小手川ゆあという漫画家が好き。 村山由佳という作家が好き。
最近、「おっとり捜査」「アルカナ」「アンネフリークス」と立て続けに小手川ゆあのマンガを読んだ。 ボクはこの人が書く女の子が好き。特にあんなのような女の子が好き。現実には在り得ないのだろうが、もし、それが現実にボクの前にあったならボクは一撃でヤラれてしまうだろうと思う。
村山由佳の新刊「すべての雲は銀の…」を読んだ。 ちょっとだけ曲解を含めれば、この小説は今のボクのことを書いてるとしか思えなかった。読みながら何度も身悶えた。久しぶりにのた打ち回った。 ここまで「キク」小説も久しぶりだった。 何となく救われたような気がする。安易なハッピーエンドで決着を付けてくれなかったことは、ボクに救いを与えてくれたと思う。現実には(とくにボクの場合は)運がいいとしか思えない展開でのハッピーエンドなんて在り得ないのだから。
だけど、同時にボクは堕された気分でもある。 その小説の主人公は男として役に立たなくなっていたが、結局、男として「たった」。
ボクは自分の将来についてちょっと空想してみた。
大学を卒業したら大学院へ行こう。 関西大学に院でメディア文化論的な事をやっているところがある。そこが面白そうだ。 んで、院を卒業したら就職しよう。 地元(←岡山)でも大阪でもいい。 職種は整備士見習い。二輪の方をやろうと思う。 地元なら実家で生活する事が出来るから楽だろうなぁ。と思う。
このまま人の間で生きていくのは不可能な気がしている、最近。 ボクが何の気兼ねもなく付き合えるのは機械だけではないのかと思い始めている。ボクはやっぱり機械がないとダメな人間かもしれない。 もちろん、今だって気の合う人たちはいっぱいいるのだけど、それもずっと続くわけじゃない。一生付き合っていく事になるかもしれないけど、いつかは離れていく事になるかもしれない。 ボクにとって今、本当に一生の付き合いを明言できるのは機械達だけかもしれないなぁ、と思うの。
人生は長いような気がした。 それは別に大学を出てからでも遅くないのではないかと思った。
もちろん、今の段階では空想でしかないけどね。
一生の付き合いがうんぬんという下りは、ボクの中ではけっこう重要だと思うところです。 村山由佳の小説読んでても思ったのだけど、やっぱり人生は相対的じゃなくて絶対的なものなのだなぁと。 他人の痛みはやっぱり他人にはわからない。 例えば、AさんとBさんは同じ境遇にあるから、同じ痛みを抱えてるかと言えばそうとは言い切れない。二倍、酷い状況にあるから二倍つらい、なんて相対化出来ることなんて、人生にはなにもないような気がする。 だから、何かしら絶対的なものが欲しいんだよねぇ。 他人との繋がりでも、何かしら絶対的なものが欲しいんだよねぇ。
でも、絶対的なもの現実化しにくいでしょう? 少なくとも、今のボクには「絶対に…だ」と信じられるものはないような気がする。そうゆうのが具現化されるのってやっぱり小説とかマンガとか虚構の中だけな気がするのです。 安定して「絶対的」なものを提供できる存在。 ボクに理想を与えつづけてくれるのは、やっぱり虚構の世界だけな気がする。 あぁ、虚構の中に生きていきたい。
という衝動を抑え、ボクを現実に繋ぎ止めてくれるのが機械だけな気がするのです。だから言ったでしょや?ボクは機械に人生かけてるんですよ。マジでね。 (それなら、免停なんかになるなと言われそうだが。) 失ってみて初めてわかる?みたいな?
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