思うに人間には現在を認識する能力が備わっていないのではないだろうか。
在り得る全ての可能性が未来であり、確定した現実が過去となる。 では、現在はどこにあるのか? それは在り得る可能性が取捨選択され、在り得た可能性と確定した現実へと分岐する、まさに分岐点そのものではないだろうか。 そもそも、未来は可能性の集合であり、確定していない事象を同定する事は出来ない。 未来に対するあらゆる判断は全て予感であり、どれほど明確な予感であって、全ての判断は予想の範囲を逃れることは不可能である。 逆に言うと、それらの可能性が一つの現実として固定された後の過去に対しては、明確な判断を下すことが可能となる。
未来は判断不可能であり、過去は判断可能である。 よって、過去の出来事に対して誤りを指摘し改善策を提示することは可能であるが、同じ事を未来に対して行うことは出来ない。 では、現在に対してはどうか? 可能性の取捨選択の瞬間である現在において、適切な判断を下す事が出来れば人生から後悔を追放することが可能になる。 それは可能なのだろうか? この問に対して論理的な解答を、残念ながら僕は持ち合わせていない。 だが、経験から推論を提示してみる。 おそらく、現在は時間軸上で捉えると未来に属しているのではないだろうか。 可能性の確定、未確定という基準で時間軸を考えると、可能性が確定していない時点を未来、確定している時点を過去とすることが出来る。 同じく現在は可能性が確定する瞬間であり、可能性が確定しているかしていないかで言うと、確定していないのだ。 つまり、現在と言う時点は、在り得る全ての可能性が未だ決定していない状態であり、故に人間は現在に対して適切な行動を判断できない。
要するに、その判断が良かったのか悪かったのかは、やってしまった後でしか分からないという事だ。 よって、現時点での僕の結論としては、「もう後悔しか出来ない」というジグマール隊長の言葉に同意するしかないわけだ。 予防など原理的に出来ない。 自らの行為に対しては後悔しか出来ない。
さて、それを踏まえたうえで湾岸ミッドナイトの一節を引用したいと思う。 エイジの父親が言ったセリフだ。 「後悔か・・・。まあ時々はしてるかあ。でもな、納得してるコトやん」 ああ、そうだよな。 と思う。 僕がいつもあれこれ考え込むのは、何も考えずにただ後悔だけで終わりたくないからだろう。 ちゃんと自分で考えて、自分で選んだ行為の結果なら、後悔しても納得は出来る。 そして、納得できれば、後悔を受け止めて、後悔を抱えたまま次へ進める。 あらゆる結果は自分の選択の結果であり、よってこの世の中に自業自得でない過去などありはしない。 だから、僕の人生から後悔がなくなる日は決して訪れないだろう。 でも、納得できる人生を送りたい。
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