どーもしばらくネット生活から離れていたせいか、少しばかり日記の書き方を忘れてしまっているようだ。 書き方とは、思考を日記用に言語化する手続きのことだ。 日記にしたい、すべき思考はあるのだけど、それを以前のようにスムーズに日記に出来ない。
それは問題なので、これからしばらくは更新頻度を増してリハビリしようと思うのです。 どうも語調も変に丁寧になってしまって、これでは先鋭的な思考は不可能ではないかと言う危惧もあるのです。
そんなこんなで今日はバイト先の新人君のお話です。
彼はダヴァーです。 わかりやすく言うとTW200に乗っている人です。 ちなみに走行距離3000km未満のかなりの高年式車です。 実際、きれいです。 うちの仕事場の前は309号線なのですが、彼はエンジン始動直後のTWにフルスロットルをかまし、けたたましいエンジン音とともに100km/h近いスピードで流れをリードしていくのだ。 ちなみに信号は全て早期発進。 車が来ていなければ信号無視も辞さない覚悟。
生理的嫌悪を感じた。 ああいう人にバイクに乗って欲しくない。 白バイが追っかけてくれば死ぬ気でバトルに突入する覚悟があるのならいいし、本気で暴走族をやる気なら許す。 そうでないなら降りてくれ、と思う。 もちろん、社会の基準はあいまいで個々人が判断する境界線は微妙に異なっている。 それを踏まえたうえであえて言うが、彼のマナーは一線を越えていると思うのだ。
想像力が足りない。 そして、なにより配慮が足りないのだ。 例えば、そんな乗り方をしたマシンを自分以外の誰かに譲り渡すつもりなのか? バイクはそんな扱いをしても簡単には壊れないように作られている。 けれど、いつかは手放してしまう機械に対して、それが見知らぬ誰かの手に渡ってしまうかもしれないのに、それでも君はそのTWに対してそんな扱いをするのか、と問いたい。 大人なので問わないけど。
自分が思うやり方と、社会からの要請と、対立する二者は常にせめぎ合っていなければならないと思う。 どちらか一方でも絶対に欠けてはならないし、この対立が解決してしまってもならない。 常に拮抗し、葛藤し、選択し続けなければならない。 それを放棄し、どちらかに傾倒する者は配慮を怠る。 中庸だ。 中庸とは、決定されない正誤の葛藤を抱き続け、思考し続けることではじめて保つことが可能となる。
おっと、いつもの俺的哲学論に突入してしまったようなので、ちょっと軌道修正。
ともかく、僕はそのダヴァーの新人君に嫌悪を感じたわけだ。 その事実を確認して、僕は少しほっとした。 「怒りの風化は作家の宿命か?スキルが上がるほど、情熱すらコントロールできてしまうのはすべてが相対的に見えるからか?」 とは、とある漫画のセリフだが、まだその境地には達していないことが確認できて嬉しかった。 今、僕はまだ全てが相対的に見えるほど大人ではない。 ひどく感情的な怒りを制御できないほど、僕はまだ若いのだろうと思う。 年は自分の中に経験を積み重ね、多様な経験は多様な価値観や在り様を許容してしまう。 相対化の果てに待っているのは自己の消失である、と考えている。 なので、自分の中に許容できない絶対領域があるという事実を確認できたのは、ある意味で喜ばしい、安心できる事実なのだ。
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