うるさいッ 最低なのはおまえだろうが
つごうのいいときは気味悪いほどもて囃し つごうが悪くなれば手の平返してたたきつぶす
なにもしなければ手を汚すこともない 安全な場所で正論語るのは楽でいいよなあ
安全な場所に居る人間は、得てしてそれに気付かない。 なぜなら、安全は安心を生み、安心は慢心を生む。 そして、慢心は盲目へとつながるからだ。
だから、そのような社会には必ず身代り羊が必要となる。 盲目の羊飼い達を導くために、身代り羊は必要とされる。 あるいは人身御供と言い換えても同じ。 盲目は聖者を供物として殺す。 彼らは御供を殺さなければ何も知る事は出来ない。
だから、遍く人の子等を愛する聖者はその身を捧げる。 聖者は人を博愛するからこそ、自ら十字架にかけられる。 そうして盲目の羊飼いたちは、自らの身を汚すことなく贖われる。
では、盲目の羊飼いと、彼らによって神へ捧げられる人身御供と、どちらが真実に近いのか? あるいは真実へと目を開こうとしているのはどちらか? どの時代にあっても、苦悩し真実への道を切り開いて行くのは、目を開き汚れることも厭わず、自ら泥の中に身を投げ出す者だけだと思いたい。
ちなみに冒頭のセリフは「彼氏彼女の事情」からの引用。 とりあえず、それだけは記しておきます。
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