアーティストがニューアルバム(あるいはライブ)でカバーしてくれたときのような感覚がある。本当だったら、『ミリアム』なども入れた、レイモンド・カーヴァーの『カーヴァーズ・ダズン』のような本だったらもっと嬉しかったのにとは思ったのだけれど、それはまあ贅沢というやつなのだろう。
 特に嬉しかったのは、カポーティの短編のなかでも1、2を争うくらい好きな2編が収録されていたことで、それは『クリスマスの思い出』と『無頭の鷹』になる。
『無頭の鷹』に関しては数日前のDaysでも一部を引用していたから、書店でこの本を見つけて目次をぱらぱらとめくったときには、思わず驚いてしまった。タイムリーだって。
 ただ、村上春樹訳のほうもわかりやすくてよかったけれど、この作品に関しては自分の中では河野一郎訳バージョンの方が繰返し読んでいることもあって、オリジナルというような感じがしてしまったのだけれど(訳でオリジナルって、少しだけ奇妙かもしれないけれど)。
 ただ、『クリスマスの思い出』の方はかなりいいなと思った。カポーティーが好きな人って、ある種壊れたようなところのある作品に紛れて、このような幼年時代を描いた一連の短編があることにどこかすくわれたような感覚を抱いてしまうのではないかと思うのだけれど、やっぱり今回も夢中になってしまった。カポーティーの実人生自体は結構大変かつどうしようもない地点に運ばれてしまっていたようなのだけれど、それでもこういう短編を創り出したという意味で、作家としてはやっぱり優れているのだろうなと考えてしまう。少なくとも、個人的にはやっぱり好きだと思ってしまう。
 幼いバディーの年上の親友が出てくると、その短編はやっぱり素晴らしいものなのだとなかば条件反射的に思ってしまう。単純なのだけれど。

「フルーツケーキの季節が来たよ!」という言葉で、みんなにミス・スックが親友としているわけではないのに、それでも自分にも彼女(あるいは彼女のような存在)がいてくれるような錯覚めいたものを感じられるのだ。誰の中にもあるだろう幼年時代への郷愁のようなものが行間や細部につまっているのだと思う。

 この短編は、個人的にはいままで読んできたいくつかの短編のなかでも、最良のもののひとつだと思う。とりわけ最後の段落になると、いつもいつも短編というものはこうあるべきなのだろうなと、わりと本気で思う。


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 今日は大阪にいる。ロード1日目。日曜日だったので街は混み合っていて、地下鉄のなかにも買い物帰り風の人が結構多かった。
 そう言えば、しばらく洋服とか買ってないなと思えたりもした。
 ただ単純に、1日買い物だけ! というような日を作りたいなとか。

 夕方、新大阪近辺を移動していたときに、ちょうど日が暮れようとしていて、なんだか随分と久しぶりに夕暮れを見ているような気がしていた。
 実際には最近でも他の場所でも夕暮れを見ているのかもしれないけれど、不思議なことに記憶からは抜け落ちていて、本当に随分と久しぶりに空がオレンジから薄く淡い夜の闇に染まっていく時間を体験できたような気がした。そういうのってたぶん得難いことで、ここ数日は自分で思っていた以上に疲れていたようなのだけれど、なんだかそういうときにはいいかもと思えるような時間だった。
 空のものすごく低いところを轟音を響かせて遠ざかっていく飛行機の機体を見上げることもできたりして(おそらく伊丹空港に向かって着陸体制に入っている飛行機なのだと思う。わりと短い間隔のなかで何機か遠ざかっていったから)、そういうのもおもしろい感じがした。


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 お知らせ

 今回のロードは厳密に言うと、大阪→名古屋→大阪→福岡なのです。


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