日々是迷々之記
目次|前|次
世間は3月だが、まだまだ冬の気分だ。定時に上がると空がまだ青いのがせめてもの救いか。
見舞いには行くが母親の顔は見ていない。結局鬱病であることを婦長さんに話して、物を取るときなど看護士さんに取ってもらうなどの便宜を図ってもらっている。
明日、ひな祭りの日は母親の65歳の誕生日だ。誕生日。昔私が中一で母親と二人暮らしだったことのことを思い出す。せめてものプレゼントをと思い、私は同級生の花屋でスミレの小さな鉢植えを買った。花は一つだけ開き、つぼみが2つくらい。持って歩くのがちょっとわくわくするかわいいスミレだった。
が、母親は「なんでそんなムダ遣いするの?」と一蹴し仕事へ行った。(当時スナックをやっていたのだ。)一瞬でスミレは地味な存在に成り下がってしまった。じゃあ、お菓子でも買えばよかったかなぁと思うが、この誰にも気にかけられないスミレは私と同じなのだと思った。台所の窓の脇に置き、つぼみがふくらむのを見守った記憶がある。
こんなことは20年前のことなのだ。忘れて、献身的に母親を見舞えばいいのだろうが。ひっかかる。「この人はスミレに託した気持ちを一蹴した人なのだ。」そう思うと足が向かない。
おばさん(母親の妹)によると、「わたしの子育ては間違っていた。」と嘆いているそうだ。それは、「間違った子育てをしたから見舞いにも来ないような情のない子供になってしまった。」なのか、「私はちゃんと育てたのに、あいつは見舞いにも来ない。」なのか母親の気持ちはどちらなのだろう。まぁ、65歳になったからといって、悔い改めるようなキャラではないので、私が悪者なのだろう。
先日夜中の2時頃携帯電話が鳴った。入院している病院からだった。自発呼吸があやしいので、気管に送管してもいいかという。別にどうでもいいけれど、まぁやってくださいと言っておいた。泥酔して睡眠薬を飲んでおり、その状態で熟睡していたので訳が分からなかったというのもあるが。
世間は春かもしれないが、私はすんなりその中に入れずにいる。会社の上司への不信感、うつに対する偏見、そして母親。私には明るい顔になれる要素がひとつもない。
春は私の上にも降りてくるだろうか。
|