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| 2002年09月30日(月) |
神を頼らずウォーキング〜みずひきぐさ |
今日はこのあたりしとしと雨であったかと思われますが、わが心にも涙降って いたわけではなくて、風邪薬飲んで寝てました。
ところで、私はウォーキングというのをしておりまして、これは体調が良くてやる気のある時にはなかなかいいものだと思っておりますし、また風邪が治ったらやりたいと思っているのですが。
なんだか人って愛らしいというか、不思議な面白い生き物だなと思われることがありました。
何が不思議か、って。。。うまく説明できるかな。わけわかんないかもしれませんが。
私はただウォーキングとかお散歩を、楽しんでいるので、それでいいと思うのですが。
神に頼らずウォーキングしませう、というキャッチフレーズのお誘いがあったのです。で、お誘いは嬉しかったのですが、何故、神に頼らず、というフレーズが出てきたのだろう、という不可思議にひっかかって、立ち止まってしまいました。
私は神に頼ることとウォーキングとを結びつけて考えていなかったので、およっと思ったんです。
神頼みは神頼み、ウォーキングはウォーキング、と思っていたのです。で、神頼みってちょっとだらしないじゃないかとか他力本願じゃないかとか汚らわしく感じられる向きもあるかと思われます。それはそれでけっこうなのですが。
私ウォーキングのついでにお参りしちゃったりすることもありました。それはそれで自由だと思うし。
で、神に頼ってウォーキングしたっていいじゃないですか、という気がしたので、 なんだかそのお誘いに乗っていけなかった。風邪だったせいもありますが。ちょっと残念ですが、なんだかそういう励ましがまだシンドイので、当分1人か家族と 歩くのが楽な気がしました。
で、私自身、神も仏もあるもんかい、神様って酷いわ、とか、今までに、散散神仏に悪態をついた覚えもあるんですが、なんだか変ですよね、空中に向かって怒っている。そんなら自分で頑張ればええもんを、やっぱりいざとなると1人じゃ心細いもんで、神様助けてぇ、私のそばにいてよぉ、とかってばたばたしたりして、随分とお見苦しい点の多々ございます、自分勝手な信徒ですから、きっと神さんも、ふんっ、なにさ、ぽよよんなんて、そんなやつ、わしゃ知らんわ、と眉間に皺を寄せておられるかも知れませんし、ぽよよんがあまり栄えないのも無理は無いと思われるのですが、それにしても(ま、私は、マイゴッドがただ静に私を責めずに黙ってそばにいてくれると信じられただけで安らいでいるおめでたいやつです)。
ほかの人もやっぱり何だか内心色々と大変なので、それで、突如として、神を頼らずウォーキング、などというキャッチフレーズが出てきたのかな、と。いや、きっと私みたいな呆けを救おうとしてくださったに違いない。
で、神を深く信仰している人たちが、戦争だテロだと騒いでいるわけですから、神なんか信じたってろくなこたあねえ、と思われる向きがあるのも当然という気もするのですが、しかし、やっぱり人間って。
宗教的な儀式をしたりするのはやっぱり人間だけですよね。そこにうさんくささとか人間臭さとかいやらしさとかが渦巻いているように思われるのですけれど。
宗教が人間を堕落させるのか、人間だから宗教を求めずにいられないのか。宗教を 否定したりするところにもまた人間臭さがありますね。
それにしてもイラクを攻撃する大義名分ってあるのかな。独裁政権だから?気に食わないから?自由を守るためには人殺しも止むを得ない?アメリカが大量破壊兵器を持っているのは構わなくて、イラクが大量破壊兵器を持つ自由はないのかな。勝てば官軍っていうことかな。
まあ正直なところは、イラクのフセイン大統領の人柄よりはブッシュさんのほうが 今の私には親近感は抱けるような体制に置かれているのだけれども。イラクの大統領の人柄はあまり素直に伝わってこないですものね。でもイラクの人たちだって 同じ人間だと思うんだけど、戦前の日本みたいに、やっぱりアメリカに対抗するような体勢になっているということかな。日本のマスコミは、イラクの大統領の 談話とかを、アメリカとかイスラエルとか抜きで取材できたりしているのでしょうか。アメリカさんはイラクをスケープゴートにしようとしているんじゃないのかしら?ブッシュ大統領とフセイン大統領との友好的な会談というのは成立しないのかしら。成立したらブッシュ大統領ってとっても素敵だな。そんなことは有り得ないのかしら。アメリカとイラクが万が一仲良くしたら、イスラエルがご機嫌悪くなったりするのかしら。アメリカとイラクって仲良かった時代もあるんですよね?ほかの国と喧嘩してたときは?なんだかどこでもくっついたり離れたりどたばたしているもんなんですね。しかしイラクがアメリカに面と向かって闘うべ、と言っているわけでもないのに、秘密裏に危険な兵器を作ってアメリカを滅ぼそうと意図しているなんて考えるのは、なんだか私の神頼みよりも余程重い精神病的なものを感じるのですが、失礼でしょうか。めくそがはなくそを笑うようなもの?イラクは、というより、フセイン政権は、正々堂々としたフェアな国ではなくて、秘密裏に他国を 滅ぼそうとしているようなやつではないか、というような考えにとりつかれている ように見えてしまう。それってすごく失礼なきがする。でもブッシュ大統領の方が主張がシンプルでわかりやすいし、こうなった以上こうするしかないみたいな緊張した気持ちはわかるような気がしてしまう。でもイラクの立場に立ってみても、アメリカには大量の兵器があるのがわかっているのに、全面降服というか、親米でないと承知しないみたいな脅しとか、内政干渉みたいな態度は、何だかやっぱり不愉快なのが普通じゃないかなと思う。
それにしても、私暇というわけでもないのに、時事ニュースにもはまっているんだな。やっぱり去年の9月のビルの事件が衝撃的だったからかしら。知らなければ 他所で何が起こっていようと気にしないでいるのに。きっと自分のことを直視するのが耐えられないんですね。だから遠い国のことに想いを馳せたりするわけだ。 誰だって病気になったら優しくされたいと思いますよね。煩わしいことは面倒になるし、元気がないときに人のいうことを素直に聞くのは大変で、面倒は嫌だと 思う。それで時事ニュースの世界に逃げるんですよね。たぶん私は。そういう時なんです。
あぶはちとらず。そうだ。明日は病院だし。明日は都民の日で学校お休みらしいのですが、病院はお休みではないのかな。都立なのに。先生、仕事熱心なあまりに、 火曜日は祭日だと気づかずに子供の診察の日に指定されたのではないかと思ったりするので、朝電話で確かめてから行こう。
それにしても四季の移り変わりのある日本の自然。
母が水引草という野草を好きだと語っていたのを思い出します。バラの花みたいに 華やかな花ではないのです。萩の花ほども華やかではないのです。赤いちょんちょんとした花ですが。それで、名もない路傍のお地蔵さんなどを見るのが好きだと語っていた。
私はけっこう有名人というのは一角の人だろうと思ってますが、でもそんなふうに無名のものをいとおしんだ母に可憐な貴いものを感じます。そして、もしかすると 主人には母に似たところがあるような気がしたりすることがあります。
しかしどうかなあ。イラクにもアメリカにも信心深い人は沢山あるでしょうけど、 大統領っていうのもやっぱり信仰を持っている? 小泉総理も神社を参拝するということは。 やっぱり世の中の怖さから身を守りたいというか。安心したいというか。そういう 時に、もしかしたら、やっぱり自分の命を捨てて守ろうとしてくれた存在というのは、ありがたいと感じないわけにはいかなかったと。アメリカ人だって身を捨てて 人々を守ろうとした消防士さんたちとかにヒーローを感じて頭を垂れるだろうし。
それにしてもどうして日本は大陸に侵攻していったのか。同じアジア人だという 感覚、善意がもしかして大東亜なんとかになったとしたら、やっぱりその前に自分はしがないちっぽけな1日本人に過ぎない、ということをわきまえておくのも、友好の仲にも、必要かな、と思いました。
うるさいな、と思っても、かまってもらえると、憎めなかったりすることもあるけれど、でも、人種的な相違というのは面と向かっていつも違いを見られるけれど、 東アジアの人々とは外見上さほど違わない分気をつけたいですね。でも中国の人が 喧嘩するほど仲がいいという言葉を使っているのは正直に話し合おうということで、いいと思います。 歴史を知って加害者だったことをわきまえて行動するのは相手を理解するのに大切だと思いますが。あたし自身が中国の人を殺したわけでもないのにどうしてこんなに言われなきゃいけないの?みたいなのもありますよね。
そうしてみると、私の生き別れた娘なんかでも、自分のせいじゃないのに何かあるとどうして嫌な目に遭わなくちゃいけないの?みたいな気分になることもあるに違いないと思います。でもあの時私は親だったら子供の奪い合いはしないものだみたいな父親の理屈に負けて親権捨てたんですから、もうどうしようもないですね。 自分が悪かったとも思えないし。
ところで中国の庶民の人はお葬式とかどんな風にするのかしら。北朝鮮ではやっぱり金日成主席とか正日主席とかが信仰の対象みたいな構造なのかしら。イラクでも?庶民はどんな形式でお葬式とか結婚式とかをするのかしら。
アリランってありましたね。どういう意味合いのあるものなのかな。きれいなお祭りなのかな。
青年の独立心のようなものが、もう子供なりに自分の中で美意識ができつつあるのに子ども扱いされるとむっとするように、私の中にも何か未分化の美意識のような ものがあるのかもしれない。で、私は、個人的には気の置けない人と交流したいという希望はあるけれども、あまりエネルギッシュに多くの人と社交していくのは今の私の自然じゃないんだな。
独り言言っているのが気楽な時もありますね。
欝というのはたぶん食欲もなにも無くなるんじゃないかと思うので、自分が眠くても眠っている子供を起こして学校に行くようにしようとするのは、欝とは違うだろうとは思う。
例えば社会に出たばかりの新入社員のような初心とか、赤ん坊が生まれたばかりの 若い母親の初心とか、いかにも初心者の時と言うのはやはりいいですね。
いつまでも初心を忘れずにいたいと思うのに。
でも今晩もまだもっと眠るつもりです。咽喉の痛みは引いたみたい。
それにしても、私の生きがいって何なんだろう。やっぱり子供なのかな。
それともこんなふうにぐじぐじ思い煩うのが生きがいなのかな。
しかし人は何故何かを面白いと感じたりつまらんと思ったりするのだろうか。 ちょっと不思議な気がしました。
だって息子が生まれた時、息子は、ぼよよーん、とした、もにょもにょ動く 物体であって。。。
それが今では、らんま2分の一のアニメを見て、見てみて、これ絶対面白いよ、などと黄色い声で言うのですが、一体何を基準にして面白いとかおかしいとか思うのか、不思議だと思うんです。きっとこういうのが普通だとかまともだとかいう基準が子供の中にできてきているからそれにはずれていたりするとおかしいと感じて笑うんじゃないでしょうか?
しかし何がうちの息子の基準なのか?考えると怖かったりする。
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