あえて述べる。 「なんでいまさら?」でも「いいわけ」でも「逆ギレ」でも何でもいい。 私は否定されるためにここに居るのだ。 私の人生はつまり否定で構築されている。 だから「あえて」なのだ。 そして、あえて述べる。 あるいはこれを読める、かつ読んでくれる人がいるかもしれないと、まだほんの少しだが希望を持てているのだから。
なぜ私がこのような言論を用いるのか。 それを知りたければ下記に引用する書籍を読んでいただきたい。 他者である私を少しでも"本当に"理解しようと思うなら、それくらいの対価は支払ってもいいのではないだろうか。
「人身御供論」大塚英志 より。
「唯一の物語」がもはや存在し得ない状況下においては、「現実受容」の手続きは反復され続けなければならない。
と述べる。あるいは、
(現実受容を)強引に完結させようとすることは唯一の物語による抑圧を生み出す。
と述べる。
それは私の求める自由に反する。 唯一の物語による抑圧から自由であろうとするには、つまり通過儀礼を続けなければならない。
さて、私は常に「乗る」ことと「書く」ことがライフワークだと吹聴してきた。 ライフワークである。 つまり、「書く」ことがライフワークである時点で逆説として「書かない」こともまたメッセージであることを免れない。 どのようなものであったとしても、それがつまり私が発した言葉の隘路であると刻まなければならない。
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