木洩れ日の中で…

2006年03月01日(水) 卒業式

やっとの思いで卒業式まで漕ぎ着けたという感じ

だけど、卒業式では感激すると思っていたのだけれど反対に腹が立つばかりで泣けてきた。

卒業式の祝辞で…『倉○南高校は面倒見の良い学校です。』『とても思いやりのある生徒ばかりです。』という言葉を聞く事にそれは違うじゃないかという気持ちがあふれてきた。

式が終わり娘のクラスに行くと、あちこちで写真を撮ったりはしゃいだり、それから寄せ書きをしているといった様子。
だけど、それはまるで…クラスの一番後ろの廊下側にいる娘にとっては関係ないかのような雰囲気。
誰一人として声をかけるわけでもなく、写真を撮っている本当に横に居ても無視といった雰囲気。
親としてはいたたまれない気持ちになった。

確かに6月末から学校には登校できない状態にあったが、1度としてもクラスメイトから電話が来るわけでもなく、手紙が届くわけでもなかった。

クラスで、最後に担任の先生から言葉があった。
涙を流しながら『君たちは僕にとってとても良い生徒たちだった』『思いやりがあり、まとまりのあるクラスだった』としきりに言っていた。

それを聞きながら…私の心境はとても複雑だった。

確かに娘の卒業に関してはいろいろ面倒をかけたが、1度も家庭に訪問してくれたわけでもなく、娘が学校に行きやすいように配慮して友人に声をかけてくれた訳でもなく…勉強のために宿題を出し、提出だけでもしなさいと指導してくれることもなかった。

そんな中、勉強をする意欲も失い、学校にも行けず、本当にどん底の自宅での生活の中、あと1週間出席をすれば(席に座ってさえ居たら)なんとか卒業できると聞き、頑張って学校に送り迎えをしたが…
クラスの雰囲気を見ると本当によく頑張って行ってくれたものだと涙が出てきた。

卒業式に、娘は2年の時に同じクラスだった人に、スヌーピーのかざりを貰っていた。

式の後、16時まで自由解放のクラスの中で…娘は逃げるかのように帰宅した。

娘の不登校の原因は分からないと思っていたが、最後の卒業式でなんとなくわかったような気がした。
虐めではないと言っていた娘だったが、クラスに入りきれない娘に対して『無視』に近い精神的な虐めのような気がした。

2年の時のクラスはよかったのだと思う。
生き生きしていた娘が思い出される。
クラス替えの中でもっと配慮があったなら…日本史専攻のクラスと世界史専攻のクラスと分ける時に、3クラス編成の中どうして混合の日本史、世界史半々の中に『大人しい』といつも性格欄に記入していた娘を入れたのかがとても疑問でならない。
2年次の娘の様子をはっきり把握していてくれたら違った学生生活になったのではないかと今でも悔やまれる。

人生の中での大切な岐路に立ち、学校にも行けなくなりやる気まで失って(失わされて)しまい人生が変わってしまったような悔しさがいつまでも残って仕方がない。

卒業式、それは…学校が娘に対して(^。^;)ホッとした時間だったのかもしれない。


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